第20話「慟哭」

 慶長十五年十一月一日―――


「なにっ!甚五郎じんごろう殿が亡くなっただと!?それは真実ほんとううしお!」


 甚五郎の訃報ふほうに驚きの声を上げたのは、九度山で蟄居ちっきょという名の幽閉生活を余儀なくされていた真田さなだ信繁のぶしげである。


「はい…誠に申し上げにくいのですが、…確かな事実でございます。立花たちばな甚五郎じんごろう殿は、去る十月十七日、隠遁いんとん生活をしていた山中にてに襲われお亡くなりに…」


 信繁に頭を下げたままそう云ったのは、信繁の密命を受けて甚五郎を探していたうしおという名の男だった。

 潮は甚五郎を襲撃した者達を賊と云った。これは裏で糸を引いた徳川を賊と呼んだということである。


「くそッ!やっと見つけ出したというのにみすみす死なせてしまうなんて俺はなんて馬鹿なんだ!」


 信繁はやり場のない怒りと自責の念から壁を殴り付けた。その衝撃で壁には穴が開き、家が揺れた。


殿との!お止めください!」


「何が殿とのだ!何が新たなる真田の長だ!俺には何も出来ない!俺は何も出来ていない!俺は父上とも兄上とも違う!真田の出来損ないだ!くそ!くそ!くそ!くそ!くそおおおおおお!!!」


殿との!どうかお静まりください!殿との!」


 信繁を制止する潮の言葉は信繁には届かなかった。

 信繁は怒りと悲しみを拳と言葉に込め、それをまるで自らにぶつけるかの様に壁や柱を繰り返し殴り付けた。その拳からは鮮血が飛び散り、その瞳からは涙が溢れ出ていた。

 拳から飛び散る血は信繁の怒り、瞳から溢れる涙は信繁の悲しみ、口から吐き出される言葉は信繁の無念そのものだった。


 信繁はいていた…


 よわい四十をうに過ぎた大の大人が、自らの無力さを、自らの行動を、自らの人生を、等身大の自分自身を全て否定しながら慟哭どうこくしていた。

 この時の真田さなだ信繁のぶしげの心は、誰よりも熱く、誰よりも優しく、誰よりも弱かった。


源二郎げんじろう…」


「があああああああ!!!」


 かつて信繁が名乗っていた源二郎の名を呼ぶ声がした。


源二郎げんじろう…」


「うあああああああ!!!」


 源二郎の名を呼ぶ微かな声は信繁の耳に届かず、信繁は自傷行為にも似た壁や柱への殴打を続けていた。


源二郎げんじろう!!」


 不意にその声は大きくなり、その声で信繁の動きはまり、声がんだ。


「ち、父上…!?」


大殿おおとの!?」


 声の主は信繁の父である真田さなだ昌幸まさゆきだった。

 老体となり、蟄居中の貧困生活で身体からだを壊してほとんど寝たきりの状態だった昌幸が、療養中の自らの屋敷から信繁の屋敷へと歩いてそれを訪れ、信繁の前に立っていた。


「がはっ!うぐぐ……源二郎げんじろう、何を騒いでおる…声がわしの家まで聴こえたぞ…」


「父上!無理をされてはなりませぬ!」


大殿おおとの!誰か!誰かるか!医者を!医者を連れて参れ!」


 血を吐きながら話す昌幸に信繁も潮も困惑していた。しかし、そんな二人を余所にして昌幸は凛然たる態度で話し始めた。


源二郎げんじろうよ…何があった?わしに聞かせてみい…」


「父上!御身体おからだは大丈夫なのですか!?」


「大事ない…気にするな……ごはっ!」


大殿おおとの!?暫しお待ちくだされ!すぐに医者を…っ!?お、大殿おおとの?」


 医者を呼びに行こうとした潮の腕を昌幸が掴み、それを制止した。潮の腕を掴む昌幸の手に込められた力は凄まじく、病や年齢を全く感じさせなかった。


うしお、医者は要らん…よいな?」


 潮には昌幸のこの言葉に従う以外の選択肢はなかった。それ程に昌幸の言葉と潮の腕を掴む手に込められた気迫が凄まじかった。

 昌幸の言葉により落ち着きを取り戻した信繁は、昌幸をそこに同席させ、改めて潮から甚五郎の死の詳細を聞いた。


「―――というわけでございます。最期は火計により燃える山中で、火縄の弾と弓の矢を身体に多数受けながら尚もする事なく、そのまま数十人の刺客を斬るという凄絶な死様しにざまでございました」


