第20話 光明(前編)
ぱたん、と音を立てて携帯を閉じる。あとは返信が来るのを待つだけだ。
四月に始めたこの定時報告だが、二カ月も続けていると慣れてくる。
春先のようにひどい症状が起きれば詳細を送るが、それ以外の日はもう定型文で送ってしまう。それは尊都も同じなようで、大体はいつも同じ一言が返って来る。
そろそろこの定時報告も有事の時だけにした方がお互いに良いのではないか、などと考えていると携帯が短く震えた。今日は返信が早い。これは早く寝られ——
『お兄ぃ、いま大丈夫?』
おかしい。
いつもと様子の違う妹の返信に心配しつつ返信すると、すぐに一定のリズムの振動が始まる。
「どうした?」
『ん~、特になにも。ちょっと違和感があった、みたいな?』
「怪我でもしたのか⁉」
『あ、そっちじゃなくて。お兄ぃのメールの方』
良かった。ひとまずはそこに安堵する。
尊都の体の心配は勿論だが推薦で入学しているため、怪我で退部となってしまうと我が家の経済状況では学費が払えなくなる可能性がある。だから怪我にはいろんな意味で敏感になってしまう。
「
強いて言えば母の発作がたまに起きるってくらいだが、一番重かったのはあの時ぐらいのもので、最近はたまに上の空になる程度の軽微なものだ。
余計な心配はさせたくないので、その程度であれば報告はしていない。
だから多分、今日尊都が感じ取ったその違和感は俺自身の不具合だ。
『……そっか。なら良いや』
「ありがとな」
『なッ——バカお兄ぃ!』
「いや何で?」
無意識のうちに口を衝いて出た感謝の言葉なのに、なぜ怒られなければならないのか。
確かにこうもはっきりと感謝を伝えるというのは少し照れくさいし、それを伝えれるというのが照れくさいのも理解は出来る。だが、だとしてもバカとはどういうことだ!
『何でも!お兄ぃはバカだからバカ!』
「バカって言った方がバカだ!」
『じゃあお兄ぃもバカじゃん』
「尊都の方が先に言ってるからお前の方がバカだ」
まるで子供のケンカだ。だが、そんな馬鹿馬鹿しい時間が少しだけ心を軽くしてくれた。
思わず笑みが零れる。そして顔は見えないが、電話の向こうで尊都もこのバカ話を楽しんでいるのが分かる。なんせ兄妹だからな。
『何かあったら言いなよ?』
「……?何かって?」
『何でもいいの!何でもいいから何かあったら言って、ってこと。あたしはお兄ぃの妹なんだし』
語彙力が残念だが、言いたいことは分かった。
下手ではあるが尊都なりの励ましなのだろう。
「分かった分かった。その代わり尊都も何かあれば言って来いよ?俺は尊都のお兄ちゃんだからな」
『……きも』
「手のひら返しがエグくないですか?」
もちろん冗談なのは分かっている……冗談だよな?
少し心配になりながらもそのあと二、三の言葉を交わし、おやすみを告げて電話を切る。
時計を見ると、結局いつもと変わらない時間になっていた。
だが尊都の心配や想いが少し嬉しかった。まだ数カ月とはいえ親元を離れたせいだろうか、言動の端々に気遣いというか、少し大人になったような気配を感じる。
少しだけ増した頼もしさに嬉しさと寂しさを覚えるが、俺は断じてシスコンではない。絶対に。
少し複雑な心持ちになりつつ、励ましの言葉を胸に布団に潜った。
*
椅子に座りながら伸びをする。背中がぽきぽきと音を立てる。
忌々しい宿題を終わらせたという事実と心地良い疲労感が俺を満たし、それが
考えても仕方の無いことが、
ダメだ、気が滅入ってきた。少し腹に何か入れよう。
そう思い立ち、自室を出ようと席を立ったところで携帯が鳴る。
ディスプレイに表示された名は『吾妻媛』。
携帯をそっと布団に置いて部屋を出る。
せっかくの日曜日。貴重な休日をアイツに潰されて良いはずが無い。
土曜はバイトのため、一週間でほぼ唯一の休日だ。俺の自由に使うべきである。
俺が誰に言うでも無い言い訳を並べ立てているのは、電話に気付いていながら無視をしているということに後ろめたさを感じているからだ。
今まで誰かと連絡を取り合うという経験が無かったが故に、無視という行為に不慣れなのだ。要は良心の
リビングにいても聞こえてくる着信音が迷いを増幅させる。
出るか、出ざるべきか。
出ないとこのあと電話が鳴り続ける可能性がある。せっかくの休みなのにそれは嫌だ。それに月曜日に媛から文句が来そうだ。それも面倒である。
ならいっそのこと電話に出てしまえばいいのでは?
単純な連絡事項かもしれないし、面倒ごとだと確定している訳でも無い。それに面倒ごとなら断ればいい。
ものの数十秒で自室へと舞い戻り、一つ息を吐いてから電話に出る。
「どうした?」
『あ、タケルくん?いま平気?』
「は、榮さん⁉」
そうだった。ディスプレイの表示が媛だったとしても、媛からの電話とは限らないんだった。
想定外のことに一瞬で頭が真っ白になる。電話に出る前の算段が一気に吹き飛ぶ。
『今日ってこの後ヒマかな?』
「え、あ、はい暇です!」
言ってから気付く。しかし、もう遅い。
『良かった!お昼ご飯、一緒に食べない?』
その優しい声音に苦い顔を浮かべてしまったのは内緒である。
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