第2章 穢れなき青の願い〜ロディーヌ

第1話 世界を繋ぐ大街道

 朝焼けは素晴らしい薔薇色だった。青い山脈もこの時だけは、目も覚めるようなその色に包まれる。泉の王国は世界の東端、どこよりも朝が早く、朝が美しいと言われている。青の中に広がる薔薇色を、人はまるで女神の吐息のようだと言う。それはほんのひと時の美しさ、世界の不思議を垣間見る瞬間だ。ロディーヌは輝くその空を見つめた。美しいものに包まれると、まるで祝福されているかのように感じる。それは旅立ちの朝にふさわしい喜びだった。


「青は命で、薔薇色は……」


 愛の色だと言う人もいたけれど、ロディーヌにはまだその感覚がよくわからなかった。両親や兄たちのことは愛している。その感情を色で表せば、柔らかく温かく幸せなものであることは確かだ。けれど、今目の前に広がる薔薇色とそれは何かが違うと思うのだ。


「わからないものは仕方ないわよね。でも本当に綺麗な色。いつかこの色の意味がわかる日が来るのかしら……」


 ロディーヌのつぶやきの前、やがて世界は清らかなる青へと変化を遂げる。爽やかな春の日の始まりだ。ロディーヌは大好きな我が家を振り仰ぎ、一つ頷いて歩き始めた。


 天空草の群生地はまだまだ緑一色で、心地よさそうに風に揺れている。大街道に出るにはいくつかの方法がある。一番簡単なのは、領主館の前の道を南下することだ。けれどロディーヌはそうはせず、少し遠回りになる聖域からの道を選んだ。

 かつて兄たちと駆け抜けた道、一人祈りとともに天空草の苗を運んだ道、そして昨日は両親と聖水を胸に歩いた道。領地を西へ進んだロディーヌは、やがて「癒しの泉」に出た。朝の泉はひんやりとした空気に包まれていて、その清らかさが一層際立っている。そっと覗き込めば、青く深く、今日も美しく輝いていた。


 ロディーヌはバッグから小さな容器を取り出し、岩の隙間からちろちろと流れ出す冷たい水で満たした。今日一日は持つだろう。それから両手で受けとめた水を飲む。それは聖なる儀式、聖なる誓いだ。そうしてロディーヌは心から祈った。帰ってこれますように。必ず、ここへ。兄たちと一緒に。

 サフィラス家の悲劇はこの泉から始まった。けれど今のロディーヌにはそれがとても大切なことにように思われるのだ。恨みなど、もうとっくに消えている。今はただ、自分に託された役割を強く強く感じるのみだ。残された多くの想いを西へと運び、結びつける。そこに何が待っているのか、何が起きるのか、想像もできなかったけれど、そうすべきなのだという熱い想いがロディーヌを支えていた。女神に祈りを捧げ終わり、大きく息を吸ってロディーヌは立ち上がった。


 足取りも軽く春の花咲く道を歩けば、何だか不思議な気分になる。遠くへ行くような気がしないのだ。しかしそれも致し方ないこと。なぜなら経験がないからだ。そしてそれはロディーヌに限ったことではなかった。

 他国との交流はあるものの、自ら国外に出る人はほとんどいない。旅人といえば、宮廷の高官や商人などの限られた職種の者たち、または国から国へと渡っていく旅の一座くらい。多くの人はまだ、街に立ち寄る者たちから珍しい話を聞いて楽しむだけで十分だと考えていた。


 かつて、その役割を担っていたのは吟遊詩人たちだ。大街道が出来る前から、自由自治区が今のように大きな都市でない頃から、彼らは世界のあれこれを知っていたと言われる。各王国の宮廷を渡り歩き、歌い爪弾き、美しい言葉を数多く残した。各国の古言に時々同じ言葉が見つかるのは、吟遊詩人たちが運んだ言葉に共感した者が、それを自国の言葉として取り入れたからだ。

 けれど、そんな詩人たちも今はほとんど見かけることがない。代わりに旅の大きな一座が生まれ、世界を繋ぐ芸術のあり方も変わった。

 そんな一座には女性も含まれてはいるが、その数はまだ圧倒的に少なかった。フィオレンティーナの領主館にも国外からの客人が滞在することがあったけれど、夫婦同伴などというのは皆無だったのだ。ましてや女性が一人で大街道をゆくなど、ロディーヌは聞いたことがなかった。

 では世界はそれほどまでに危険に満ちていたのかというと、そうではない。逆に何の問題もなく穏やかだった。この世界にはもうしばらくいくさなどなかったし、整備された道はどこまでも十分に役割を果たしていた。険しい辺境の地を訪れるなどという特殊なものでない限り、女性の一人旅も実は可能なことなのだ。ただ、それをなそうとする者が、必要とする者がいないというだけで。そんな中、ロディーヌは大いなる使命を、予想もしなかったきっかけを与えられたのだ。


 聖域からの細道が、やがて大街道と交差する場所に出た。ロディーヌは立ち止まり辺りを見渡す。朝も早い時間、まだ人影はなかった。


「この道が世界の果てまで通じてるなんて……頭ではわかっていても想像できないわ。信じられない、この道がねえ……」


 大街道の周りには多くの人の住まいや広場が作られているし、天空草の花は摘み取られた後水路を通り、出荷に備えて大街道沿いの倉庫へと運ばれた。それは世界に通じるというより、自分たちの生活に欠かせない誰もが知る道だった。

 そんな大街道には、世界のどこであろうと同じ石が使われていた。石は優しい薔薇色をしている。雨に濡れるとそれが少し濃い色になるのがロディーヌは好きだった。


「ちょっと遅かったわね。見損ねちゃった。朝焼けに照らし出される大街道って、一体どんな色なのかしら。もっともっと薔薇色? でも……この先できっと見ることもあるわね」


 そう口に出せば、明日からの生活は今までとは違うのだという現実がわき上がり、鼓動が嘘のように打ち鳴らされるのを感じずにはいられない。

 振り返って見た領地には、ここかしこに散りばめられた小さな泉の輝きが、緑色の群生地とともに揺らめいていた。この美しい風景ともしばしのお別れだ。大好きな風景、愛してやまない故郷。兄たちと必ず帰ってこようと、何度も何度も胸の中で繰り返し、ロディーヌは大街道を西へと進んでいった。

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