第108話「茶々」

 茶々ちゃちゃ…またの名を菊子きくこ

 通名としてよど西の丸にしのまる二の丸にのまるなどの名を持つ。これらの通名は茶々が暮らしていた場所に因んでおり、淀は淀城、西の丸は伏見城の西の丸、二の丸は大坂城の二の丸に其々それぞれ因んでいる。民からは主に御上おかみ様や御方おかた様と称され、天下人の子を産んだ女として敬われ、時には恐れられていた。

 茶々は慶一郎けいいちろうの義兄である豊臣とよとみ秀頼ひでよりの母であり、天下人となった秀吉ひでよしの死後、その座を継いだ秀頼の後見人として権力を欲しい侭にした毒婦と云われている。

 また、の天下分け目の大戦おおいくさ、関ケ原の戦いの折には茶々の進言により秀頼は東軍と西軍のどちらにも豊臣は無関係と主張したとされ、その事を発端として長年豊臣の中枢にった加藤家と福島家が東軍の徳川へ加担したとも云われている。

 更には、西軍が短期間での大敗を喫するに至る謀反の連鎖、そのきっかけとなった世紀の謀反人、小早川こばやかわ秀秋ひであきの裏切り行為の背後には茶々も関わっているというがあり、亡き真田さなだ昌幸まさゆきの口から慶一郎の父、立花たちばな甚五郎じんごろうへそれが語られている。

 我が子を権力維持の道具として扱う毒婦と云われ、が絶えない一方で、真実ほんとうの茶々は子煩悩であり、秀頼を溺愛しているという噂もある。

 その真相を知る事、それは秀頼との会談と同様、慶一郎にとっては重要な事である。


(私が死んだ筈とはどういう事だ?…いや、それよりも何故、茶々この人が私を…あの触状ふれじょうか?それとも他の理由が……)


 この日、茶々は翌日の七月二日が自身の誕生日である事を思い出し、一年間無事に生き長らえた事を先祖に報告する為に大坂城を出て贔屓ひいきにしている寺で法要をしていた。

 その帰りに茶々の乗った輿こしが脚の不自由な男とその娘、心優しい父娘おやこに行く手を遮られ、茶々はその成行なりゆきで輿を降りる事になった。

 そこで茶々はある男を見つけた。

 それは、秀頼の義弟である立花慶一郎だった。


「きいいー!!なぜ此奴こやつが!!此奴こやつには確かに刺客を送り込んだ筈じゃ!!それも徳川のの中でも最の殺戮者と云われた阿轟あごうまでも送り込んだから確実に殺せると云っておったじゃろう!!呼べ!!あの姫路ひめじというガキを呼ぶのじゃ!!」


姫路ひめじだと!?まさか、ながさか姫路ひめじ…!!何故あの者の名を…それに徳川のシシュウ…そしてアゴウとは一体……)


 徳川の死衆ししゅう、阿轟、そして長坂姫路。

 茶々の口から放たれる聞き慣れぬ言葉と忘れもしない音を纏わぬ強者もののふの名、慶一郎はそれらと茶々との関係、その接点に対して想像かんがえを巡らせたがその結論こたえが出る事はなく、茶々に訊く以外に真相こたえを知る手立てはなかった。


御上おかみ様、落ち着いてください。ここではいささか人目がおおございます。この者に関して語るのは移動してからにするが得策かと存じます」


「なにっ!?あ…いや、そうじゃな。ここはそなたに従うとする」


 傍にいた男にそう云うと、茶々は輿の中へと戻った。茶々が輿に乗ったのを確認した男は慶一郎の方を向き、睨み付けながら口を開いた。


「おい貴様ら!!我々は場所を変える!!貴様らも付いて参れ!!」


「ああん?偉そうにしやがって。そっちのお偉いさんもさっきの父娘に見せた態度とは随分ちげえじゃねえか。何様だてめえ……行こうぜ慶一郎けいいちろう。こんな裏表のある輩に付き合う必要はねえよ」


 恫喝する様に云い放った男に対し、喜助は態度と言動で反抗の意を示しながら男と慶一郎との間に割って入り、男を睨み返した。


喜助きすけ殿、気に入らないとは思いますがここは従いましょう」


「なんだと…!?慶一郎けいいちろう、おめえどういうつも…」


茶々ちゃちゃです」


 慶一郎は喜助の言葉を遮って耳打ちした。


「あん?茶々ちゃちゃが何だって?」


「ですから、そこの輿に乗っている女性は私達が大坂に来る原因りゆうとなった義兄上あにうえ秀頼ひでより殿の母、茶々ちゃちゃなのです」


「なにいっ!?あの茶々ちゃちゃだって!?」


「貴様!御上おかみ様に対してなんだその言動は!無礼千万!打ち首にしてやる!」


「即刻そこにひざまずけ!!」


 慶一郎が耳打ちしたその事実に驚いた喜助は思わず大声になり、茶々を名指しして豹変ババアと云い放った。その喜助の言葉に対し、それ迄は常に茶々の傍にいた男一人に慶一郎達との応対を任せていた周囲の者達が男女問わず喜助に敵対心を剥き出しにし、各々おのおのが思うままに喜助に言葉をぶつけた。

 ある者は「田舎者処刑せよ」と…

 ある者は「無礼者に生きる価値はない」と…

 ある者は「即刻死罪だ」と…

 云い回しに差違はあれど、茶々の警備をしている男も世話をしている女も、その内容は往々にして罵りと共に喜助に生命いのちを差し出せと命令している様だった。

 だが、喜助はそれに聞く耳を持たず、傍にいた慶一郎が口を開いた事で怒号にも似たその一方的な命令は収まった。

 慶一郎はただ一つの言葉を云い放っただけだった。

 その言葉は…


「これ以上あなた方が私の友に敵対心を向け続けるのであれば、私はあなた方の口を塞ぐほか方法みちはありません。私にとって不本意ではありますが…」


 


 慶一郎が云ったその言葉の意味をそこにいた全ての者が理解した。

 目の前にいるのは立花慶一郎なのである。その者達が仕えている茶々が名指しした以上、それは紛れもない事実である。その事実がその場にいた全ての者を沈黙させた。

 大坂に流れている立慶一郎の噂は官民問わず浸透し、茶々の傍に仕える者達にとっても立花慶一郎という存在には警戒せざるを得なかった。

 慶一郎が発言してから暫くの間、沈黙が辺りを包んだ。その沈黙を破ったのもまた慶一郎であった。


「それでは、行きましょうか」


 その言葉を合図にして茶々の傍仕えの者達は動き出し、慶一郎と喜助は茶々の乗る輿の後へ続いた。そうして行き着いた先は大坂城が望める小高い丘の上だった。

 その丘は、この日より二日後となる七月三日の夕刻に死屍しかばねに囲まれた慶一郎が涙を流したあの丘だった。

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