第43話 紫電一閃を映す雫。沈むはつぶて、浮くはにじ






 SPO公務員試験に合格したら、長である姉の権限で秘書に就かせてもらう事になっている。

 職権乱用?実力不足?鍛錬不足?

 そんなの知るか。発狂しかける地道努力は勉学だけに留まればいいんだ。


「現実逃避はそれぐらいにして、明日に向けてもう休みなさい」






 『鴻蘆星』。空の自室にて。SPO公務員試験日前日。


 時刻は午後十一時。璉は試験に向けて最終確認をしていた空に付き合っていた。



「脳に文字虫が巣くっていて眠れない」

「それは同慶ですが、眠れないのは駄目ですね。薬と実力行使。どちらを選びますか?」



 空は机に伏せっていた頭と椅子に降ろしていた腰を上げて、よろよろと動いては隣接している寝台に腕を枕にしてうつ伏せになった。



「文字虫に害がない方で頼む」

「では安眠導入剤にしますか」

「苦くないやつを頼む」

「分かりました」



 椅子から立ち上がった璉。数歩歩けば辿り着く台所で、前もって用意していた安眠導入剤をコップに入れてお湯で溶かし、空に差し出した。空はしぶしぶと起き上がり、受け取って、コップの四分の一ほどしかない量を一気に飲み干した。



「にがあまあつい」

「もう少し冷ましてから飲めば良かったんですよ」



 璉は呆れた。空もそうすりゃ良かったと呆れながらコップを机に置いた。眠りたいのに、頭がどうにも冴えて眠れない。まあ、安眠導入剤を飲んだから、時間が経てば眠れるだろう。

 空は仰向きになって、目を瞑りながら、口を開いた。

 恐らくは、眠りを確認するまでいてくれるだろう、璉に向かって。


 教わっている最中、幾万回呆れられはしたが、怒られはしなかった。見捨てられはしなかった。

 感謝してもしきれない。

 どうやって、この恩を返していこうか。

 できるだけ、面倒ではない事ならばいいが。



「私が合格したら、璉はどうするんだ?」

「そうですね」



 椅子に座り直した璉は、少しだけ思案した。

 空に勉強を教える。明確にする事があったのは、やはり、生を実感する事ができた。

 昔、前世よりは、明確な目標がなくとも生きていけた上に、世渡りの術も覚えた今、どうとでもなるような気がするが、やはり、生と死の境界線が曖昧な生き方しかできなかったように思える。



(私は、)




『主と共に死ぬのが重臣の役目ですから』


 独りで死んだ彼女の後を追って、自害した。

 初めて出会った頃から、物語として、現実めいたものとして、聞かされ続けた地獄に行くと思った。




『おまえさ。逢いたい?』


 渦に巻き込まれたかと思えば、辿り着いた真っ白な世界で翼の生えた男に問われ、ほんの少し悩んで、その問いに答えたのだ。


 逢いたい。


 逢って。莫迦野郎。大嘘つき。こっぴどく罵るつもりだった。


 独りで逝くな。連れて行け。


 あなたが。


 あんたが、連れ出したんだ。


 一緒に探そうって言っただろう。生きていると実感できる時を。愉しいって思える時を。


 あんたの傍だったのに、


 実感できたのは、あんたの傍にいる時だ、


 まだまだまだ、ずっと一緒にいたかったのに、


 言いたかった。ありがとう。見つけてくれて。


 生きてて良かった。


 言いたかった。




『逢いたい』



 なら、逢わせてやる。男は言葉通り逢わせてくれた。

 前世とは違う姿だったが、名を呼ばれた時点で、彼女だと分かった。

 言ってやる。衝動のままに口を開いたまではよかったが、彼女のあまりの間抜けな顔に、火は瞬く間に燃えカスになってしまった。

 長年の願いをいとも簡単に消し去りやがって。別の意味で苛立った。



『一緒に探すって言ったのに、結局あの世界を回れなかったしさ。だから、一緒に行こう』

『今の私にはやらなくてはいけない事がありますので、一緒に行けません』

『空の家庭教師、だったね。うん。分かった』

『彼女が役人になったら、まぁ、付き合ってあげてもいいですよ』



 どうして前世にあんなにも執心していたのか、少し分からなくなっていた。

 無論、苛立ちもあったからだ。思い通りになるものかと、むきになっていた。


 ただ、この時は本当に、積極的に世界を回りたいとは思えなかった。

 彼女と行くよりも、空の家庭教師を続ける事が重要だったから。

 空の家庭教師を続けていたかったから。



(教える事が好きなのかもしれない)



 家庭教師になったのは気紛れで、初の生徒が空だったのも偶然で。

 それでも、空だったから、この仕事を続けてみよう、と、



(思えたんだろう、な)



