16. やってみたい


 ミイとセックスをしていると、自分の中の正しさみたいなものが、どんどんと失われていく気がする。


 耳元でねだるようにささやかれる言葉。彼女の欲望。

 その通りに身体が動く。自分の理性とは反対の方向に、心さえも動いている。


 シーツをつかんだ彼女の手に、さらに力がこもる。乱れるたびに、その布はくしゃくしゃに縮んでいく。


 エアコンの温風が熱い。

 汗がじっとりと互いの身体についていた。セックスを終えてシャワーを浴びた彼女は、下着姿で長い髪からポタポタと水滴を垂らしていた。


 その体勢のまま、彼女はしばらく下を向いていた。


「ミイ?」


「うん」


 声をかけると、コクンとうなずいて反応した。

 散らばった服を片付けると、彼女は髪を乾かした。その間、彼女は一言も発しなかった。


 俺たちは買ってきたドーナッツを食べることにした。冷めたコーヒーをレンジに入れて温め直した。


 ちゃぶ台の方を見ると、ミイはポンデリングを手でバラバラに分解していた。


「何してんだ?」


「こうした方が食べやすいかと思って」


「そんなことないだろ」


「そうかな」


「そうだよ」


 分解したドーナッツの一つを食べると、ミイは不満そうに言った。


「昔の方が美味しかった気がする」


「ちょっと小さくなったよな」


「味も違う」


 ドーナッツを手でもてあそびながら、彼女は再びそれを口に入れた。


「サキ兄の家で食べたやつの方が、ずっと美味しい」


「ものは同じだよ」


「何でだろう」


「思い出補正」


「それはあるかもしれない」


 ただ黙々と手を動かして、ミイはドーナッツを平らげた。買ってきたものを全部食べたが、空腹は満たされなかった。


「ドーナッツ食べたら、腹へったな」


「ご飯あったから。チャーハン作るよ」


「米まだあったけ」


「昨日買ってきた。まとめて炊いて冷凍に入れておいたの。作るから座ってて良いよ」


 むくりと立ち上がるとコンロの電源を入れて、狭い調理台でベーコンを千切った。フライパンに油をひくと、そこにご飯を入れた。


 といた卵が、フライパンの上で跳ねていた。


「はい。できたよ」


 卵チャーハンを置いて、彼女は俺の横に座った。


「食べて」


 顔を近づけると、鶏の出汁の香ばしい匂いがした。


「美味しい。コンソメ入れた?」


「うん。生姜しょうがも入れてみた」


「よくできてる。ミイは食べないのか」


「私は、もうお腹いっぱい」


 そう言って、彼女は手に持っていた缶ビールのふたを開けた。


「また飲むのか」


 彼女は俺の言葉を無視して、ゴクゴクとビールを飲み始めた。美味くもなさそうに缶をテーブルに置くと、ミイはおもむろに口を開いた。


「ねぇ、サキ兄、相談があるんだけど」


「何だ」


「私、働こうと思う」


 彼女は俺が食べる姿を見ていた。


「どうして」


「今日、渋谷に行って思ったの。何かしなきゃいけないって。学校行かないなら、働こうかなって思ってる」


「未成年だとどうなんだろ。保護者の許可どうやって取るんだ。実家に連絡するのか」


「それは嫌だ。バレたら連れ戻されるし」


 ミイは大きく首を横に振った。


「どうにかならないかな。学生証は持ってきたから」


「書面だけだったなら俺が代筆しても良かったけど、遠くの学校だってバレたら、面倒くさいな」


「そっかあ」


「厳しいな」


「どこか。ないかな」


 彼女は悩んだように、うつむきながら言った。


「ほら、例えば前にサキ兄が行ってたみたいな風俗店。ああいうところなら、もしかしたら」


「バカ。やめろよ」


「本番しないなら。我慢できるかもしれない」


「やめろって」


 寒気がする。


「きっと後悔する」


 たまに喫茶店に来る客が脳裏をよぎる。


 元風俗嬢と言っていた女は、ネットで客を募っている。手首はズタズタで、その女の目のくまが取れたところを見たことがない。


「でも、サキ兄が行った風俗店の子はそんなことないんでしょ」


 俺が忠告すると、ミイは不満そうに言った。


「普通にできる子もいるじゃん」


「お前には無理だよ。俺には分かる」


「何それ自分勝手」


「良いよ。俺がしばらくは養うから」


「そういう問題じゃなくて。何かしていないと。このままだと、自分がダメになってしまう」


 ビールをちびちび飲みながら、彼女はうつろな遠い目をしていた。


「そうだな」


 俺がバイトに行っている間は、ミイはずっと家で待っている。それが今の彼女にとって、あまり良いことでないと言うのは分かる。


 信頼できて安全で、それでいてミイを雇ってくれそうな場所。


「あそこなら」


 路地裏でタバコを吸うバニラが、サッと脳裏をよぎる。


「相談できるかもしれない」


「あるの?」


「ある。コスプレ喫茶だけど」


「コスプレ喫茶?」


「いや、やっぱ、やめとくか」


 メイド服を着て接客しなきゃいけないんだよ、とミイに言う。性的なものではないが、女子高生が働くとすると相応しい場所とは言えない。


「何それ。やってみたい」


 そんな説明も逆効果だったようで、目をキラキラと輝かせてミイは身を乗り出した。

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