ギャラリーに手を出すな⑤

 サントノーレ・アートギャラリーの特別展覧会「カヌレ・ディー展~海の言葉、さざ波の声~」は、最初の二週間こそ盛況だったものの、話題性が時間と共に目減りするにつれ、その後は徐々に入場者数は減っていった。病床の三作〈未知〉〈無限の渦の中で〉そして〈浸食と変容〉が、会期後も常設展示に加えられると発表されたせいもあるだろう。会期最終日ともなると、ひとつひとつの展示品をゆっくり落ち着いて見ることができるほどには、館内はすいていた。

 最終日の閉館直前、ハニーは〈浸食と変容〉の前にいた。ギャラリーの同じフロアにはだれもいない。閉館十分前を告げるチャイムが鳴っても、そこに立っていた。

 絨毯を踏みしめる足音がして、背後で止まった。美術館のスタッフに閉館時間だから出てくれと言われるのだろうと思った。

「その作品がお好きですか」

 深いアルトの声に振り返ると、そこにマドレーヌ・ディーがいた。

「朝からずっとそこにいますね」彼女はハニーのとなりに立った。「他の展示には目もくれずに、まっすぐここに来て」

 ふたりは並んで〈浸食と変容〉を観た。

 展覧会に来ることをずっと迷っていた。意を決して来てはみたものの、手に入れることができなかった無念さはどうすることもできず、見ているだけだった。しかし作品を眺めているうちに、だんだんと、腕のところ以外にも目が届くようになり、わかってきたことがあった。〈浸食と変容〉は美しかった。

 集まった廃材は組み合わせられ、ひとつの流れを描いていた。ガラスの破片や金属片は、ひとつひとつは鋭利だが、引いて全体を見ると、どの線も隆起もなめらかだ。見事なパズルといえた。狂気の仕事だ。特に、シーグラスを使った螺鈿のような細工の部分は圧巻だった。シーグラスは、浜辺で見つかるガラスのかけらのことだ。波や砂で磨かれたガラス片は、丸みを帯び、細かな傷でやわらかな色合いへ変わる。ひとつずつ違う色は、配置を考え抜かれたすえ、グラデーションを描くことに成功していた。アイスグリーン、スモークブルー、マーブルグレイ。流れは右から左へ向かっている。海底から浅瀬へ、新しきものから古きものへ、過去から未来へ、そういう流れを表している(とパンフレットにはある)。どんなに澄んだ海もやがては外部からの要因によってよどんでいくが、それを受け入れ、変わっていき、そしていつの世もそこに在るという自然の強さと無常さがかたどられているそうだ。がんに「浸食」され、少しずつ「変容」する自身の体のことも、カヌレ・ディーは考えていただろうか。

「オークションのときも思ったけれど、あなた、カヌレ・ディーのファンというわけではなさそう」マドレーヌはおだやかに指摘した。

「正直に言うと、わたし自身は、別に」ハニーは打ち明けた。「これは……親友のために、どうしても欲しかったものです」

「そうでしょうね」マドレーヌは笑った。「あなたがこの作品を見るときの目は、とても情熱的だもの。こちらがどぎまぎしてしまうくらい」

「なぜオークションにかけたんです?」ハニーは静かに言った。「どうせあなたが競り落とすなら、どうして」

 落札したのはサントノーレ・アートギャラリーだった。マドレーヌ・ディーは自分で出品した作品を、自分の職場で買い取ったことになる。

「記者会見にいたわよね?」彼女は確かめてから話を進めた。「芸術は広く大衆のため、がカヌレのモットー。カヌレは自分の作品をわざと田舎の美術館に安く売ったこともあった。無料の展覧会を開いたりね。わたしはそういうのは気に食わなかった。作品が高く売れれば、母もわたしもこんなに苦労しなかったのに、というのもあるけれど、彼が自分の作品の価値を自分で貶めているようだったから」

「無欲な人だったんですか」

「まあ、ある意味では、そうね」マドレーヌは認めた。「あの人の最期の欲が、〈浸食と変容〉を母に受け取ってほしいというものだったと思うと……」彼女は沈黙した。涙をこらえているのかもしれないとハニーは思ったが、その目は少しのあいだ物思いにふけるようにかげっただけで、涙にうるむことはなかった。

