81. 侯爵令嬢との密会
時は少しばかりさかのぼる。
公爵家を訪れてから、数日後。僕はドゥブレー侯爵家を、一人で訪れていた。
侯爵の御令嬢、マリアンヌ・ドゥブレーに会うためだ。
約束があることを告げると、出迎えてくれたのは使用人……ではなく、マリアンヌの弟、ドゥブレー侯爵の次男、僕の友人でもあるシルヴァンだった。
正直、できれば今日は会いたくなかった相手だ。
「どうして君が?」
「案内してやるよ。こっちだ」
シルヴァンは顎をしゃくり、僕は彼に続く。
案内されたのは、屋敷の裏手に広がる庭園だった。公爵家のものも立派だったが、こちらも負けず劣らずの規模で、よく手入れされていた。
生け垣の通路を通った、その先には円形の庭池と、傍らに
そのガゼボの下で、立ち上がった令嬢の姿が見えた。
「姉上、お客様をお連れしました」
僕を見て、令嬢はその整った顔を柔らかく微笑ませた。
「ステファン様、ようこそおいでくださいました」
僕は会釈を返す。
「マリアンヌ様、お久しぶりです」
相変わらず、美しい女性だった。
会うのはしばらくぶりで、その美しさはもちろん変わらないが、成長し、より大人っぽくなった姿に、思わずドキドキしてしまう。
しかし、無理もない、と、頭の冷静な部分で思う。
彼女の
好みの僅かな振れ幅で、クール系のヴィルジニーを一番に据えることにはなったが、好みの絵柄でデザインされた女性キャラクター、という点で、変わりはない。
その、好みのキャラクターが、実体となってそこにいるのだ。
以前、今より幼い頃は、単に憧れのお姉さんでしかなかったが、記憶を取り戻した今では、まるで、有名美人女優と対峙しているような高揚感、緊張感があった。
マリアンヌ嬢は表情はそのままに、視線を弟へと向けた。
「シルヴァン、ご苦労様です。下がっていただいて、結構です」
言われたシルヴァンは、戸惑い気味に、僕とマリアンヌに視線を行き来させた。
「えっ? いや……
言ったシルヴァンに、マリアンヌはわずかに鋭くした視線を向けた。
「シルヴァン。ステファン様は、
マリアンヌは優しげながら有無を言わさぬ言い方をし、シルヴァンは不本意そうではあったが、頷いた。
「失礼します」
相変わらず、姉には逆らえないらしい。
シルヴァンが生け垣の向こうに消えるのを待って、マリアンヌは僕へと向き直った。
「弟が、失礼いたしました」
「いえ……お気遣いいただき、ありがとうございます」
彼女に促され、椅子に腰を下ろす。
テーブルの上にはティーセットが用意してあった。マリアンヌ自ら、ポットからカップにお茶を注いでくれた。
「恐れ入ります」
「もう少し早い時期に来ていただけましたら、薔薇を楽しんでいただけましたのよ」
腰掛けたマリアンヌが生け垣に視線を送り、僕もそちらを眺める。
「マリアンヌ様が、お世話なさっているのですか?」
「腕の良い庭師がおりましてね。
「それは素晴らしい。是非とも、見たかったですね」
僕の言葉に、はにかんだように微笑む。
「今日は天気が良いし、池の向こう側の花は、よく咲いておりますから、ここの方が良いかと思いまして」
元気よく咲く黄色い花を眺めて、マリアンヌは言った。
「それにここなら、誰かに話を聞かれる心配はございませんわ」
僕はシルヴァンが去った方を振り返る。
生け垣は程よい高さで、向こう側からこのガゼボの屋根は見えても、その下にいる者たちの姿は見えないだろう。距離も程よく、向こう側に潜んでいても、声は聞き取りにくいはずだ。
反対側は人工の池で、姿を隠すところはない。
マリアンヌへの手紙に書いた、内密の話をしたいという僕の申し出に、配慮してくれたのだ。
「お気遣い、感謝いたします」
僕が頭を下げると、マリアンヌは微笑んだ。
「それにしても、ご立派になられましたね、ステファン様。ついこの間まで、かわいらしい男の子だと思っていたのに……一人前の紳士になられました」
そういうと、マリアンヌはその微笑みを微かに俯かせる。
「少し、寂しいような気もします」
「マリアンヌ様さえよろしければ、どうぞ、以前のようにお呼び下さい」
僕は言ったが、彼女は首を横に振った。
「
まあ、確かに、それもそうだ。
彼女に“スティーブ”などと愛称で呼ばせていては、誰に何を思われるかわかったものではない。
僕は脳裏に浮かんだヴィルジニーの、蔑んだような目を、記憶の隅に追いやる。
まあ、あの目で見られるのは、あれはアレでご褒美みたいなものだが。
「最近はご活躍のようですね。お噂は伺っておりますわ。ヴィルジニー・デジール様と仲良くなさっている、とか」
たったいま頭に浮かんでいた人物の名がマリアンヌの口から出て、僕は口に含んだ紅茶を気管に入れそうになる。
「あら……大丈夫ですか?」
