ギャラリーに手を出すな④
オークション本番までに、ハニーはさらに小さな仕事をいくつかこなし、どうにか十一万ドルの金をためた。本当にエスティメートの二倍まで値段が膨れ上がっても、一か月はなんとか暮らしていける。小さな仕事というのは半日間の警備(歌手のお忍びデート)、ストーカーの撃退(銃をちらつかせて追い払うだけだった)、別れ話の立ちあい(向こうも殺し屋を脇に控えさせていたのでかなり殺伐とした会合になった)、浮気の証拠固め(これ本当に殺し屋の仕事か?)などだ。こういう仕事を受けることに、一流じゃないとしてファッジは難色を示していたが、背に腹は代えられない。それに、殺さない仕事にもいいことはあった。クズのアメリカ代表選手みたいな男を生け捕りにしてそいつの実家に突き出す仕事で八千ドルももらえたのだ。それがなければ目標金額を達成できなかったかもしれない。
しかして、ハニーはオークション会場に足を踏み入れた。
「もっとカジュアルでよかったんじゃない?」
スーツを着込んできたハニーにチョコレートミントが言った。たしかに、まわりは意外とラフな服装だ。まったく考えてなかったが、どういう人がオークションに来ているのだろう。
「だれでも買う権利があるから、ほんとにただ欲しいって人も来てると思うよ。ひやかしもいるかもね。でも」ミントは目で行く手にいた男女を指した。「あれはロスのギャラリーのオーナーだし、となりにいるのはコレクターとしても有名なダンサーだよ」
「は?」
「あっちに俳優も来てる。やっぱり注目度が違うなあ、カヌレ・ディー最後の作品」
手持ちの十一万ドルのことを考えて気持ちを落ち着かせる。予想価格の二倍も用意してきたのだ。そうだ。絶対に競り落とせる。マスタードをリビングのインテリアにしたい連中なんかに、渡してたまるものか。
受付でパドルを受け取ると、会場のすみに空いた席を見つけて座った。部屋は人でいっぱいだ。さらに、壁にそって長机が置かれ、電話とパソコンが設置されている。電話とネットでの入札も受けつけるのだそうだ。チョコレートミントも来ると言って聞かなかったのでとなりへ連れてきたのだが、開始まであと少しというときになって、「ほんとに参加するの?」と訊いてきた。
「くどいぞ」
「正しい方法だと思ってる?」
「他に手はないんだ。なんだよ? 芸術品が壊されるのを見ていられないってか」
「それもちょっとあるけど。せっかく見つかった最後の作品だし……。芸術には芸術の役割があるというか。ハニーの言葉を借りれば、『機能』が」
彼女をぞんざいに扱いたくはなかったが、開始時刻まで三分を切った。議論している余裕はない。「それで?」とだけハニーは言った。
「あたしが言いたいのはね、本末転倒じゃないかなあって」
ハニーはうわの空で演台に目をやった。髪をぴしっと固めた男が台帳を持って入ってきて、演台についたところだった。
「あたしだってマスタードさんに会ってみたいけどさあ」
「あいつの体が直れば、会わせてやれる」ハニーはつぶやくように言った。「いいやつだよ、おまえもきっと気に入る。なあ、ミント、もう始まるから……」
「あの腕はマスタードさんなの?」
「なに?」
既視感に襲われた。前にもこんな感覚を味わったことがある。チョコレートミントと会ったばかりのころだ。ホテルの一室に閉じ込められていたとき、マスタードの話を聞いて、「大切な人だったんだね」と言ったチョコレートミント。すとん、と言葉が自分の中に落ちるような感覚だ。ただ、今の言葉には、胸がかき回されるような効果があった。
息を飲んでいると、チョコレートミントは「ああいうのを集めていくと、マスタードさんになるの?」と続けた。
こいつはなにを言っているんだろう。深く考えなければならないような気がしたが、演台の男が会場の注意を引き、声を張り上げた。
「みなさま、大変お待たせいたしました。これより、オークションを開始いたします」
オークションにかけられるのはカヌレ・ディー最後の作品だけではなく、若いころの作品や、病床でのラフスケッチまで上がるようだった。他の作家の作品だっていっぱいある。カヌレの作品は分厚いカタログの中のほんの一部だった。カタログの番号順に行われるならば、〈浸食と変容〉は五十五番、中盤のメインロットになる。
オークション自体は淡々と進んでいく。
「では千ドルから……千五百……二千、三千……電話の方、三千五百……」
