疑いの報酬⑨
【2034年1月】
一号を収容している建物の、地下一階の廊下は暗かった。職員用の小さな売店は営業時間外でシャッターが閉まっており、コーヒーの自動販売機のディスプレイがそのあたりの明るさに大きな貢献をしていた。自動販売機の前の長椅子に、メルバは腰かけていた。
階段の方からコツコツと床を革靴で歩く音が近づいてきて、暗闇から「会見は中止だってさ」と声がした。
「二回も延期したのに?」メルバは応じた。
「そりゃそうだろ。生贄の羊がいなくなったら祭りは始められないものな」
クレイグ・シュゼットはポケットからカードを出しながら近づき、自動販売機にそれを押し当てた。電子マネーが支払われ、カップが落ち、コーヒーの抽出が始まる。
メルバは口を開いた。「告発動画を出したの、きみだよね」
「さあ?」彼はカップにたまっていく飲み物から目を離さずに言った。「証拠があるのか?」
「教授は犯人捜しをしないと言ったけど、ぼくに『するな』とは言わなかった」
「悪い奴だな。教授はきみがお気に入りなのにね」
「お気に入りとか!」メルバは吐き捨てた。「そんなんじゃない! ぼくはただの一生徒でしかなかった。きみと同じ」
これに気分を悪くしたのか、シュゼットは公然と舌打ちした。「天才様は言うことが違うねえ」
感情が背中を駆け上がり、今にも噴き出しそうになったが、メルバは自分を抑え、つとめて平静に伝えた。「ぼくは大学を離れる」
「知ってるよ。国の下請けでビターの捕獲作業をするんだろ? 新しい法人まで作って、委託に名乗りを上げてさあ。いくら積んだんだ?」
「随意契約だ。法に則ってやってる。なんの問題もない」
兄弟子とでも呼ぶべき男が鼻で笑う。ちらほら現れる、人を見下すような表情は初対面のときから変わらない。「さすが戦争屋の息子だな。金でなんでもやりやがって」
「なんとでも言えばいいよ。きみはここに入るんだろ? 国を批判してたのに、なんでそうなったのか全然わかんないけど」
短いメロディーと共にコーヒーができあがる。シュゼットは扉を開け、カップを取り出した。立ち昇る熱い湯気が彼の眼鏡を一瞬くもらせる。
「再生回数を伸ばしたいときはああするんだよ」
「呆れた……」そこでメルバはあることに思い至って息を飲んだ。「……『告発』の検証動画の方もきみが出したの?」
シュゼットは無反応だった。メルバが立ち上がると、彼は体の向きを変え、ゆっくりと来た道を戻り始めた。
「シュゼット!」
「身辺に気を付けろよ、メルバ。ウィークエンド教授と同じ目に会いたくないだろう?」
彼が自動販売機の明かりの届かない闇へ行ってしまうまで、メルバはシュゼットの白衣の背をそのまま見送った。
◇
「で?」
先を促すゾーイに対して、メルバは眉をひそめた。「これで終わりだよ。教授は今、行方不明の扱いになっている。ビター研究は後継を探すのも難しくて、一番深く一号に携わったぼくがやるしかなかったってわけ。それだけだよ。ぼくとシュゼットの違いは、一号に関わったかそうでないかだけだ。何? 期待した話じゃなかったの?」
「教授はどこに?」
「警察が探したけど、見つかってない。それ以上のことはぼくもわからないよ」
「彼がいなくなる前に、彼から個人的に受け取ったものはないの?」
「教授の未発表論文のことを言ってる?」メルバはつまらなそうに言った。「そういう噂があったみたいだけど、そんなものはない。教授のビター研究は根こそぎ僕が引き継いだから。書きかけのビターの論文なら、このあいだ加筆して雑誌に送ったよ。それのことかな? どうしても未発表論文が欲しいなら、ぼくので我慢してほしい。来月には仕上げちゃう予定だけど。……アリス、どうかしたの?」
彼女の顔から表情が消えていた。「それだけ?」とつぶやいた。「もっと……もっとなにか、あるはずでしょう? 教授はだれかに殺されたんじゃないの?」
「なんども言うけど、ぼくにはわからないよ」
「そんなはずない! あなたはあの人の一番近くにいたんでしょ?」
「違うよ」メルバは静かに言った。
彼女は椅子から立とうとした。手首を動かすとすぐに拘束のテープがほどけた。ゆっくりと床を踏みしめ、立ちあがる彼女のそばへ、ゾーイが注意深く体を寄せる。
「やっぱり」メルバは順番にふたりの顔を見た。「きみたちは共犯なんだ」
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