116. プロポーズ
未だ呼吸の整わないブリジットを置いていくのは憚られたが、そういう状態で急がせるのはもっと悪いと思ったし、本人も、自分は一人で大丈夫だから先に行ってくれ、と言うので、仕方なく、僕は単身、自宅へ戻った。
玄関で待ち構えていたのは、ベテランメイドのエディットだった。
「お客様はお庭の方でお待ちです」
「なに?」
「応接間にお通ししますと申し上げたのですが、急な訪問だから迷惑をかけたくない、と仰りまして」
「お一人か?」
「はい。お茶を用意させています。東屋でよろしいですか?」
「頼みます。ああそうだ、誰かにブリジットを迎えに行かせてください。一人でへばっていて、かわいそうだ」
「かしこまりました」
持ち帰った本をエディットに押し付けた僕は、Uターンして玄関から外に出る。
先ほど、帰ってきた時に、厩舎係が見慣れない馬を引いていくのが見えた。まさかとは思ったが、どうやら本当に、あれで一人で来たようだ。
ルージュリー家の屋敷の庭園は、デジール公爵家やドゥブレー侯爵家の国内最上級クラスとは比べるべくもない規模だったが、それでも一応は上級貴族、伯爵家の敷地である。腕の良い庭師のおかげもあって、ちょっとした公園のような趣きだ。
客人、クローディア王女は、その庭園の中央付近に作られた人工池、そこを跨ぐように掛けられた、石造りの小さな橋の上にいた。水面を見下ろす彼女に、僕はシャツの裾と呼吸を整えてから、近づく。
「大変おまたせしました、クローディア王女殿下」
声を掛けると、王女はこちらを振り返った。
今日はオフ、ということなのだろう。身につけている乗馬服は男物で、つまりは男装スタイルだ。ただ、初対面のときのようにきっちりと男装しているわけではなく、ウエストはくびれがわかる着こなしだったし、胸元も女性らしい膨らみがはっきりと見て取れた。
なにより、その首から上は、“クロード”のときの颯爽とした美少年スタイルではなく、“クローディア”の麗しい美女の化粧と髪型だった。
彼女の、僕に向けた凛々しくも艶やかな微笑みを見て、そうか、クロードは美少年キャラなどではなく、いわゆる“男役”需要向けのキャラなのだな、と、男役とも違う格好を見て、なぜかようやく気が付く。
そうと分かれば、彼女が本来、主人公であるセリーズの相手役として用意されたことにも、納得できる。
「いいえ。こちらこそ、申し訳ありません。約束もなしに訪問して」
クロードは首を横に振った。
「すぐにお帰りになられるとお聞きしたものですから、失礼とは思いましたが、待たせていただきました」
王女が一人で来たところも合わせて考えると、おそらくこの外出は、許可なく無断でなされたものであろう。そう考えれば、出直すという選択肢がなかったのも理解できる。
「しかし、このようなところでお待ちにならなくても」
僕が言うと、クロードは細めた目を庭へと向けた。
「いえ。大変美しいお庭ですね。まったく退屈しませんでした」
それから、思い出したように、水面へと目を落とす。
「珍しい、綺麗な魚がいるので、時間を忘れて見ておりました」
「ああ。コイですね。東方から輸入したもので、最近アレオンの貴族の間では流行ってるんですよ。高価なので、我が家には一匹しかいませんが」
「そのように高価なのですか?」
「ああ……我がルージュリー家は、伯爵という爵位を賜っていても、宰相として国政への貢献を評価された故、形式的に賜ったもので、家格としては、大したことないのです。領地だってわずかですし」
クロードは、ニシキゴイから僕の方へと視線を戻した。
「そのように謙る必要は、ございますまい。見る限りお父上、ルージュリー宰相閣下は、アレオンの上級貴族たちから尊敬されているように感じます。現政権になくてはならないお方だ」
僕は小さく肩をすくめる。
「現実として、そうだという話です。
お茶を用意させました。せっかくですので、お付き合いくださいませんか」
僕は、そこから見える
このタイミングでの王女の訪問は予想外、完全な不意打ちだった。
だが、彼女から情報を引き出す、またとない機会だ。誰にも邪魔をされずに二人きりで話をできる場など、この機を逃せば二度とないかもしれない。
もちろん王女の方も、この不意な訪問は、思惑があっての行動だろう。庭を見に来たというわけではあるまい。
「チーズは食べられますか? ウチにはパティシエはいませんが、菓子作りが好きなコックがいましてね。彼女のチーズケーキは、素朴ですがとても美味しいのです。今日、焼いてくれると聞いて、楽しみにしていました」
僕が言うと、クロードは微笑んだ。
「喜んでご一緒いたします」
夏休みも後半になり、気候は一気に秋めいてきていた。
そのように感じるのは、より暑い南の海でしばらく過ごしたことと、無関係ではないだろう。
今日も完璧な焼き加減だった、上品な甘さのベイクドチーズケーキを味わい、紅茶と共に楽しんだ様子だったクロードは、満足げに言った。
「ステファン様と結婚すれば、この素晴らしいケーキを何度でもいただけるのですね」
「……ケーキがお気に召されたのなら、王城にいつでもお届けいたしますよ」
わざとらしい笑顔でそう答えた僕は、細めた目を上目遣いにして彼女に向けた。
「ご用件を、まだお聞きしておりませんでしたね」
僕の視線を受けても、クロードは笑顔を崩さなかった。
「ステファン様と、親交を深めさせていただきたいと思いまして」
僕は彼女の言葉を、面白くない冗談だ、と笑い飛ばそうとしたが、ふと、直前で思いとどまった。
