第52話「信繁と潮」

殿との!お目覚めになられたのですね!」


 快活な声と共に部屋に入ってきたうしおの顔は喜びに満ちていた。


うしおか…すまぬ。迷惑をかけた」


「滅相もございません!迷惑など全く感じておりませんから頭をお上げください!」


 潮は頭を下げた信繁のぶしげに対して頭をながら云った。

 そのまま二人は二人共に頭を下げ合い、部屋は沈黙に包まれた。


「………顔を上げてくれ、うしお。そうして頭を下げていては顔を合わせられんだろう。…もう二度と誰とも顔を合わせる事がないと覚悟していたが、こうしてお前の声を聞いただけで堪らなく顔が見たくなった。話がしたくなった」


 沈黙を破ったのは信繁だった。

 頭を上げると同時に信繁は潮に語りかけた。

 その言葉は、主人あるじとして従人けらいに向けた言葉ではなく、友人ともから仲間ともへと向けた心からの言葉であった。

 信繁と潮…

 二人は四つ歳が離れている。

 信繁が潮よりも四歳上であり、信繁がまだ幼名である弁丸べんまるを通称としていた十歳の頃に出逢った三十年来の仲であった。

 その出逢いから数年後の天正十三年、信繁は人質として上杉家へ身を寄せる際に潮を同行させた。

 その頃、信繁は弁丸という幼名を名乗ることを止め、源二郎げんじろうという輩行名を名乗り始めた。

 真田さなだ源二郎げんじろう信繁のぶしげの誕生である。

 潮は、弁丸、源二郎、好白と変わりゆく信繁と常に共に生きていた。る場所は違えど信繁と共に過ごしていた。

 信繁にとって潮とは、身分の差や立場の違いを越えて共に過ごし、共に生きてきたであった。


殿との…」


「聞いてくれ、うしお。俺は俺自身の死とは、俺以外の他人ひとが悲しむだけだと考えていた…俺にとって俺自身の死は、未練は残れどその他の想いを抱くものではないと考えていた」


 親しき他人ひとの死は自分自身が死ぬことの様に悲しいことである。しかし、自分自身の死は自分自身にとって悲しいことではない。

 死の悲しみとは、ものであり、自分自身の死は悲しみではない。

 自分自身の死とは、『消失と未練を伴う欲望』、あるいは『無念』である。

 人は、他人の死に直面した時、様々な想いを抱き、多くのことを与えられる。

 それは、悲しみに限られたものではなく、、即ちである。

 他人の死は他人に多くをもたらす。しかし、自分自身の死は自分自身に多くを与えない。

 人は、自分自身の死に直面した時、真っ先に自分自身をすることに対する、即ちが与えられる。

 死にたくないという想い…それは、生きていたいという直接的な生への欲望。

 死への恐怖…それは、生を失うという消失感に起因した恐怖が故の生への欲望。

 自分自身の死…それは、自分自身の生への欲望の終着点。あるいは、

 もしも、無念であることが残念であるとするならば、心残りがあることになり、それもまた欲望である。しかし、無念とは、本来は残念ではない。

 無念とは、まさしくである。

 生への欲望も死への欲望も一切存在しない。

 何もない生まれる前の状態、それこそが無念である。

 とは、せいうしなうことであり、せいとは、を得ていないことである。

 生と死は相対的であり絶対的である。

 死と生は無であり全である。


 