 彼女と世界を回る。これからの日々をそれだけに費やしてもいいかもしれない。


 ただし、






 璉は眠りに就いた空を確認してから、そっと立ち上がっては部屋を後にし、廊下に佇む人に空の現状を告げて、少し歩きませんかと誘った。葵は了承した。

 空が住んでいるアパートから出て、ひっそりとした夜の道を歩く。足元には照明が仄かに灯されていて、重々注意する必要もなければ、迷う事もなかった。



「いや、ちょっと、こっそり様子だけ見ようかと思って。激励は明日するつもりだったんだけど」

「どうせ大勢で押し掛けるつもりなんでしょうが…ほどほどにしてくださいよ」

「あーやー。私には保証しかねる」

「まあ、緊張や重圧とは無縁ですからいいんですけどね」

「頼もしいもんねえ」

「向かう世界に合っているとは到底思えませんが」

「そうかもしれないけど、期待もあるんでしょう?」

「期待、というよりは、面白くなるかもとは、思っていますね。でも、あの組織が変わらなくても、生徒がどう生きていくのかには、興味があり、希望があります」

「ふ~ん。そっか、そっか」



 飛んでいくんじゃないか。あまりの浮かれっぷりにそう思いながら、同時に、絶対葵を見るものかと思った。

 絶対、癪に障る顔をしているはずだ。



「じゃあ、空が合格したら、別の子の家庭教師をするの?」

「そう、しようかと思っています」

「そっか、そっか」

「…葵は莫迦な男二人と莫迦な生活を続けるつもりですか?」

「ああ、うん。否定、できませんね。はい。そう、ですね」


 ひきつった顔をしているのだろう。別に意趣返しではないので、謝罪はしない。


「あの莫迦が神様になったらしいですね」

「ああ。うん」

「神様殺しの罪に問われないようにしてくださいね」

「ああー。んん。約束は、できない、かも、」

「莫迦が望んだ時、ですか?」

「ん、んん」

「莫迦は死にはませんよ」

「んん。うん。今はちょっと、そう思わなくもないかもしれなくもない」

「だってあなた死んでないじゃないですか」

「………璉。後悔してない?私の後を追って」

「後悔?微塵もありませんよ」

「…そう」

「今の記憶を持っていても、どれだけ繰り返そうと、あの時の私はあなたの後を追って死にます」

「…そう」

「……死ぬと、言いませんでしたね」

「うん」

「どうしてですか?」

「……草玄と、限樹には、ね。死ぬ姿を見せたら、自分が本当に死んじゃうんじゃないかって。怖かったから。璉には。悲しい顔を見たくなかったから」

「……悲しい顔」

「そう。悲しい顔。あなたのお母さんが、白亜さんが亡くなった時みたいな顔を見たくなかった」



 見当違いも甚だしい。今は鼻で笑える状況にあった。けれど、



「…泣きましたよ。みっともなく大声を出して。あなたの身体に、死体にしがみついて、」

「…うん」

「あなたのいない世界に、いる意味はなかった。見つけようと思えなかった。母の時はあなたがいた。でも、あなたの時はどうしても、無理だった。あなたがすべてだったから」

「…うん」

「後を追う事が、希望だったんです。絶望の中の希望ではなくて。生の延長だった」

「…うん」

「いろいろ言ってやりたかった。感情のままに。支離滅裂だったでしょうきっと」

「…うん」


「困らせたかった。謝らせたかった。思い知らせてやりたかった。あなたが私にとってどれだけ。どれだけ言葉にできないくらい、埋め尽くされた存在だったか。あなたに会うまで、私を地に繋ぎとめていたのは母だった。母の望みを叶える為。でも、あなたに会ってからは、私が、私の望みを叶える為に、あなたを掴んでいた………掴んだままだったから、後を追う一択しかなかった」


「………」

「世間一般から見れば異常で間違った行為だったとしても、後を追えた私はきっと、幸福でした。だから、あなただけは、今みたいにもう謝らないでください。悔やまないでください。莫迦みたいに笑っているあなたが好きなんですから」

「……世界を回るの、どうする?」

「行きます。でも、今じゃない。だから、私が行きたいと言った時は、どんな事があろうと、絶対一緒に行ってください」

「行かないって言うかと思ったら。私の予定は無視ですか」

「そうですよ。ただ……誰かの生死に関わる場合は、調整してあげます」

「……ん」

「私は莫迦二人みたいに、神様になったり、長生きしたり、寿命を引き延ばす努力はしませんが。しませんけど……」




 どれほどの年月を経ようが、経験を積もうが、この人にとって自分は、守るべき子どもなのだ。

 身の外に在り続ける、近しい他人なのだ。



(悲しい顔を見たくない、か)



 自分は、

 自分が亡くなる時は、泣いて欲しいと、



(今も昔も、思ってしまう、)




「あなたの無茶に付き合えるのは、私ぐらいなもんですから。もし、そうしたくなった時は、付き合ってあげますよ。いつでも」


 嘘をついた。彼もいる。けれど、彼はきっと。何時でもは無理だろうから。


「身体ぐらいは鍛えておきます」

「じゃ、じゃあ。あの。今、手合わせをお願いしてもいい?」


 そこはありがとうだろう。暫しの無言時間だろう。散歩時間だろう。しんみりと別れる時間だろう。じゃあ明日またと、しんみりお別れ時間だろう。何を今お願いしてんだ。



(予想するだけ無駄か)



「………いいですよ。同じ体勢が続く時間が多かったですから。そろそろ身体を思いっきり、動かしたいと思っていましたから」


 この刻、外に出てから初めて葵を見た璉。にこりと笑って見せれば、お手柔らかにお願いしますと引き攣った笑みが瞳に映り、一度でいいから、手合わせで勝ちたいと思うようになったのであった。



 同時に、悟りも得る。

 ああきっと、今日は夜通しだな。



(望むところだ)












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