第10話

「サヴァン……?なんだそりゃ」

 初めて聞く専門用語に眉をひそめる。


「サヴァン症候群――精神障害や知能障害を持ちながら、ごく特定の分野に突出した能力を発揮する人や症状の事です」

 案の定、頭が痛くなりそうな話だった。

「もっと簡単に言えよ。つまりなんなんだ」

「サヴァンの人は天才的な才能を持ち合わせてることが多いんです」

「天才だと?この可欣がか」

「例えば、○月○日の曜日をすぐ答えたり、膨大な書籍を1回読むだけですべて暗記できたり、一度聞いただけの曲を最後まで間違えずに演奏できたり、航空写真を一瞬見ただけで描き起こせたり、普通の人には到底なしえない事を平気で行うんです」

「そんなことが可能なのか?」

 自慢じゃないが、俺なんて九九も言えるかどうかだぞ。


「それがサヴァン症候群という天賦の才なんです。並外れて高い暦計算、音楽、美術等に関する記憶力・再現力を持ち合わせていることが特徴なんですが、一方でそれ以外の学習能力が劣っている点も特徴なんですよ」

 だから一概に天才に分類することもむずかしいです。と教師然とした大塚の物言いに、普段なら機嫌を損ねること間違いなしなのだろうが、それよりも盃すらもらっていないチンピラ以下がやけに詳しいことが気になった。


「……昔の話ですけど、身近な子にサヴァンだと思われる子がいたんですよ。それで個人的に調べたことがあって、それで普通の人よりかは詳しいんです」と答える。まぁどうでもいいが。

「このガキが……サヴァン症候群」

 長々と話してたが、そのサヴァン症候群とやらがある特定の分野での天才ってやつだとすると、俺にはどうしても可欣がそれに当てはまるとは思えなかった。

 ガキだから、ガキゆえに記憶力がいいのではないか。俺の死んだような脳細胞も可欣と同じくらいの歳の時には、それなりに記憶力が良かったのでは――過去の記憶を引っ張り出そうとしたが、やはり脳細胞は働くことがなかった。


「だったらよ。嬢ちゃんに試してみたらいいじゃねぇか」

 文芷が、それまで読んでいた人民日報を投げ渡して提案をしてきた。

「なんだかよくわからねぇが、その嬢ちゃんがサヴァンなんちゃらかどうか、その新聞を使って確かめてみればいいんじゃねえか」

「ああ……なるほどな。確かにやらせてみりゃわかるか」

 正面に落ちた新聞を捲り、適当な地方で起きた不祥事のいきさつをボーッとしている可欣に一瞬見せた後、「何が書いてあったか書いてみろ」と言うと、全て中国語であるにも関わらずすらすらと書き始めた。

 しかも一言一句間違えることなく。

 新聞二面にわたって。


「これは……」

「すごいなんてもんじゃねぇぞ」

 二人に褒められて満更でもない可欣は、「すごいでしょ!」と無い胸を張って自慢するが、目の前でその能力を目にするとしないとでは、事の大きさの認識がまるで変わった。

 大塚も文枝も事の重大さはわかっているようで、半分顔がひきつっている。

 この俺ですら、正直驚かされてしまったのだからそれもわからなくはないが。

 これは――頭がいいとか、記憶力がいいとか、そんなちゃちなもんじゃない。本物の力だ。

 そして、経緯はわからねぇがその力を王泰然に利用されていたんだ。

 その事実に気がつくと、自分でもよくわからない、胃袋の底からせり上がってくるようなムカツキを覚えた。まるで安物の酒を飲みすぎたように、胸もムカムカしてしょうがない。