「だがうしお…俺はやっと気がついた。死ねば友にも会えん。無論、こうして話すこともな…自分自身が死ぬことは、くもさみしいものなのだな」


 いつだって誰よりも他人の死を悲しんでいた信繁は、死を受け入れた時、確かに自身の欲望を感じた。

 信繁は悲しみと喜びが入り交じった微笑みを潮に向けていた。



 その言葉は信繁の想いそのものだった。

 潮に迷惑をかけたという謝罪ではなく、信繁自身の想いだった。

 この瞬間、信繁と潮の想いは心魂こころの奥深くで結び付き、二人は主従を越えた友に還っていた。


「……そうですよ、。死ねば二度と顔を合わせて話すことは出来ない。源二郎げんじろう、あなたが死ぬことはにとってもさみしいことです。それだけは忘れないでください」


 潮は信繁を殿と呼ばず、源二郎の名で呼び捨てにした。

 かつて、二人が出会った頃にはいつだってこうして互いを呼び捨てで呼び合っていた。

 信繁は潮、潮は弁丸と呼んでいたが、武家に於いて身分の差は絶対であり、程なくしてそれは許されるものではなくなった。

 しかし、二人は他人には決して明かすことのない場所、二人だけの空間でのみ許される友の証としてそれを続けていた。

 信繁が元服を機に名を弁丸から源二郎に改めてもそれは続けていた。だが、潮はある時を境に二人だけの空間であってもそれをしなくなった。

 それは、信繁の兄の信之のぶゆきが徳川家の養女となった小松こまつ姫と婚礼を交わし、信繁が真田家の実質的な跡継ぎとなった天正十七年の事だった。それからは潮が信繁を呼び捨てにすることは一度足りともなかった。

 この時、潮が信繁を呼び捨てにしたのは、信繁が真田家の跡継ぎとなって以来、凡そ二十五年の月日が経過する中で初めての事であった。


「そうか…いや、そうだな。うしお、お前のその言葉、俺のこのちっぽけな胸に深く刻もう。………またお前を心配させてしまったな」


「ええ、心配しました。…本当に心配しましたよ、源二郎げんじろう………」


 潮の眼からは涙が溢れていた。堪えようとも堪えきれないが溢れ、潮の頬を伝っていた。

 潮の涙は主従として流す涙ではなく、友として溢れ出る涙であった。


「ふぁっふぁっふぁっ!よい涙じゃのう!人でも動物でもなんでもいい。他者だれかのために流す涙はよいものじゃ」


 潮と入れ替わりに部屋を出ていった医者の男が再び部屋に入ってきた。

 男の声は蒼天の様に清らかで、涼風の様に爽やかだった。


「む……そなた、暫し席を外すと申していなかったか?」


 潮の涙と共鳴するように自身の眼からも涙が溢れそうになっていた信繁は、その涙を溢さぬように一度だけ強く瞬きをしてから男に訊いた。

 男の手には両手で覆い隠せる程の小さな壺があった。


「邪魔してすまんのう、そっちの…うしお君と云ったかな?うっかり治療費を貰うのを忘れとった。それがないと酒が買えんのじゃ」


 そう云いながら男は潮に壺を差し出した。

 潮は頬を伝う涙を左手で拭い、何も云わずに胸中から文銭ぶんせんを取り出してその壺の中にいれた。

 男は潮に対して『確かに受け取った』という満足そうな表情かおをした。


「お主ら、単なる主従かと思ったが違ったのじゃな。こうして見ているとお主らの間には実に心地よい空気がるな。…気に入った!よし!酒を買って来るから戻ったら共に呑むぞ!なに、そんな創など酒を呑めば治る!ふぁっふぁっふぁっ!」


 男はそう云い残して部屋を出ていった。


「…なあうしお。普通、医者が目覚めたばかりの怪我人に酒を呑もうと誘うか?磊落らいらくというか奔放ほんぽうというか、何とも言葉では形容し難き不思議な御仁ごじんだな」


「ええ、何やら底知れぬ度量を感じる御仁おひとでございます。あの雰囲気、まるで…」


甚五郎じんごろう殿の様だ。お前そう云いたいのだろう?」


 潮は自らの言葉を遮った信繁の言葉に静かに頷いた。

 そして、信繁と潮は二人揃って既に姿が見えなくなった男に頭を下げた。

 それから二人は、慶一郎達がいないこの束の間は、主従ではなく友として気の置けない関係に戻って語り合うことにした。

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