123話 リティアの過去  4


 暗闇の中、逃げたはずの姉の声が聞こえた。


「カイ!」


 暗闇の中、逃げたはずの姉の声が聞こえた。


 ……え? 


 ゆっくりと目を開ける。

 そこには、両手で持った岩を、魔獣の頭へ叩きつけたリティアの姿があった。


「カイ!!」

「お姉ちゃん!?」


 リティアは驚きの声を上げるカイの体を両手で掴むと、そのまま巨木から離れるように森の中へ引きずって行った。


 しばらく逃げ続ける。振り返って確かめると、魔獣は追って来てはいなかった。

 それを確認すると、カイを支えていた両手から力が抜ける。2人でヘナヘナとその場にへたり込んだ。


 そんなリティアへカイは問いかける。なぜ戻って来たのか。それが疑問だった。


「お姉ちゃん……な……なんで……」


 すると、突然リティアがカイに抱きつき、叫んだ。


「置いていくわけないでしょ!! カイは私の弟なんだから!!」

「……っ」

「私、カイが1番大好きなんだよ!? ずっと一緒にいたいの!! だから……だから、もう……あんなこと言わないでぇ……うあああ……」


 傷だらけのカイを抱きしめたまま、リティアは泣き出してしまった。


「お……お姉ちゃ……」


 彼女の泣き声を聞いているうちに、緊張が解けていった。そして、押し殺していた感情が浮き出始める。


「う……うああああ……こ……怖かったぁぁ……」

「うん……ごめんね……ごめんね……」

「お姉ちゃん……うああああぁぁ……」


 もう会えないと思っていた存在に、力の限り抱きついた。

 目の前にいる。それを少しでも実感出来るように。


 しばらく互いに抱きしめ合い、泣き続ける。

 ふと、カイは我に帰った。今は少しでもはやく壁に向かわないと。


「お姉ちゃん、もう行こう。ここに長居は出来な……」


 顔を上げたカイの目に、とあるものが飛び込んだ。



 それは、大口を開けてこちらへ迫る狼型魔獣の姿。



「お姉ちゃん!!」

「わっ!?」


 突然突き飛ばされ、困惑するリティア。

 次の瞬間、目に映ったのは大きな顎に体を挟まれ、高々と持ち上げられている弟の姿。


「……ぇ……?」


 一瞬、その光景を理解できなかった。ついさっきまで抱き合っていた弟が、目の前で襲われている。


「い……いやあああああ!! カイィ!!」


 リティアの悲痛な叫びが森に響き渡る。


 そんな彼女を、狼型魔獣が見下ろした。

 しかし、魔獣は何かに驚いた様子を見せ、カイを投げ捨て茂みの向こうへ逃げて行ってしまった。

 投げ捨てられたカイは木へ叩きつけられ、その根元へ寄り掛かかる。

 その元へ駆け寄る。


「ああ……カイ……カイ……」

「ぅ……ぁ……お姉ちゃん……」


 ほんの十数秒の出来事。

 たったそれだけの時間で、目の前の弟から大量の赤い液体が流れていた。


「ぁ……あ……ど、どうしよう……どうしよう……」


 それを目の当たりにし、慌てふためくリティア。それに対して、カイは冷静だった。


 あの狼は逃げたのではない。きっとまだ近くにいる。

 もし……もしあの時自分が、泣かずに彼女とそのまま逃げていたら……こんな事にはならなかったのかもしれない。


 しかし、どれだけ悔やんでも、それはもう後の祭り。


「お姉ちゃん……ごめん……ね……」

「カ……カイ……! お願い、喋らないで……! 絶対に連れて行くから、安心して!」


 リティアは何とかして連れて行こうと、カイの両手を握った。

 認めたくない現実を、必死に頭の中から追い出す。ただ、瀕死の弟を助けようと考える。


 その様子を見て、カイは微笑んだ。


「お姉ちゃん……ほんとに優しいね……」

「カイ……うん。絶対に助け……」


 しかし、そのリティアの言葉は遮られた。突然、カイに突き飛ばされたのだ。

 尻餅をつき、腰をさするリティア。


「いたた……な……何するの? カ……イ……?」



 目に映ったのは、自分の胸へナイフを突き刺したカイの姿だった。



「……ぇ……?」


 彼の口から吐かれた赤い液体が、自分の元まで飛び散る。苦痛に歪む彼の表情が目に映る。

 その光景への理解が、じわじわとはじまった。


「い……いやぁ……」


 思い切り叫びたくとも、声が出ない。空気漏れのようなかすれた声を出しながら、彼のもとへ駆け寄る。


「ああ……そんな……そんな……」


 胸の傷は深い。一眼で致命傷だと判断できるほどだ。

 ただそれを見つめることしか出来ないリティアの耳へ、弱々しい声が届いた。


「お……姉ちゃん……見て……ボクはもう、助からない……だから、お願い……置いて行って」


 衰弱し切った声で、涙ながらに伝えるカイ。

 それは、足手まといにしかならない自分を、置いて逃げさせるための行動だった。


「そんな……カイ……」


 リティアも既に分かっていた。

 ここまでの深い傷。たとえ壁まで運んだとしても、助かるはずがない。

 下手をすれば、今にも……。


 自分を逃すため。自分を守るため。

 弟がとった行動を、理解出来ぬはずがなかった。


「ごめんなさい……私……カイにいつも守ってもらってたのに……なにもしてあげられなかった……本当に……ごめんなさい……」


 今すぐに逃げないと、彼の思いを無駄にしてしまう。それは分かっている。

 しかし、謝らずにはいられなかった。


 いつも……そして今も。自分は助けてもらうばかりで、なにも……。


「そんなことないよ……」


 静涙を流すリティアの耳に、声が届いた。


「お姉ちゃんは……いつもそばにいてくれた……」


 そう呟くように話すカイの表情は、体中にある傷からは想像のできないほど、安らかな笑顔だった。


「ボク……ほんとは怖がりで……毎日が……生きてる事が……怖かった……」

「……」

「でもね……ずっとお姉ちゃんが、そばにいてくれて……『寂しい』とは、1度も思わなかったんだ……」

「……」


 リティアが、静かにカイを抱きしめた。耳が彼女の胸へ密着する。

 カイが嬉しそうに目を細める。


「いつも……こうしてくれたよね……」


 辛いこと、傷ついたことは毎日のようにあった。そんな時は、リティアが必ずこうして抱きしめてくれていた。


「うぅ……カイ……カイ……」


 いつも抱きしめていた弟。いつまでも隣にいると思っていた弟。

 いつまでも2人でいると思っていた。


 しかし、現実は2人を引き離そうとしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る