第48話「異相」

(手に痺れはない。怪我もしていない。何も問題はない。呼吸だけだ。気取られるな。落ち着いて呼吸を整えろ……)


 弾き飛ばされた際に竹が衝撃を吸収する役割を果たしていたため、怪我はしていなかったが、壁の様に生い茂った竹に背中を激しく叩きつけられた慶一郎は、その衝撃により僅かだが呼吸が乱れていた。

 人は、背中を激しく打つと息が詰まるものである。

 それは、どれ程の鍛練を重ねても抗えない人体の仕組みであり、慶一郎も例外ではなかった。


「…仕掛けて来ないのか?」


 弾き飛ばされた慶一郎に対して距離を取ったまま、それを詰める様子も二撃目を仕掛ける様子もない男に慶一郎が云った。


「少し待ってやる。中途半端な不意打ちをしたわびとでも思ってくれ」


「そうか…ならば!」


 慶一郎は呼吸が完全に整う前に仕掛けた。

 それは、男の言葉に対しての慶一郎なりの抵抗だった。

 男の云った待ってやるという言葉、それは、男が慶一郎の呼吸の乱れを察した上で仕掛けていないということを意味していた。

 その男のに対して慶一郎は呼吸が完全に整う前に仕掛けた。


「むうっ!ちいっ!ぬうううう!」


「はあああああ!はあっ!」


 慶一郎は男に向けて真っ直ぐ跳び、風の様に疾く、淀みのない連撃を繰り返した。

 並の使い手ならば一瞬にして肢体からだを幾つもの肉片に切断されてしまう程の速さと重みのある剣の繰り返しだったが、男は慶一郎の放つ剣を全て受け切っていた。

 しかし、この時の慶一郎の狙いは男を斬ることではなかった。刀を振りながらも慶一郎は男を斬ろうとはしていなかった。

 無論、生半可な剣では男に反撃の機会を与えてしまうため、手を抜いていたというわけではなかったが、慶一郎は剣を繰り出しながらも男のことを本気で斬ろうとはしていなかった。

 慶一郎は攻撃を繰り出しながらも呼吸を制御し、呼吸を整えながら斬ることが出来ないとわかりながら休まず攻撃を仕掛けていた。

 そして…


「ここだ!!」


「ぐう…!!」


 慶一郎は絶え間の無い連撃を繰り出し、流れの中で男に一瞬の隙を生じさせ、その隙を衝いて男の胸に右手の掌底による一撃を浴びせると直ぐに男と距離を取った。


「………それは、先程の詫に対する礼だ」


「ぐく………剣を放ちながらの掌底とは味な真似をしてくれる」


「ふっ…お前のその剣術、両手持ちが仇となったな。…さあ、少し待ってやろう」


 慶一郎の言葉、慶一郎の立ち振舞い、それはまさしく男に対する意趣返しであった。

 男に休む時間を与えられたがそれを拒み、自身が好機になると男に休む時間を与えた。


『やられたらやり返す』


 本来、慶一郎はそういう性格ではない。

 しかし、目の前に立つこの男に対し、慶一郎はそれをせずにはいられなかった。

 慶一郎はなぜかこの男とわざを競い合う様な戦い方をしていた。

 慶一郎の放った掌底は男の呼吸を乱し、掌底を浴びせた慶一郎の呼吸は既に完全に整っていた。


「……恩には恩、仇には仇か。面白い!」


「はあっ!」


 男が慶一郎に向けて跳んだ。

 慶一郎も男に向けて跳んだ。

 男が慶一郎に対して剣を放つと、慶一郎はそれをかわすか、あるいは受け流した。

 慶一郎が男に対して剣を放つと、男はそれを受けるか、あるいは躱した。

 慶一郎と男は互いに相手の剣を受けるか受け流し、あるいは紙一重の間合まあいでそれを躱していた。

 二人の実力ちからは拮抗していた。

 慶一郎はこれまでに学んだ異思気いしきを感じる感覚と剣技で男に武を示した。

 男は慶一郎が現在いままで経験したことのない意思気いしきの流れと凄まじい程の豪剣で慶一郎に武を示した。

 二人は互いに武を示し合っていた。

 その最中さなか、慶一郎には単なる死合とは異なる不思議な感覚があった。


『なんだ?この男はなんだ?この男の意思気は私には向いていない…だが、確かにこの男の放つ気を、意思を身体で感じる…この男から伝わる意思気はまるで全ての存在ものに対して発しているかの様に広く大きい…この男との死合には、父上との鍛練で感じていたに似たものを感じる…懐かしい…懐かしい感覚だ……』


 これは慶一郎が口にしたわけでもなく、頭で思い浮かべた言葉でもない。

 慶一郎は頭ではなく心魂こころでそれを感じていた。

 慶一郎はいつしか男とのやり取り全てに楽しさと懐かしさ、そして父である甚五郎じんごろうに近いあたたかさを感じていた。

 慶一郎と男が互いの刃を合わせること、言葉を交わすこと、意思をぶつけ合うこと、それは心と心、魂と魂の結び付きであった。

 それはまさしく、慶一郎と見知らぬ男、なる者同士の心魂こころ相見あいまみえる異相いあいであった。

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