22. 味を占めた悪役令嬢

 夕食を終えて部屋に戻ると、ほとんど間をおかず、扉がノックされた。

 僕が戻るのをどこかで待っていたようなタイミングだと思ったが、実際にそうなのだろう。


 扉を開けると、そこに立っていたのはヴィルジニーで、僕は慌てる。


 いくら行き来は制限されていないとはいえ、時間帯が遅過ぎる。こんな時間に男子の部屋を訪ねているところを誰かに見られたら、面倒なことになりかねない。


 幸いにも、廊下には誰もいなかった。

 僕は彼女を部屋に引き入れると、そっと扉を閉める。


 さすがにこれは無用心すぎる。説教しようとした僕だったが、それより先に、公爵令嬢が口を開いた。


「ステファン! やりました! 王子に褒められました!」


 僕は――彼女の発したの衝撃に、彼女が何を言ったのか、すぐに理解できない。


――今……えっ? 彼女、僕のことを「ステファン」って……


 僕の動揺になど気付かず、ヴィルジニーは両手を胸の前で抱く。

「王子はわざわざ、わたくしを訪ねていらっしゃったのです! そして――素晴らしいことをはじめられましたね、と、褒めてくださったのです」


 うっとりと目を閉じるヴィルジニー。僕はその、艶かしい唇に視線を奪われる。

 いま、この口が僕の――


「何を見ているのです?」


 その言葉に我に帰ると、彼女は自らの身を守ろうとするように、両腕を抱きしめている。しまった、そんなにいやらしい視線を向けてしまったか。


 僕はあくまでもさりげなくというふうに視線を逸らし、

「いま……わたくしのことを――呼び捨てにされました?」


 ヴィルジニーは、ハッとしたような顔をしたが、すぐに、その両腕を組んでそっぽを向く。


「あっ、貴方あなたの名前は……フルネームだと長いし、いちいち“殿”を付けるのもまどろっこしいのです! ――わたくしと貴方の立場を考えても、そのように呼んでも、差し支えはないでしょう」


 その様子を見ると、名を呼び捨てにしたのはおそらく、何か理由があったわけではなく、とっさに出てしまったのだろう。高貴な生まれのお方だから、メイドや使用人を相手にするときのようなつもりで言ってしまったのだろう。


 確かに身分的に、彼女が僕をそのように呼んでも、差支えはない。しかし一方的に下に見られるのもしゃくだ。なによりこの機を逃せば、僕の「互いにファーストネーム敬称無しで呼び合う関係になる」という目標は、達成困難になる。

 予定とは違ってしまうが、ここで行くしかない。


「では、わたくし貴女あなたのことを……ヴィルジニー、と呼ばせていただいてもよろしいですね」


 問いではない。断定的に、僕は言う。ここは多少強引でも、押すべきところだ。


 しかしヴィルジニーは予想通り、目元を歪ませる。


「はあ? なぜそうなるのです」


わたくしの助言を必要としているのは、貴女。であれば立場的には――」


 ヴィルジニーは今度こそ、はっきりと僕を睨んだ。


「貴方の方が上だと?」

「いえ、そこまでは申しませんが……」


 せめて対等では? というジェスチャーをしてみせる。伝わったかはわからない。


 ヴィルジニーは少しだけ考える様子を見せたが、


「まあ……いいでしょう。しかし、他の者に聞かれては関係を誤解されかねません。そのように呼ぶのは、二人の時だけにしてください」


 えっ? 二人だけの時なら呼び捨てオッケーってこと? なんというかそれ……逆に萌えるんですけど! 本当にいいんですか!?


 思わず身悶えを抑えられなかった僕に気持ち悪いものを見る時のような視線を送ってから、ヴィルジニーは「そんなことより」と言った。


わたくしの話、聞いていました?」


「あっ、はい、聞いてましたよ。王子に褒められたんですよね、おめでとうございます」


 そう言うと、ヴィルジニーは不本意そうな視線を向けてくる。なんだよ祝いの言葉を述べたのに。


「心がこもっていませんね」


 大げさに喜ぶのを期待していたのか。


「正解だったでしょう? の言うとおりにして」


 僕の砕けた口調を聞いて、何度か瞬きしたヴィルジニーは、気を取り直して言った。


しゃくですが、どうやらそのようですわね」

「――は、僕に礼を言ってくれてもいいのでは?」


 許可をもらっているとはいえ、実際にそう呼ぶのは、少し緊張した。


「貴方なら私の要求どおりの仕事ができる、そう見抜いた、私自身の功です」


 頬を歪めたヴィルジニーの言葉に、僕は嘆かわしげに首を横に振る。


「それじゃあダメなんですよ。ねぎらいの言葉には、すごい力があるんです。言われた人がどういう気持ちになるか、貴女自身、もうわかってらっしゃるでしょ?」


 彼女は片眉を上げて見せたが、目を細くして数瞬、考え、不本意そうに口元を歪めたりもしたものの、結局は言った。


「ええ、そうですね。ありがとう、


「――どういたしまして」


 意外にも素直に言った彼女に驚かされもしたが、僕はなんとかそう応え、微笑みを返した。

 ヴィルジニーはぷいっとそっぽを向いたが、わずかに見えるその口元には、まんざらでもないものが浮かんでいる。


 それを見て、僕は満足した笑みを浮かべてしまう。

 ささやかなものではあったが……ヴィルジニーのその笑顔は、他の誰でもない、僕と彼女が作ったものだったから。



 それに――思っていたのとは、少し……いや、全然違ったかもしれないけど。親密さがアップしてそうなった、というのとは全然違うけど。


 ファーストネームで呼び合う仲になった!

 早くも目標達成だ!


 しかしこうなってくると、すぐに次のステップに行きたくなる。今度こそ親密度をあげて――



「それで、次は?」


「……ん?」

 ヴィルジニーの言葉の意味がわからず、首を傾げた僕に、公爵令嬢は露骨に呆れた顔をする。


「次ですよ、次。フィリップ王子に褒められるための、次の作戦です」


 僕は、「何を言っているんだお前は」、という顔をしてしまう。


「なんですか? その顔は」

 ムッとした顔で再び腕を組むヴィルジニー。

「えっ、いや……まだ要るんですか?」

「当然です。そうでなければ、なぜわたくしが貴方を訪ねてきたりするのです?」


 言われるまで気づかなかったが……確かにそうだ。

 ヴィルジニーと僕は、お友達になったわけではない。

 ヴィルジニーにとって、僕は利用価値がある、この関係だ。

 僕が“作戦”を提供できなくなったら、ヴィルジニーが僕と関わる理由など、ない。


 せっかくファーストネームで呼び合う関係になったのに――


 真の意味で親密な関係になるまでは、僕は彼女の“協力者”というポジションをキープしなければならないのだ!


 なんという茨の道――と一瞬思ったが、しかし、彼女の方から欲してくれている今は、むしろありがたいと思うべきか。

 そうであれば、ヴィルジニーの要求に、きちんと答えなければならない。


 ならない……のだが――


「えっ、えーっと……。――少し、お時間をいただけないでしょうか」


 ヴィルジニーは腕を組み直すと、これみよがしにため息をついた。


「仕方ありませんね。まあわたくしも鬼ではありません。時間を与えましょう。ただし、あまり長くは待てません、そのつもりで」


「……恐れ入ります」


 悪役令嬢は、してやったりとばかりに微笑むと、顎をそらし、僕を上から見るようにして言った。


「期待してますよ、ステファン」



 その時の僕は、まだ気づいていなかった。

 彼女の要求に従うこと、それ自体が、僕の目的の障害になりつつある、ということを。

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