第154話「退却と逃亡」
死ぬ…
意識が死を受け入れたその瞬間、
迫り来る死を感じた刹那の中に生まれたその真紅の蝶は天高く舞い上がり、
だが、喜助の視たその蝶は天へと舞い上がることはなく、刹那の中で地を赤く染めると同時に液体が地を鳴らす音が辺りに響いた。
真紅の蝶は極楽蝶などではなく、その実は人体から噴き出す
喜助は白煙の中で飛び散る
それは死の刹那に視た幻覚ではなく、既死を回生した事による生の刹那に視た錯覚であった。
喜助は死ななかった。
既に絶体絶命へと陥り、自身の死を認めざるを得ない状況にあった喜助はそれでも斬られなかった。
喜助を斬ろうとしていた二人はほぼ同時にその胴体を胸の位置で両断されて
「……
喜助の前には慶一郎が立っていた。
正しく九死に一生を得た喜助は思わずジンという偽名ではなく、慶一郎の名で呼んでいた。
「
慶一郎は喜助が女を怒鳴りつける声を聞いてその場へと駆け付けると同時に喜助へと迫る二人を斬った。
そして、喜助の危機を救った慶一郎もまたジンとしての口調ではなく、慶一郎自身の口調で話していた。
(危なかった……しかし、
白煙と共に立ち込める匂い、そしてその状況を生み出した爆発音は少なからず慶一郎の
慶一郎は自身の長所がそのまま長所としてこの場で体現され、喜助は通常ならば長所となる筈の特異体質が仇となっていた。
「…バカ野郎、何がやはりだ。今の俺に云う言葉はこの状況でデケェ声出すなマヌケ、だろうが……」
「ふふ、そうですね。視界が儘ならないこの状況での大声は自らの居場所を敵へ教える愚かな行為かも知れません。ですが、その愚かな行為のお陰で私は
「こいつか?こいつは見ての通り芸妓だ。どうやら相当な数の芸姑がこの
(出血が酷い…放っておけば大事もあり得るか。となれば……)
「…
「なにっ!?おっさんや他の皆に黙って逃げるってのか!?ぐ…
慶一郎は喜助の負った
この場にいるのは二人だけではない。
五代目
見ず知らずの女を助け、この場から逃がそうとしたのはあくまでも喜助の独断である。それは喜助のやさしさ故の行為であり、首尾よく逃がせたならば即座に再び戦闘へと引き返すつもりだった。
だが、この時に慶一郎が云った「退きましょう」という言葉、それを喜助は自身にとって不本意な意味を持つ言葉として受け止めた。
逃げる…
喜助は慶一郎の放った「退きましょう」という言葉をそう解釈した。
そして、その
それ故に喜助は認められなかった。否、喜助は認めたくなかったのである。
「いつ襲われるかわからないこの状況では手当ては愚か止血も困難です。一旦退いて立て直さなくては」
「…
「違います
「!!!」
「
「
将としての資質。
喜助はこの瞬間、慶一郎にそれを感じた。
水戸での一件で『将とは時に私情を捨て置かなければならない』と義太夫から教えられた喜助であったが、この時に喜助は将足る者が備えていなくてはならない要素、私情を捨てる事とは異なる将としての資質を慶一郎に感じた。
それは…
信頼。
慶一郎は義太夫達を心の底から信頼しているからこそ目の前の
即ち、この
逃亡と退却…端から見ればこの二つはどちらも似た様なものであり、その
だが、慶一郎にとってこの退却は
慶一郎は
信じるが故に頼る。
これこそが慶一郎の「退きましょう」という言葉に込められていた真意であった。
「……わかった、退こう。そんじゃあ案内を頼むぜ。実はさっきから方向感覚がなくてどっちに行きゃあ寺の敷地から出られるか全くわからねえんだ。おい、お前も一緒にい…ん?おいお前なにすん…
「ちょっと
喜助が声を掛けるのとほぼ同時に芸妓の女が喜助の腕を肩に掛け、自らの
「お前さっきまでぐずってたくせに…まあいい。よろしく頼むぜ」
「うん。私こう見えて山育ちだから力はあるんだから」
(強い
慶一郎自身は気付いていなかったが、芸妓の女に強さを与えたのは他ならぬ慶一郎であった。
突如現れた慶一郎と喜助のやり取りが女にこの上ない安心感を与えた。視界も儘ならず、周囲では人と人とが殺し合う音と声が響いているにも拘わらず、慶一郎がその場に現れた瞬間に喜助の
女にとって喜助も慶一郎も目の前で人を殺した人殺しであるという事実は揺るがない。しかし、女はその人殺しが他者に対する思い遣りを抱き、その思い遣りが自身にも向けられていると感じ取った。そして何より喜助と慶一郎の両者は周囲にいる他の人殺しと異なり、殺す相手を選んでいると気がついた。
女は二人のやり取りを見ていて、目の前にいる二人の人殺しは少なくともこの場に於いて無関係の者を殺すつもりはないと悟った。
それが女の心を強くさせ、女を律し、女に自らが助かるためには二人に協力するべきだという判断を下させたのだった。
『絶望の淵に置かれていても、たった一つの希望があれば人は歩みを進められる』
女は喜助と慶一郎に希望を見た。
「
「は?なんで…って、おいおい。お前なんで俺の弓を…」
「撤退戦には
「…扱えんのか?」
「
「ごえっ!!」
慶一郎は喜助の弓で矢を放つと白煙の向こうに微かに影として見えていた者の喉を射抜いた。
「弓術は刀を扱う者にとって
『弓を扱う事もまた剣術の一部』
慶一郎の父である
それは、武器として誕生する以前に狩猟の道具として誕生して武具となり、武具から武器へと昇華された弓という武器の特異性、即ち人類最古の本格的な飛道具であり、人類の歴史に於いて最も人の
円の動きと線の動き、即ち曲線と直線。
相反するその二つの軌道は剣術にも通じている。それ故に甚五郎は弓を学ぶ事は剣術に活きると考えていたのである。
そして何より、飛道具である弓は剣術には決して
それは
物を投げる投擲武器とは異なり、弓は
如何に剣術に秀でていたとしても弓の間合や扱い方を知らなければその飛距離に対抗出来ずに射られてしまう。しかし、弓の間合や扱い方を知る者は対抗策を練ることが可能となり、壁を
刀と弓、剣術と弓術。
異なる武器と武術の相似点と相違点、それらを学び身に付けること、それはどちらか一方だけを専門に扱う場合に於いても決して無駄にならないのである。
「…そのわりには楽々と扱ってんじゃねえか」
「あなた達、無駄話が多いわよ。さっさと逃げましょう。次の奴がどっから来るかもわからないんだから」
「そうですね。では行きましょう。決して離れないでください」
慶一郎達は白煙の立ち込める戦場を脱出するべく歩み始めた。
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