「そうか…甚五郎じんごろうが逝ったか…ごふっ!…彼奴あやつめ、わしよりも先に逝くとは…愚か者めが……」


 昌幸は喀血かっけつした事も気に止めずに悲しげな眼差しでくうを見上げた。


うしお。その後、甚五郎じんごろう殿の子は…慶一郎けいいちろう殿はどうなったかわかるか?」


 信繁は慶一郎を案じていた。

 救うことが出来なかった甚五郎。その甚五郎が育てて遺した宿命の子、慶一郎。信繁は慶一郎だけでも生きていて欲しかった。

 それが一人の男の死に哭いた男のせめてもの願いだった。


「それが…刺客に成り済まして山中に潜り込む事は出来たものの、慶一郎けいいちろう殿と思われるお方は三頭の馬を用いて連馬つらねうまで包囲網を突破したため、後を追う事が出来ませんでした。その後は未だに行方ゆきがた知れずでございます。申し訳ございません」


「そうか…連馬なら刺客に追い付かれて捕まったとは考えられん。慶一郎けいいちろう殿はきっとどこかで生きているだろう…いや、必ず生きている」


うしおよ…ぐっ!…お前はけい…いや、慶一郎けいいちろうの顔は見たのか?」


 昌幸は一度慶一郎を慶と呼び、それを云い直した。ここに居る三人の内、昌幸だけは慶一郎の真の名と真の性を知っていた。

 信繁も潮も慶一郎が豊臣とよとみ秀吉ひでよしの血を継ぐ者であると知っていたが、慶一郎の真の名が慶であり、息子とされている慶一郎が真実ほんとうは娘であると知っているのは昌幸だけだった。


「見ました。やや遠目ながらこの二つの眼で確かに。まだ十二歳でありながら何処と無く甚五郎じんごろう殿と似た真の強者もののふの雰囲気を纏うておりました」


「そうか…うしおよ、お前は甚五郎じんごろうに斬られ、その剣の凄まじさを知った…そしてそのお前が甚五郎じんごろうの凄絶な最期を見届けた…げふっ!…更には甚五郎じんごろうの子の現在いまの顔を知るのは真田の関係者ではお前だけ…これは運命かも知れんな……」


 あの日とは、上田合戦の最中で甚五郎が真田領内へ侵入し、信繁と刃を交えたあの日である。

 潮はあの日、甚五郎に無刀にて斬られ、そののちに意識を失った小姓であった。


源二郎げんじろううしお…二人ともよく聞け。甚五郎じんごろうの子、慶一郎けいいちろうについてお前達に話しておくことがある…甚五郎じんごろうが死んだ今、これはもはやこの世でわしと慶一郎けいいちろう自身しか知らぬことだ…いや、もしかすると慶一郎けいいちろうも仔細は知らぬやも知れん……」


「なっ!?父上、これ以上どんな秘密があるのですか!?」


 信繁は驚きを隠せなかった。

 そして、昌幸は慶一郎の真の名と真の性を信繁と潮に明かした。


「大殿、なぜわざわざ男と偽る必要があったのですか?秀吉ひでよし公の血を継いでいるという秘密を持って生まれた子であれば、家督争いの火種と成りる男と偽るよりも、女のままであったほうが身の安全は確保出来るのではないですか?」


 疑問を投げ掛けたのは潮だった。その疑問はもっともであった。

 立花慶一郎こと立花慶が生まれた日と同年同月同日に秀吉はこの世を去り、その際に豊臣家は秀頼ひでよりが跡を継いでいた。

 この時、秀頼は僅か五歳である。


「それはな…ぐはっ!」


「父上!話はここまでにしましょう。これ以上は父上の御身体が持ちませぬ」


 繰り返し喀血かっけつする昌幸の身体はこれ以上の会話に耐えられるとは到底思えなかったが、昌幸は信繁の言葉に首を振って話を続けた。


「わしの身体は心配するな…自分の身体だ…わしが一番わかっておるわ…まだ死なんよ…だが、今日全てを語らなければ二度と語れぬやも知れん……」


 昌幸は自身の身体がそう長く持たない事を察し、自らが知る全てを話そうとしていた。それは、甚五郎じんごろうが死んだ事を知らされたからというだけではなく、自らの身体に迫る死と向き合った昌幸の決意だった。


けいが男になった理由は秀頼ひでよりにある…」


秀頼ひでより殿にですか?」


「ああ、秀頼ひでよりも可哀想な子だ…秀吉さるの周囲に集まった毒婦と悪臣に囲まれ、それを操る家康ふるだぬきがいる一方で、秀吉さるの周囲には一部ではあるが真の忠臣がいた…秀頼ひでよりは五歳にして…いや、生まれる前からそれらに板挟みにされる宿命を背負って生まれたのだからな…そしてある時、秀頼ひでより甚五郎じんごろうの妻、千代ちよと出会った―――」


 それから、昌幸は信繁と潮に甚五郎から聞いた全てを話した。


「…そ、そんなことが!?」


「お、大殿おおとの…それはまことの話ですか!?いえ、大殿おおとのが嘘偽りを申すとは思っていませぬが…そのお話はあまりにも…!!」


 この時、昌幸が語った話は信繁も潮も簡単には信じられない内容であった。


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