 大人達に誉められて嬉しそうにしてやがった可欣は、何が目的なのか子犬のような目で俺を見上げていた。

「……なんだよ」

 じっと見つめてくるだけで、うんともすんとも言わねぇ。

「褒めてもらいたいんじゃないですか?」

 大塚が暢気にのたまう。

「俺にか?バカじゃねぇの」

 確かに驚くべき能力には違いないが、だからといってまさかこの俺に誉めてほしいとか、いい加減ななことを言う大塚のことはシメたほうがいいみたいだ。

 少しは頭が回りそうだが、俺に命を握られていることを忘れているに違いない。


「俺もそう思うぞ。ウチにガキはいねぇが。嬢ちゃんの顔見りゃわかるだろ。お前の小さな頃と同じ顔してるじゃねぇか」

「おい。文芷。お前まで何アホなこと言ってるんだよ。俺は誰かに褒められたいなんて一度も――」

「ご託はいいからさっさと頭でも撫でてやれ。じゃねぇと親友とはいえ店から追い出すぞバカヤロー」

「なんだよクソが……」


 あーわかったわかった。今から追い出されることのデメリットを考えれば、ガキの頭一つ撫でてやるくらいなんともねぇよ。

 これまでいくらでも女の体なんて愛撫してきたんだからな――

 視線を下げれば、忠犬のように俺を見上げるガキが一人。最初から思ってはいたが、どうしてコイツは俺のことを怖がらない。怖がろうとしないんだ。

 俺はそれが気に入らない。俺は俺に屈しないやつが嫌いなんだよ。


「……ちっ。お前みたいなガキでも使い道はあるんだな」

 たぶん。生まれて始めて誰かの頭を撫でてやったが、掌から感じる髪の柔らかさに思わず力を込めて撫でてやると、キャッキャと騒ぎながら両手で頭を押さえて喜んでいる。

 その純粋な手が、俺の汚れきった手に触れる。

 文芷の言っていたことが頭をよぎる。


 ――お前の小さい頃と同じ顔をしてるぞ。

 バカいうな。俺はこんなアホみたいに笑った記憶なんてありゃしねぇよ。



 その日の夜、二階の一室で、可欣が記した膨大な量の犯罪に関する文字に目を通していた。

 普段読書どころか、まともに長文に触れる機会が無い俺にはぐちゃぐちゃにかかれた文字を一つ一つ判別するという作業は、とにかく困難を極めた。

 栄養ドリンクを既に四本飲み干して、尚終わりが見えない。夜も老けていく。


 可欣が何を知って、何の為に命を狙われているのかを知るために記された文字に目を通していたが、まぁ出てくるわ出てくるわ。

 命を狙われるには十分な情報ばかりであった。

 国のトップから政財界、スポーツ選手に大学教授まで、全ての職業を網羅してるのではとあきれてしまうほど、決して表に上がってくることはないヘドロのような罪状ばかりであった。

 裏切り者を消してきた自分が可愛く思えてしまうほどに、それらヘドロは鼻をつんざく悪臭を放っている。


「こいつら、こんな真似しでかして平然とシャバを歩いてるんじゃ、俺らよりよっぽど悪じゃねぇか」

「ですね。この膨大な犯罪の証拠をどこで誰が手に入れたかはわかりませんが、まさか人間の、それも年端もいかない子供の頭のなかに全て保存されてるなんて、きっと誰も想像できませんよね」

 アナログだけど、サヴァン症候群の完璧な使い方です――そう話す大塚にイラッときた。

 何にたいしてだ?どうして俺はイライラしているんだ。

「何が言いたい」

「あくまで推測にすぎないですけど、あれほどの情報をただ覚えさせられた訳じゃないと思うんですよ」

「……第三者への譲渡」

「それが考えられますね」

「クソッ」

 確かに頭のなかにしか情報がなければ、それを誰かに悟られることはないだろう。子供相手ならなおさらだ。

 単純だが、誰にも真似の出来ない芸当なのだから。


「こんな小さな子を巻き込むなんて……考えられません。劉さん。どうか可欣ちゃんのヒーローになってもらえませんか」

「ヒーローだぁ?何言ってるのかわかってんのかよ。俺はヤクザだ。殺し屋だぞ」

「やって来たことは最悪かもしれないですけど、俺には劉さんが根っからの悪だとは思えないんですよね」

 イライラが溜まっていく――ほんの少しの刺激で暴発してしまいそうだ。


「大塚……テメェは消されないとでも思ってるのか?だとしたら残念だな。たった今テメェの運命は決まったぞ」

 懐のベレッタの銃口を額に突きつけてやる。

「そもそもどうしてヤクザになろうとしたんですか?どうして殺し屋になろうとしたんですか?一度あなたの口から聞いてみたかったんです」

 昨日の態度とはうって変わって、銃口をつきつけられても、まっすぐ俺を見てきやがる。

「お前……掛け値なしにドデカイ地雷踏んだな……そこまで俺を甘く見てるんなら、さっさと死んじまえよ。この世にヒーローなんかいやしない。冥土の土産に覚えておけ」

 あとは引き金をほんの少し引けばいい――いつもと同じことだ。


「いいんですか?可欣ちゃんが起きてますけど」

 思わず後ろを振り返ると、苦労して寝かしつけた可欣が、眠そうな目を擦りながら布団から起き上がっていた。


「ケンカしちゃダメだよ?」

 これがケンカに見えていたのだろうか。

 もしかしたらベレッタのことも水鉄砲と錯覚してるのかもしれない。

 暢気な可欣の言葉に毒気を抜かれ、殺す気も失せてしまった。

 ふざけた口を利いた大塚のこともどうでもよくなっていた。


 サヴァン症候群――


 俺のことを信じて疑わないような透き通る眼を通じて、昔の自分を思い出した――

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