第2話

12. ファーストネーム

「すっ、ステファン・ルージュリー様!」


 緊張した様子の呼びかけに、僕はゆっくりと振り返る。

 次の教室に移動しようとしていたところだった。


 声をかけてきたのは、特待生、セリーズ・サンチュロン。あの一件以来、見かける時は常に誰かと一緒だったが、今は一人。

 僕は警戒心を表に出さないよう、これまで今生の生活で培った貴族メンタルを総動員して顔面の筋肉を制御し、微笑みを返した。


「こんにちは、セリーズ・サンチュロン殿」


 彼女は一瞬、周囲を気にした様子を見せてから、距離を詰めてきた。

 近くにこちらを伺っているような人物はいない。


「あの……先日は助けていただいてありがとうございました! 二度も――」


 二度、というのはどういうことだろう、と僕はちょっと考えてしまう。

 一度目は、入学式の朝のことだろうが。

 そうまで考えて、そういえばあの“学食の一件”、ヴィルジニーの誘いを受け、迷ったセリーズに頷いてみせた、あのことだろう、と思い至る。


わたくしは、礼を言われるほどのことはしていませんよ」


 僕が言うと、顔を上げたセリーズは、首を横に振った。


「とんでもございません! あのとき、ルージュリー様が間に入ってくださらなければ、わたし――どうしていいかわからなくなってしまっていたと思います。

 食堂のときだって――ルージュリー様があそこにいてくださらなければ、わたし、ヴィルジニー様のお考えを誤解してしまうところでした」


 そしてもう一度、頭を下げる。


「おかげさまで、ヴィルジニー様のお友達のグループの方々に仲良くしていただけるようになりました。本当にありがとうございました!

 もっと早く、お礼を申し上げなければと思っていたのですが……その、すいません、貴族の方に声を掛けさせていただくのが、はばかられて」


「顔を上げてください、セリーズ殿。我々はお互い同級生、机を並べる学友ですから、もっと気軽に声を掛けていただいて良いのですよ」


 セリーズは顔を上げた。


「はい、ありがとうございます。あの……どうかわたしのことは、ただのセリーズとお呼びください。ルージュリー様が公平に扱おうとしてくださっているのはわかるのですが、平民であるわたしには、貴族の方にそのように呼んでいただくのは、その、分不相応というか、逆に恐縮してしまうのです」


「なるほど。ではわたくしのことも――」

 と自然に返しかけた僕だったが――僕は自分の“警戒心”が、彼女の素直な態度によって緩みかけていることに気づき、慌てて口を閉じる。


「ルージュリー様?」


 不自然に言葉を切った僕を、セリーズは不思議そうに首を傾げ、覗き込んできた。


「いえ……そうですね、それがご希望なら、そのようにいたします。次の授業がありますので、失礼」

 僕はやはり不自然に話を切り上げ、セリーズの返事を待たず、背中を向ける。


 彼女から表情が見えないところで、ため息をついた。



 僕は、セリーズとの接触を警戒していた。


 なぜなら、彼女はこの乙女ゲームの主人公、そして僕は、攻略対象の一人だからだ。

 彼女と僕が接触する機会は、おそらく、ゲーム的には好感度を上げるためのイベントだろう。先程の話の流れであれば(恐ろしいことに)、今のイベント一回だけで、お互いにファーストネームで呼び合う関係に発展していたかもしれなかった。


 それでなにか困るのかって?

 大いに困る。


 セリーズには、我が友人であるこの国の第三王子、フィリップ・ド・アレオン殿をしていただく必要がある。

 僕の本命、ヴィルジニー・デジールと、フィリップ王子の婚約を解消させるために。


 僕とセリーズが必要以上に仲良くなっている場合ではないのだ。

 ましてや、僕が攻略されてしまうなどもってのほか。


 関係が発展しかねないフラグは、なるべく立てないに限る。

 そういうフラグ、条件を満たさなければ、どう行動しても、次の関係には進展しない、というのが、この手のゲームのお約束だ。

 この世界が本当に、そういうゲームのアルゴリズムで動いているかは――もしくは、僕の想像と全く違うアルゴリズムが支配しているかは――わからないが、とにかく今は、向こう側からの接触、こちらが準備できていない状況での接触には、よく注意する必要がある。


 しかし、彼女を遠ざけておくだけでは、いけない。セリーズが他の攻略対象とくっついてしまえば、元の木阿弥だ。フィリップ王子を確実に攻略してもらうために、誘導、支援する必要があるだろう。


 そのためには、全く交流がない状態にはできない。

 ある程度の信頼関係を構築しておく必要がある。

 好感度が上がりすぎない程度に、ほどほどに仲良くなっていた方が良い。


 今はいい状態だと思う――たぶん。彼女とは一線が引けたし、それでいて彼女には、僕が味方だと思わせられているだろう。

 付かず離れず。その距離感は、慎重に見定める必要がある。


 それに――僕は今の思考で出てきたもう一人の女性、僕の本命である麗しき悪役令嬢、ヴィルジニー・デジールのことを想う。

 ヴィルジニーに、ファーストネームで呼ばれるところを想像する。

 よそよそしく「ステファン様」などとではなく、ただの「ステファン」と、だ。


 うん、いいね……


 これは、別の女と仲良くなっている場合ではない。

 まずはヴィルジニーと、ファーストネーム・敬称なしで呼び合う関係にならなければ。

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