第156話「武蔵の秘密」

 慶一郎けいいちろう達が寺を訪れる前夜、武蔵むさしは五十人あまりの芸妓を寺に呼んで宴を催していた。

 この日より更に前々日の昼過ぎに自身へ向けた果たし状と称する立札たてふだの存在を知った武蔵はその瞬間から当日へ向けた策を練り始めていた。

 それは、相手が如何なる人物であろうと多勢であろうと一網打尽にしてみなごろしにし、自身の得ている評判を更に高める為の策であった。

 まず、武蔵は弟子を介して岡山藩主と近隣の地域の管理を任されている者へ賄賂を贈り、当日のとなる寺周辺で起きる全ての事を静観する様に根回しした。その上で武蔵は自身と因縁のある者や自身を討って名を上げんという野心を抱く武芸者達へ向けて『八月八日に訪ねて来れば決闘に応じる』という文言と共に寺の場所を流布し、いんとん先の山小屋へ自身に忠誠を誓った弟子達、総勢百十六人を集結させた。そして、その弟子達に其々役割を与えて自身の練った策を成す為の準備をさせた。

 慶一郎達は吉岡一門である十二人に武蔵の動向を監視させていたものの、総勢百十六人の武蔵流の門下全てを監視することは出来ず、尚且つその百十六人の中には個人的に人を雇っている者もおり、それらを含めると百五十人を上回る者が武蔵の指示で動いていた為、十人あまりで監視するのは不可能であった。

 こうして、武蔵はそのによって得た人脈と権力を活用し、自身を狙わんとする者を待ち受ける為の罠を張った。

 その罠の一端には武蔵が催している本殿での宴も含まれていた。


「ほりゃほりゃ、ぜにが欲しくばもっと酒を呑むっちゃ!」


「はぁん…武蔵むさしさまぁ…ウチはもう呑めなんし…」


「姐様、ならばわっちが…」


「げはは!呑めるなら誰でも構わんちゃ!一本呑み干す毎に一両くれてやるっちゃ!今夜は皆で呑み潰れるっちゃ!銭が欲しいもんは酒を呑んで潰れるっちゃ!」


 武蔵は云いながらかねをばら蒔いた。

 金が宙を舞い、地を打つ金属音が辺りに響くと、その音に惑わされた芸妓は武蔵に云われるが侭に酒を呑んでは金を拾い集めた。

 寺の本堂を酒宴場として行われている一連の行為はまさしく酒池肉林を思い起こす程の光景を映していた。

 一人、また一人と芸妓が酔い潰れ、まだ酒を呑むことを許されていない芸妓見習いが世話しなく動き回り、酔い潰れた自身の姉代わりの女達へ布団を掛けた。

 やがて、まだ年端もいかない芸妓見習いですらもその狂気の宴へ巻き込まれ始めると、自身の思惑通りに事が進んでいると確信した武蔵は宴の場を離れた。

 そして…


「ぷふぅー……たまらん…徳川の世になって優れた渡来品の流入が増えたと聞いていたが、この極楽香ごくらくこうはその最たるものだ…これを水戸や尾張で作っているという噂話が真実ならそっちへの移住を考えてみてもよいな…ぷふぅー…」


「お師様、明日みょうにちの件で報告に参りました」


「コジローか。…入れ」


 本殿から離れた小屋の中で煙管きせるくゆらせる武蔵の下へ一人の男が近況報告にやって来た。

 武蔵の吸っている極楽香、これは慶一郎けいいちろう達が水戸の地下で見つけた阿片を加工して混入したお香の流通名である。

 本来は香炉でいぶして吸う物として流通されていたが、武蔵はそのお香用の物を煙管で吸っていた。


「失礼致します。お師様、明日の準備は順調に進んでおります。例の吉岡一門は少数のままで変わらず、各地の武芸者共は続々とこの寺の周辺に集まっております。芸妓も本殿にとどまり、例の罠は今朝仕掛け終えましたので、残された問題は明朝、近隣の賊や破落戸ごろつき共が想定通りに集結するか否かです」


「ぷふぅー……馬鹿共は問題ない。所詮奴らは金と女に釣られる亡者共だ。生き残れば褒賞金千両と数十人の女が貰えるいのちけの武芸大会が行われるとあれば飛び付くに決まっている。特にこの辺の連中は俺がどんな金の使い方をするか知っているが故に主催が俺だと聞けば尚更無視する筈がない」