オークショニアの声が朗々と響きわたる。だれも怒鳴ったり、大声を張り上げたりしているわけではないのに、駆けあがる数字や一対一の値段の応酬に部屋の熱気が増していく。電話を受けるスタッフの声や客のざわめきに、ときおりオークショニアがこーんとハンマーを叩く音がピリオドを打つ。「落札!」四千八百ドルでスケッチが競り落とされる。こーん。「落札!」一万三千ドルで彫刻が落とされる。こーん。「落札!」三万七千ドルで流木の作品〈未知〉が、四万ドルでガラスと鉄材の〈無限の渦の中で〉が落札される。たった一分やそこらで、買い手からぽんと出た何万という数字が、芸術作品と引き換えになる。
あっと言う間に、「ロット番号五十五」の番になった。
「続きましては、五十五番。カヌレ・ディー、最後にして最期の作品――〈浸食と変容〉。2033年製作、立体作品。二年間の闘病の末、最愛の家族に贈られた、カヌレの第三期かつ芸術家人生の終止符となる傑作。では、四万ドルから始めましょう」
ハニーはパドルを握りしめた。――始まった。
視界でいくつものパドルがひらめく。「窓際の方――四万二千。はい――四万五千、四万八千、オンラインで五万」
またたく間に値段が吊り上がる。だれもが欲しがっている。ハニーは急いでパドルを上げた。オークショニアの目がしっかりと自分をとらえる。「会場のお客様、五万五千ドル」
電話で五万七千ドルの
「五万八千」まだまだ止まらない。「六万」落札予想価格帯を超えた。大丈夫。予想通りだ。パドルを上げる。「六万五千」七万ドル代に入った。電話台のスタッフがオークショニアに合図を送る。「……ニュービッド、八万二千」
会場がざわついた。何人かはここであきらめたようだ。
負けてたまるか。「八万五千。ほかにいらっしゃいませんか」
八万七千ドルの入札。九万ドル。九万五千ドル。十万ドル。
早く降りろ。ハニーは祈るような気持ちでパドルを上げた。「十一万!」
一瞬の静寂。しかし――。
「後方のお客様、十一万二千」
迷ったのは一瞬だった。「十一万四千!」
「ちょっと!」ミントが腕を揺さぶってきた。「お金、あるの?」
「十一万六千――」
オークショニアへ合図する。十一万八千。
「無茶だよ!」
価格は十二万を超えた。十二万四千ドル、十三万ドル。十四万ドル。
「潮時だよ、ハニー」チョコレートミントが腕を強く揺すった。「がんばったよ」
「金ならまだある――」ハニーは低い早口で言った。「本当は十八万八千ドル持ってる」
「え?」
十四万六千ドル。会場は興奮に激しくざわめいた。残っている
「火星から帰って来たときに、口座に八万ドル振り込まれていた。だれからなのかわからない。たぶん、おれに火星でのことをしゃべってほしくないだれかから……。そういう金だから、あまり手をつけたくなかった。どうしても必要なときに――マスタードのために――使おうと――」
十五万ドル。
「今ってそのときかなあ?」チョコレートミントが怒ったように言った。
十六万三千ドル。ひとりが脱落した。
「破産してまで競り落とすものじゃないでしょ!」
十六万五千ドル。一騎打ちだ。
ハニーは歯を食いしばった。
十六万九千ドル。十七万ドル。十七万七千ドル。
――今ここで競り落とさなかったら、次はいつだ?
十八万三千ドル。
相手のパドルが動いた。十八万七千ドル。
額に汗がにじむ。十九万ドルでビッドした。
「ハニー!」チョコレートミントが悲鳴を上げた。
「金は」乾いたくちびるを湿らせる。「また稼げる」
オークショニアが言った。「二十万!」
会場は熱狂の渦に叩きこまれた。目の前がゆがむような錯覚を覚えた。まだ価格が上がるのか。何回大統領を暗殺すればいい?
パドルを持つ右手に、チョコレートミントがしがみついた。
「二十万――ほかにいらっしゃいませんか?」
オークショニアが見ている。左手で首の鎖に触れ――ハニーは目を落とした。
「落札!」こーんと高らかなハンマーの音が響き渡った。「五十五番、〈浸食と変容〉、二十万ドル、二十万ドル、二十万ドルで落札です!」
会場から何人か走り去っていった。マスコミの記者たちだろう。話題の芸術品がいくらで売れたか、世間の人々に知らせて回るのだ。カヌレ・ディー最後の作品が、エスティメートの四倍もの値段で売れたと。
拍手が上がった。興奮冷めやらぬ客が、スタッフが、上気した顔のオークショニアが、白熱の競売に満足していた。さざ波のような拍手の音が、ハニーにははるか遠くで鳴っているように聞こえた。
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