 それを確認したので、言った。「質問に答えてほしいのですが」

「ガラクタだと思わなかった?」

「はい?」

「いいのよ。わたしもずっとそう思っていたから。芸術の価値とはなんだと思う? 原価や人件費、技術料だけではとうてい高値の説明にはならないわよね。現代アートは特にそう。カヌレは海の漂流物を材料にしていたし」

 ハニーはわからないという仕草を返した。

「芸術の価値は、人々から求められた証だとわたしは思っている。いいえ、そうとでも思わないと、理解できないのよ。わたし、経済学部出身なのよね」マドレーヌは肩をすくめた。「美術館長なのにって思うでしょうけど、わたしには芸術が理解できないみたい。だから、数字で判断するしかないの。需要という数字、それを計るのは、市場以外にない。どれだけの人がこの芸術を欲しているか、尊んでいるか、望んでいるか……そういう人々の思いが数値化されるのが、オークションだと思っている。わたしはね。あなたの気持ちは、充分この作品の“価値”に寄与した。感謝しているわ」

「バカにするな」

「本心よ」マドレーヌは不思議な輝きを持った目でハニーをひたと見据えた。「わたしは父の〈浸食と変容〉を、単なるガラクタの寄せ集めにしたくなかった。わたしが〈浸食と変容〉が父の最期にして最高の傑作だと思っていることを、世間の人々に受け入れてほしかった。二十万ドル! わたしも納得した。満足よ」

 ハニーは無言だった。

 閉館のチャイムが鳴った。

 マドレーヌが言った。「よろしければ、もっと近くでご覧になる?」

「……いいんですか?」

「手を触れさえしなければ」

 マドレーヌが柵になっていたロープを一部外し、ハニーはおずおずと柵の内側に足を踏み入れた。やわらかな照明を受けて、うろこのように敷き詰められたガラス片がきらきらと輝き、鉄が鈍色の光を反射した。浸食から変容へ……作品の輪郭線を目でたどる。木、ガラス、アルミ、鉄、プラスチック、カーボン。さまざまな素材が集まり、流れの先で混じりあう。先を指さすのはアンドロイドの腕だ。その腕も、流れに組み込まれている。ハニーは展示の後ろへとまわりながら、しげしげと眺めた。

「ありがとうございました」ハニーは言った。「もう、満足しました」

 そして、くるりと踵をかえすと、ギャラリーから出て行った。



「え?」チョコレートミントが言った。「今なんて?」

「だから」ハニーは気まずそうに繰り返した。「競り落とせなくてよかったって言ったんだ」

「あんなに未練たらたらだったじゃん」

「思ったより状態がよくなかった。近くで見たらわかった。腕はたしかに純正品だけど、ちゃんとしてるのは外側だけだった。内側――骨格を作る芯とか、コードはほとんど残ってない。たぶん作品を軽くするのに抜いたか、海に落ちる前に外れてしまっていたのかも。外装も裏側はあまりきれいじゃなかった。あれでは戦闘に耐えられないだろう」

「へええ」チョコレートミントはわざといじわるそうな声を出した。「あたしが止めなかったら、今頃一文無しで借金まみれだったんだけど?」

「感謝してるよ」

「本当に? じゃあ……」ミントは怒涛のごとくしゃべりはじめた。「明日は一日買い物に付きあってよね! もう、トップスが全然ないんだもん! あと化粧品、マニキュアも新色買いたいしピンク系のチークがほしいし、そろそろフェイスパウダーを予約しなきゃ、あと靴も見たい、それから――」

「買い物?」メルバがありえないというふうに叫んだ。「そんな暇はないよ! ミント、きみが先月まとめたデータはいったいなんなんだ? 酒でもあおりながら仕事してたのか? もう一度全部見直して、すぐ!」

「え? なんか間違ってる?」

「なんか、どころじゃないよ! 羽生、数字のチェックぐらいきみにもできるだろ? ミントを手伝え! ぼくは締め切りが迫ってるから、悪いけどせめて四十五分間は話しかけないで。いいか、絶対さぼるなよ」

「ボスに言われたくないんだけど!」ミントが悲鳴を上げる。「またなの?」

 宙を舞う紙の資料と、自分のフォルダに続々と届くデータを見やる。たまの事務作業はいい気分転換になるかもしれない。とにかく、また一からやり直しだ。

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