「この辺りに住む者でお師様が役人と共に一晩で三百両を使い切った話を知らぬ者はいませんからね。一晩で三百両使うならば褒賞金千両も嘘ではないと、金に目が眩む連中はそう考えるでしょうね」


「欲にまみれた連中はとことん馬鹿だからな。あの金が俺の金ではないと知らずに騙されて群がり、そして生命いのちを落とす」


「あの晩も極楽香を吸い過ぎた芸妓や役人が百人ほど狂い死にましたからね」


「九十六人だ。ぷふぅー……こんな煙ごときで狂い死ぬとは情けないものだ」


「お師様の肉体からだが頑丈なのでは?なにせお師様は天下無双なのですから」


「天下無双か…発想に力量うでが伴わない二流剣士でも頭脳あたま言葉くちを使ってそれらしく振る舞えば他人ひとを出し抜ける。剣術の発想が優れているだけで事が出来る。奇妙おもしろい事よな」


「またその様なご冗談を。万が一にも誰かに聞かれでもしたら大変ですよ。お師様は…は天下無双なのです。それだけは努々ゆめゆめお忘れなき様に」


「…そうだな、宮本みやもと武蔵むさしは天下無双だ。ぷふぅー……ところで、皆はもう寝たのか?」


「いえ。まだ何人かは最後の仕上げに取り掛かっております。…しかし、この小屋には朝まで誰も近寄るな。と、お師様が云っていたと皆へ伝えてあります」


「そうか。朝まで誰も近寄らんか。それならば……」


 武蔵はくわえていた煙管を置くとそれ迄の横柄な態度を改め、正座した状態で床に額が着きそうな程に深々と頭を下げた。


秋山あきやま様、本日もまことにご苦労様でございます」


「…おいおい、その様な事はせんでよいといつも云っておるだろう。頭を上げろ武蔵たけぞう。俺とお前はあの日より一心同体だ。媚びる必要などない」


 小屋の周囲に人がいない事を確認した途端に二人の立場は一変した。

 武蔵は秋山という男から云われた通りに頭を上げると口を開いた。


「恐悦至極でございます。あの日、十六歳じゅうろくだった私はくらの中で虫けらを喰らう野鼠でございました。蔵の外には自らよりも遥かに強い鼬や狐がいるとも知らずに血気にはやって秋山あきやま様に挑み、そして完敗したのです。敗者は勝者に…いえ、弱者は強者に服従するもの。私のこの態度は媚びているのではなく、自身の弱さを認めているだけです」


「殊勝な事よ。だがまあ、お前が弱者であるのは確実たしかだ。膂力ちから自慢のガキが力任せで勝てるほど剣術は甘くはない。お前を殺そうと思えばいくらでもそれが出来た」


「しかし、秋山あきやま様はそれをしなかった」


「うむ。お前が俺に瓜二つだったからな。あの新免しんめん無二むにの子が田舎侍のこの俺、秋山あきやま小次郎こじろうに瓜二つとなればそれを利用しないはない。そう思って俺はお前を生かした」


「そして、あの日より秋山あきやま様は新免しんめん武蔵たけぞうとなりました。以来、秋山あきやま様が私の代わりに数々の決闘を行って頂いたお陰で私は宮本みやもと武蔵むさしとしてこの地位を得られました。このご恩、返そうにも返し切れるものではございません」


「気にするな武蔵たけぞう。戦国の世ならばいざ知らず、現在いまの世では単に強いだけでは名は売れん。我流の田舎侍では宮本みやもと武蔵むさしの得た地位には上り詰められんのだ。だからこそ新免しんめん無二むにの子であるお前の名が必要だった。それにお前の知略もな。云うなれば武蔵むさしは俺とお前が二人でだ。その地位は俺一人の功績によって得たものではないから恩など感じなくていい。…それに、他の者はともかく吉岡よしおか憲法けんぽうとの一戦に於いて俺の剣はあの者よりも完全に劣っていた。あの者は本物の天下無双、本来ならば俺は奴に殺されていた。だが、奴は宮本みやもと武蔵むさしに負けた。俺達の武蔵むさしが天下無双の剣に勝ったのだ」


