第88話「童」

 慶一郎けいいちろうがバサラから本能寺の裏側で起きていた正親町おおぎまち天皇暗殺についての話を聞いていたその最中さなか義太夫ぎだゆうは犬から逃げ回った末に飛び込んだ池の中で身を潜めていた。


「……行ったか?……行ったな?……ふう、ようやく逃げ切れたわ」


 池の中から顔だけを出して辺りを見回し、犬がいないことを確認して慎重に池から上がる義太夫は、滑稽こっけいでありながらもどこか威風があり、濡れるその巨体に纏う着物からは水が滝の様に流れ、滴る水音が辺り一帯に響いていた。


「さてと…どうしたものか……敵を引き付けるという役目は果たせたものの、全くという程に敵を討ててはおらん。それに濡れたせいか寒いのう…む!?」


 池から上がって次の行動を模索していた義太夫は、視線の先に二つの鈍く光るものを見つけて咄嗟に身構え、腰に据えた小太刀を手に取ると臨戦態勢を取った。だが、義太夫の前に姿を現したのは思わぬものだった。

 それは…


「おいわっぱ。貴殿…いやお主はこの様な時分に何をしておる?子供の歩き回る時刻ではないぞ」


 現れた者を怯えさせぬ様に義太夫は精一杯優しく語り掛けた。その義太夫の目の前には身の丈からして五歳か六歳程の子供が一人立っていた。


「………」


「どうしたのだ?おおっ、これか!?これは大丈夫だ。…ほれ、仕舞ったぞ」


「………」


 小太刀を仕舞い、尚も語り掛ける義太夫に対して子供は何も応えなかった。


「むうう…どうしたものか……」


「………」


「もしや聾唖ろうあ者か?」


「………」


「無反応か…或いは水音みずおとに反応して出てきたとも考えられるから聾唖者ではないのかも知れんが……」


「………」


「やむを得ん…少しうるさいかも知れんが我慢してくれ……」


 義太夫は一向に反応を示さない子供に対してある事をしようと大きく息を吸み、次の瞬間それを行動に移した。


「………ヌワアッ!!!!!!!!!!」


 それは、子供が聾唖か否かを手早く確かめる為の手段だった。義太夫の巨声おおごえが辺り一帯に響き渡り、木々が揺れて鳥が飛び立ち、少し前まで義太夫が潜んでいた池の水面が激しく波打つと、二匹の鯉が力無く水面に浮かんだ。

 そして、目の前の子供もまたその巨大な音に反応した。


「アガアアアアアッ!!!ムグゥ!!!」


「むうっ!?…ほほう?我輩に噛みつくとは聴こえておるのだな?だが何故お主はには反応せずにには反応したのだ?…むうっ!?わっぱ!お主その眼は!?」


 義太夫は自身に噛みつく子供の眼を間近で確認してやっとそれに気がついた。

 その眼は確かに鈍く光っていた。


「お主は阿片あへん中毒なのか!?」


 子供の眼は虚ろで焦点が合わず、視線の先も自身が何をしているのかもわからない様子で無心に義太夫の腕を噛んでいた。

 それはまさしく阿片中毒による心神喪失状態に似ていた。


「ガワウアウアウ!!」


「…もはや人間ひととしての理性も動物としての意思も消えておるのか……」


 義太夫は自身の腕から子供を引き剥がし、正面からもう一度眼を視て確認したが、その子供の眼は、まるでの様だった。

 人は意思を持ち、本能を制御あやつる理性を持つ。

 獣は意思を持ち、本能に従う。

 だが、義太夫の前にいる子供は人と獣、そのどちらでも無い様に見えた。即ち意思も本能も理性も何も無い状態であり、その子供が既にだと義太夫は悟った。


「こんな子供にまで阿片を吸わせるとは……むごい真似をする…わっぱよ、誰にやられた?いや、理解わかる筈もないな」


「ギャウアウアウアウ!!!」


わっぱよ…お主は今、せいれどもきてはおらん。お主はまだ動けているが何れは動くことすら出来なくなる。…ならばここで決着けりをつけようではないか……」


 義太夫はそう云うと小太刀の柄を握り、その刃で子供の左腕を少し斬ると意思を持たぬ眼を見つめた。


「やはり痛みすら感じぬか。いや、痛みを感じぬのがせめてもの救いか……許せ…」


 義太夫は右手に持った小太刀で子供の喉元を横一文字に斬り裂いた。

 子供の小さな喉から噴き出す血飛沫ちしぶきが義太夫の濡れた身体からだと着物を赤く染めた。

 義太夫は子供を殺した。

 それは、、そんな苛烈な戦場に長年に渡り身を置いて数々の生命いのちを奪ってきた義太夫にとって、生涯で初めて行った子供を殺すという経験であった。

 義太夫の前で生の証となる赤い液体を噴き出して死を迎えたその子供は、かつて義太夫が戦場で出会った幼さの残る兵達の誰よりも幼く、そして誰よりも死を覚悟していない普通の子供であり、この普通の子供を殺すという義太夫の行為、それは既に人でも獣でも無いと化していた子供にしてやれる精一杯の情けであった。


「…わっぱよ、お主はもっと生きたかったであろうな……」


「やはり居たぞ!!あそこだ!!」


「バカみたいな大声を出しやがって!捕まえろ!」


「お前の声に驚いて犬達は皆逃げてしまったんだぞ!その責任として見つかるまで拷問して、見つかったら犬の餌にしてやる!簡単には死なせんぞ!」


「ぬわっ!?しまった!見つかった!」


 子供を殺した直後、先程の義太夫の巨声を聞きつけた水戸藩に仕える役人達がやってきた。

 そこには義太夫を困らせていた犬達の姿はなかった。自らの居場所を敵に明かしてしまう声を上げた怪我の巧妙と云うべきか、犬達はあまりにも大きなその巨声に畏怖して闇の中へ逃げたのである。


「ぬうう!?この亡骸を放っておくわけにもいかぬが犬はまずい!何とかせねば…しかし犬はいかん……いや待て!奴は今、犬が逃げたと云わなかったか?…おいお主!犬はどうしたのだ!?姿が見えぬが!?」


「バカが!!そのデケェ声に驚いて逃げちまったって云ったっぺよ!!」


 男は思わずが出ていた。

 そして、その言葉によって義太夫は自身の置かれた状況を理解した。


 


 義太夫は小太刀を抜いて構えると大きく息を吸い込んだ。

 そして、迫り来る者達に向けて叫んだ。


「我輩が!!!阿武隈あぶくま義太夫ぎだゆうなり!!!畏怖おそれぬ者は掛かって参られい!!!」


 義太夫の声は夜の静けさに後押しされ、地響きの如く遥か彼方迄も響き渡った。

 その声を合図にして、義太夫は自身の声によって集められ、次々と増え続ける者達との戦闘を開始した。

 戦闘を始める前、義太夫は死屍となった子供が何故になったのかを知る迄は死ぬわけにも捕まるわけにもいかないと心の中で誓っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る