「んっ、ゴホッ……いえ、おかまいなく! えーっと、その……まあ、そうですね。仲良くさせていただいております」
もう一度、咳払いして誤魔化した僕は、今度こそ、お茶を食道から胃へ通した。
「いえ、その、活躍、というほどのことでは、ございませんが」
「あら。ご学友を援助する活動をなさって、大変盛況だ、と伺っておりますわ。それと、貧民街に井戸を作る計画もあるとか」
マリアンヌは、両手を合わせて笑みを作る。
「大変素晴らしいと思います。
「そう言っていただけると、大変心強いです。皆、喜ぶと思います」
もう一度、微笑んだマリアンヌは、上品な仕草でカップへと手を伸ばした。
「では、そのお話ではございませんのね」
ふんわりした態度に騙されそうになるが、本来、彼女はとてもかしこく、察しがいい人物なのだ。
そろそろ切り出すべきか。
僕はカップを置くと、姿勢を正した。
「マリアンヌ様。これからする話は、どうか御身の中でだけで、留めておいていただきたいのです。決して、他言はなされませんよう、お約束いただきたい」
僕の言葉を聞いて、マリアンヌは微笑んだ。
「もちろん、お約束いたします。他ならぬ、ステファン様のご要望ですもの」
頷いた僕は、続けて口を開いた。
「
王子の名前を出した時、一瞬だけ、彼女の形の良い眉が動いたような気がした。
気のせいかもしれない。
「フィリップ王子とヴィルジニー・デジール嬢の婚約は、早晩、解消されます」
マリアンヌの微笑みが、遂に驚きの表情になった。
「そっ、それは……本当のことなのですか?」
僕は、頷く。
マリアンヌは口元を両手で隠すと、視線をどこか、遠くの地面へと向けた。
「ヴィルジニー様……まさか、そのようなこと」
そのようにつぶやいてから、不審げな視線を僕へと向ける。
「どうしてそのようなことに……ヴィルジニー様がお可哀そう」
咎めるようなその目元に、じわりと涙が浮かび、僕は慌てる。
「あっ、あの……マリアンヌ様?」
「ヴィルジニー様は、フィリップ王子との婚約を、とても喜んでいらっしゃったわ」
自らハンカチを取り出し、マリアンヌは続けた。
「それを……あんまりな仕打ちです」
そうして、目元を拭うマリアンヌ。
僕はその反応に、感心してしまう。
マリアンヌ嬢はかつて、フィリップ王子の婚約者候補の筆頭だった。ヴィルジニーがその座を射止めた後でも、最終的に王子と結婚するのはよりお似合いのマリアンヌ嬢だ、とまで言われてしまうほど。そういうマリアンヌだから、ヴィルジニーをライバル視しているとか、婚約者の座を奪われた相手だと、敵視しているのではないか、と思っていた。
だから二人の婚約が解消されると知って、喜ぶことだってあるかもしれない、と思っていたのだ。
ところが、この反応だ。
彼女は心底、ヴィルジニーのことを案じているように見える。
もちろん、これが演技だという可能性はある。僕の前で、実は意地の悪い貴族令嬢の姿を、見せないための。
でも少なくとも今の彼女の姿からは、そのようには思えなかった。
ここまでの反応を見せて、なお内心でほくそ笑んでいるのだとしたら、大した女優だ。
「未だ学生の身で慈善事業まではじめられて……とても崇高で、王族の一員になられる方に相応しい行いですわ。そのようなことができるお方なのに、それが――」
「まっ、待って下さいマリアンヌ様」
僕は、怒りすら帯びはじめた彼女の言葉を遮った。
「この婚約解消は、円満になされるものです。ヴィルジニー様も、同意なさっているのです」
マリアンヌは、目を見開いた。
「そんな……まさか」
信じられない、と言いたげなマリアンヌに、僕は頷いた。
「本当に?」
「本当です」
「ヴィルジニー様のお立場では、相手側のご意向なら、不本意でも受け入れるほか、ございませんでしょう?」
「そういうものではありません。大変前向きに、受け止められております」
「まあ……」
目を丸くしたマリアンヌは、再び両手で口元を隠した。
「ヴィルジニー様……そう、ヴィルジニー様が――」
視線を泳がせた、後。
それは、ようございました、と、マリアンヌは力が抜けた様子で、言った。
どうやら落ち着いたようでホッとする、反面。
悪役令嬢ヴィルジニーのことを、このように心配する心根を持った彼女に、この後のウソに塗れた本題を聞かせるのは、果たして正しいことなのか――そのように思いついてしまい、僕は逡巡してしまう。
僕の邪な企てすら、粉砕してしまいそうになる。
“最高最善”の二つ名は、どうやら伊達ではないようだ。
「それで――」
我に返った様子のマリアンヌは、上目遣いに僕の方を見た。
「そのお話を、なぜ、
その澄んだ瞳に、僕は思わず、息を呑む。
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