吉岡よしおか憲法けんぽう…確かにアイツの剣は天下無双でした。秋山あきやま様の剣が全く通じなかった時には寒気がしましたよ」


「だが、奴はお前の練った策によって丸腰にならざるを得なくなり、俺の剣の前に死屍しかばねとなった。俺達は単独ひとりでは勝てなかった。この意味がわかるか?」


「私の策と、秋山あきやま様の剣、二人で天下無双を討ち果たした。と、解釈してもよろしいですか?」


「その通りだ。俺達は二人で天下無双なのだ」


 宮本武蔵は二人いた。否、新免武蔵と秋山小次郎という男、二人で宮本武蔵だった。

 表向きは武蔵むさしとされている新免武蔵は知略に長けた二流剣士であり、その武蔵たけぞうがまだ自身の剣術が二流と知る前の十六歳の時に出逢った無名の剣士秋山小次郎、この秋山こそがもう一人の宮本武蔵である。

 秋山は剣士として一流であり強者もののふと云って相違ない経験と力量うでを持っていたが、家柄と人脈に恵まれなかったが故に仕官先すら得られない牢人だった。その秋山が名を上げる為に武蔵たけぞうの父親であり、天下無双の一人として名を馳せていた新免しんめん無二むにに逢いに来た際にその子である武蔵たけぞうと出逢った。

 そして、死合しあった末に意気投合した二人は互いの長所を活かして宮本武蔵という人物を創り上げた。


「ところで武蔵たけぞう、寺の敷地を戦場とするのに反対していた僧達はどうした?」


秋山あきやま様が尼僧を犯している間に生きたまま野犬の餌にしてやりました」


「ほう、そうか。で、どうだった?」


「あまりの惨さに笑いが込み上げてきましたよ。特に小僧が泣き喚きながら喰われるさまはもっと見ていたい程でした」


「そうか。ガキの肉と内臓は臭みが少なくて美味故に糞を抜く時間があれば俺が喰ってやりたかったが、お前がたのしめたのならばヨシとするか」


「勿体ないお言葉です。ところで秋山あきやま様、犯した後の尼僧はどうしたのですか?」


「極楽香を大量に嗅がせた後で近くにいた無宿人にくれてやった。今頃奴らの慰み者にされている頃だろう」


秋山あきやま様はひどいことしますね」


「お前もな、武蔵たけぞう


 武蔵と秋山、宮本武蔵を二人は人道にもとる互いの行いを誇る様に聞かせ合い、それを笑い合った。

 そして、最後に二人は今回のに見せる宮本武蔵の人物像を飄々とした態度を取って相手を小バカにする狸親父と決めた。

 これはあくまでも敵を油断させる為に見せる偽りの人物像、即ち策の一部であり、勝った後にはその狸親父という人物像は無かった事にし、あくまでも天下無双である宮本武蔵として誇らしい人物像を示して名を上げるのが二人のやり方であった。

 やがて夜が明け、陽が昇ると間もなく五代目吉岡よしおか憲法けんぽうを名乗るおおおとこと六人のが寺を訪ねてきた事で武蔵と秋山は自分達の策が順調にその形状かたちを成して来ているとほくそ笑み、上機嫌でその七人の訪問者を招き入れて大将同士の一対一での会談を行い、立合たちあいに応じる姿勢を示して罠へと誘った。

 そして、巨男とその従者六人は武蔵の用意した罠に落ち、武蔵はこのに於いての自身の勝利を確信した。

 …だが、武蔵には誤算があった。

 武蔵の最大の誤算は巨男と共にやってきた六人を単なる従者、即ち手下や弟子のたぐいと認識して侮っていた事である。

 従者である以上は大将である巨男よりは劣るという思い込み、それが武蔵の誤算であった。

 巨男と共にやって来た六人は従者などではなく、志を共にした同志なかまであり、その実力は必ずしも大将である巨男よりも劣るものではなかった。

 武蔵の敵としてやって来た七人は七人共にひいでていた。

 かつて小太刀の巨人と呼ばれたおおおとこ

 羅刹の剣士として名高い美剣士…

 後に天弓てんきゅうの死神と称される若き勇士…

 琉球闘士史上最強と云われる烈士…

 頑なに武のいただきを目指す女闘士…

 一族最強と評される柳生のゆう

 酒を発端きっかけにして人格が変わる異端の拳法家…

 たった七人の者達が中心となって巻き起こったこのは歴史にも手記にも記録される事はなかったが、宮本武蔵が関わった戦闘たたかいの中で一番苛烈であったと云われている。

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