NYCCAI紀行③

 ハニーは証券ビルのエレベーターの中だった。「だれかって?」

 ミントからの映像を確認したメルバが言った。「警察官じゃない?」

「あ、そうかも! 制服のすそっぽい」

「ちょっと待ってろ。上から確認するから」エレベーターが十二階で止まる。フロアにだれもいませんようにとハニーは念じる。

「音声を拾えるはず」とメルバが指摘し、Qグラスの操作を指示する。

 ミントは言うとおりにする。

 かくしてフロアは無人だった。非常口の矢印の方へハニーは向かう。ハニーの端末にもミントからの音声が送られてくる。

 フェンスの内側に戻るよう、警察官が女性を説得しているようだ。落ち着いて、こっちに来て、とやわらかく繰り返しているが、女性は泣いたりわめいたりで話にならない。あんたなんなのよ、という絶叫に、警察官が落ち着いて返答する。「NYCC警察のコルビー巡査です。ほら、警察手帳。あなたは?」

 屋上に出る。手帳を取り出して見せている警察官と、今にも落ちそうな細身の女を、ハニーは目視で確認する。

「コルビー巡査ね……」メルバがネットで検索をかける。「本物だね。去年、非番の日にお年寄りを詐欺から守って表彰されてる。顔がNYCCタイムズに出てるよ」

 記事をメルバが送ってくるので、ハニーはドラジェノフを取り出して、急いでスコープで巡査の顔を捉える。本人に間違いないだろう。

「狙撃に問題あるか?」

「邪魔にはならないが」ハニーは最適な場所を探す。「向こうからこちらが見えるかもな」

「あと、位置的に女の人よりビターに近いよ。飲まれるかも」ミントが付け足す。

「警官は気にせずさっさと撃った方がいいか」

「ちょっと待った」メルバの声が割って入った。「まずいことに気がついた。今撃ったら、中の人間が地上七階からまっさかさまだ」

「どうする? あんまりもたもたしてられないよ」

 メルバはしばし沈黙した。ビター発見システムに目を走らせる。消防と警察と野次馬のひしめく通りの様子を見る。光るカメラ、回るランプ、うろつく救助マット。

 チョコレートミントはゴミ箱の裏で指示を待つ。

 ハニーは黙って狙撃の準備をする。

「羽生」メルバが口を開く。「今から言うとおりに撃てるか?」

「はい、ボス」さて、と姿勢を固める。名誉挽回といくか。



 ジャック・コルビー巡査はあせっていた。屋上で自殺志願の女性と話し続けて二十分近くが経過している。説得――少なくとも、下で救助マットを広げるまでの時間稼ぎのはずだった。とっくに準備はできているが、別のタイムリミットが迫りつつある。例の怪物がマンションの壁を這いあがってきているというのだ。緊張で背中に汗が流れる。ここから怪物は見えない。だが、野次馬からときたま上がるどよめきと、仲間からの無線が、やつが確実に来ていることを教えている。いつフェンスの向こうに姿を現すかわからない。問題は、それを見た彼女が衝動的に飛び降りやしないかということだ。

 あの気味の悪い怪物がNYCCに現れて一年近くが経つが、コルビーはまだ直接対峙したことはなかった。通報を受けたことは何度もある。現場に一番乗りだったことも。だがそれはビターに銃火器や刃物が効かないと判明した後の話で、そうなるとコルビーたちの仕事は市民の避難誘導、けが人の保護がせいぜいだった。それから、ビターの破壊跡を片付けること。警察だけではなく、どんな部隊もそうなのだ。人知の及ばない怪物に対しては。

 ただ、最近はなにやら毛色が違う。最近の事案では、駆けつけるころにはビターは姿を消しており、あたりにその爪痕が残るのみということが多い。ビターによる被害は、以前より格段に小規模になっている。けが人もそうだ。少ない日はひとりということもある――そのひとりとは怪物に取り込まれていた人間であり、主に意識を失って倒れているところを発見されている。彼らは一様に、なにが起きたのかまったく覚えていないのだ。

 被害が少なくなったのはいい。しかし、確実に、ビターの状況が変わったのだ。目に見えないなにかが、この街で起きている。それが不気味だ。今、ジャック・コルビーNYCC警察巡査は、意識を張りつめさせて、さらに得体の知れなくなった危険な怪物が現れるのを待つしかない。

 それを真っ先に知らせるのは、無線だと思っていた。だが、その役目は、別の音が担った。

 ビシッという固い音に、同時にあたりが騒然とする。下からだ。フェンスに駆け寄って見下ろしたい衝動をこらえた一秒後、そいつが姿を見せた。フェンスの向こうからぬっと顔を出し、隙間から自身を押し出して、こちら側に身体を立て直していく。中の人間が黒いゼリーの中で大きく沈む。効かないとはわかっていても、思わず手が腰の拳銃に伸びる。

 またその音が一発響いた。似た音を知っている。銃弾がコンクリートに当たる音だ。

 怪物の体が衝撃にはね、わなないた。あぜんとする。だれかがビターを銃撃している。やめろ、そいつには効かないと叫ぼうとして、声が出なくなった。ビターの体の端が、溶けている。ビターは体をよじった。

 もう一発。

 ぱっと黒い液体が散る。わざと命中させていない、とコルビーは気づいた。あえて、かするように撃ち込んでいる。ビターは残る四つの角を怒ったようにうねらせ――こっちに迫ってきた。

 弾丸が屋上に突き刺さる。

 襲撃者はビターを追い立てていた。コルビーとフェンス際の女性の方へ。



 その調子だ、とメルバが言ったようだ。今見えるのはスコープの先、動くのは指一本だけだ。呼吸さえ邪魔になる。なにもかも止める。石のようにぴたりと動かないまま、引き金を絞る。ど真ん中ではなく、わざとビターの体の中心から外れたところを狙って。おっと。牽制にコンクリートを撃つ。ビターは方向を変える。警察官の方へ。

 警察官は二歩、三歩と後ずさりして、ぱっと身をひるがえして駆けだした。ビターが後を追う。その尾をつかもうとするように砂糖弾がくだける。若い警官はフェンスを乗り越える。

 動転する女の肩に手を回して、警察官は空中に身を躍らせる――七階屋上から、地上目がけて、いや、地上で待機する救助マットの上へ。追いすがるゼリーの手が警察官の足に触れる。

 そこを撃った。

 命中の確信。

 正面から砂糖をかぶったビターは液状化して屋上にばしゃっと落ちる。

 ハニーはスコープを目から離した。「仕留めた」

「はいはーい」Qフォンからミントの応答があった。



 返事をしながら、チョコレートミントは急ぎ足で階段を上っている。ビルの中に入って、非常階段を上がり、屋上へ向かう。マンションに入るのは簡単だった。正面入り口に戻り、野次馬を押しのけて、四苦八苦するガードマンの前に立つ。関係ない人は帰れという仕草をするガードマンの前で、にっこり笑って家の鍵をちゃらつかせるだけでよかったのだ。住人とかん違いされて入れてもらえたチョコレートミントは、果たして屋上のドアをあけ、力尽きたビターの体をボトルに納める。

「採集完了」と高らかにIQに報告し、ミントはすばやくもと来た道を戻り始める。

「おつかれさまでした」とIQ。「羽生様と合流しますか」

「うん」

 視界にルートが表示される。

 チョコレートミントは堂々と通りへ出て、転落したふたりに夢中の警官やマスコミを尻目にその場を去る。

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