昨夜、起きたことは、もちろん、額面通りに受け取るべき出来事ではない。
マリアンヌは、本当に、クローディア王女と僕を取り合おうとしたわけではない。彼女の行動は、役割を果たそうとした結果。つまりは仕事だ。
彼女は求められた通り、僕のパートナーであると思われるように振る舞おうとした。単に一緒に行くことで誤解させる、という当初の目論見がうまく行かず、その結果、多少能動的に動くことになって、世間に無用な誤解を招きかねない言動をしてしまうことになったが、それについて、マリアンヌを責めるわけにはいかない。あの状況では、彼女の取った行動は最善だと思えたし、いまでももっといいやり方があったとは思えない。もっともあのあと、彼女本人はだいぶ恐縮していたが。
そしてクローディア王女にも、本気で僕と結婚しようというつもりは、ないだろう。
それらしいことをあれこれ言ってはいたが、王女の立場では、政略結婚の相手としての僕は、はっきり言って妥協しすぎだ。ナタニエル第二王子が僕のことを言ったのだって、その裏には、彼自身の能力、そして、あの兄弟のある種、特殊な関係があってのことだろう。長兄共々、王位を継ぐつもりのない第二王子は、弟のフィリップ王子が即位すれば、その弟が信頼を寄せている僕が宰相だろうと、勝手に決めつけているだけだ。
自分で言うのもなんだが、僕には男として、特別な魅力があるわけでもない。顔は悪くないと思うが、周囲にはこの程度、ゴロゴロしている。この世界では十人並だ。
そんな僕が、どこぞのラブコメ漫画の主人公のように、ほぼ初対面の女性に好意を寄せられてしまうようなことが、あるわけがない。
だからクローディア王女が、政治的な損得を抜きにして、僕を好きになった、ということも、ありえない。
では、彼女の動機はなにか。例えば、僕と接近し仲睦まじいところを見せることで、フィリップ王子に意識させるとか、そういうあたりだろうか。フィリップ王子のクロードに対する態度は、傍から見ていて明らかにおかしい。内心の思いはともかく、女性に対してはいつも丁寧な態度で接するのが、本来のフィリップ王子なのだ。
マリアンヌが予測したように、二人の間には、ただの幼馴染という以上の何かがあるのだ。フィリップ王子はそれを消化できずにいて、一方のクロードは、フィリップ王子に対しやぶさかではない想いがある。そういうクロードが、フィリップの恋心を想起させるために、手近な人物を当て馬にしようと画策した――そう考えれば、クロードが僕などにアプローチする素振りを見せる理由が、一応は説明できる。
そして、それぞれの思惑などお構いなしに、その間に割って入り、僕のことを自分のモノだと主張したフィリップ王子……いや、いいかこの際、王子のことは。どうでも。
とにかくそういうわけで、傍から見れば三人――女性二人に取り合われてモテモテ、という状況に見えたかもしれないあの場面は、実際には僕のことを欲しがっている者など誰も――王子を除けば――いないという……自分で言うのもなんだが、実質的にはそういう、酷く残念なイベントだったのだ。
そして、その一方で。
クロード=クローディア・プレスコット第一王女殿下の求婚は、政治的に大きく、強い意味を持つ。
前世における学生の恋愛駆け引きなどとはわけが違うのだ。別の男の気を引きたいから、などという雑な理由だけで、このような真似をするだろうか、と考えると、さすがに、しそうにない。
おそらく、クロードがこのような行動に出た理由には、他にも、なにか別の意図、狙いがある。
王女が向こうから転がり込んできた、このタイミングは、それを聞き出す絶好の――もしくは、最初にして最後の機会かもしれなかった。
であれば……僕は皮肉な笑顔を引っ込め、代わりにニヤリと笑った。
「なるほど。デートですね」
王女の微笑みが固まったように見えたが、僕は構わず続けた。
「お互い、政略結婚を避けられない立場ですが、
それから、品定めするように、王女の表情を眺める。
僕の視線をどう受け取ったのか。王女の笑顔は、少しばかり引きつっていた。
「殿下が、親交を深めるためにわざわざ足をお運びくださる、そのような方とわかり、安心いたしました。 ――はじめてそのお話をうかがった時、王城の庭で会った凛々しいクロード様のイメージしかなく、正直戸惑いましたが、昨夜の、そして今の、麗しい
それから、この麗しい王女様は、ベッドでどんな表情をするんだろうな、などと想像しながら、笑みを作った。
「今日のお姿も、よくお似合いですよ」
「……ありがとうございます」
微笑みこそ崩さなかったが、嬉しくなさそうに言ったクローディアは、紅茶のカップを傾けてから、澄まし顔で続けた。
「よろしいのですか、マリアンヌ様は」
僕は苦笑を作る。
「殿下も薄々気付いてはいらっしゃると思いますが、マリアンヌ様と
あっさりと認めた僕に、王女は目を見開く。
「クローディア王女殿下には、フィリップ王子と結婚していただく方が、両国のためにも、王子のためにも良いだろう、と考えていましたので。しかし……クロード様がそれほどまでにおっしゃってくださるわけですし、
言って、僕は椅子から立ち上がった。
そして、一歩、横に移動すると、王女に向かって
「王女殿下にお申し出頂いた件、謹んで、お受けさせていただきます」
そう言って、僕は頭を、深々と下げた。
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