◆イリスの大冒険◆

 イリスが意を決して穴を抜けると、目の前に屋敷の壁が立ちはだかっていた。左右には雑草が生えた小道とも呼べない細い通路が続いている。


「ディーリア、どこ?」


 建物の横に出たのだろうか。角の向こうには植えっ放しの落葉樹と、そこから落ちた葉が絨毯じゅうたんのように敷き詰められた庭が見えた。

 濃度も様々な緑からは、むせ返る青い匂いが伝わってくる。


「ディーリアぁ」


 屋敷の赤い壁は高々とそびえ立っていたが、手入れがなされていないために朽ち、欠けたり色褪せたりしている。

 棄てられてから、かなりの歳月が経っているのだろう。

 しげしげと眺めていたイリスは、はっとして辺りを見回した。……誰も居ない。


「ディーリアー!」


 何度呼んでも返事はない。今しがたの悲鳴は確かにディーリアのものだったはずなのに、気配すら感じられないのは何故なのか。


「どこにいったの……?」


 吸血鬼の、暗がりを見通す瞳が薄く光る。不思議と恐れは引いて行った。怖かったのは最初だけで、ここはイリスには居心地の良い場所だったからだ。

 とにかく行ってみようと思い、左右を観察する。右側は日が当たって暑そうだ。

 左は逆に闇が濃くなり、人を拒む雰囲気に満ちていたが、彼女には手招きしているように見えた。


「ん~、こっち!」


 本能に従って左を選ぶ。歩き始めると枯れかけた草がさくさくと鳴った。闇の勢いと共に、湿った風も吹いてくる。ここだけ周囲から切り離された別世界のようだった。


 やがて突き当たりに達し、右へ折れる。建物の規模を肌で感じた感想は「あんまり大きくないなぁ」だった。

 空に浮かぶ巨大な城に住むイリスの主観に過ぎなかったが、あながち的外れでもなかった。


「こんどはこっちに行ってみようっと」


 ぐるりと周りを回るように、更に前進して右折すると、屋敷の正面へと出たようだ。突然景色が開け、庭があらわになる。

 かつてはさぞ美しかったであろうそこは、今や長期間の放置によってジャングルと化していた。伸び放題の木に太い蔓が巻き付き、葉と葉の間を埋め尽くす。


「すごいねー」


 それらを横目に屋敷の壁沿いに歩くと、玄関に続く階段の手すりが目に入った。

 傍の窓は薄汚れたガラスがきっちりとはめ込まれ、カーテンが閉められていることもあって、中を窺うことは出来ない。

 改めて手すりに視線を移す。低い階段を数段のぼると、分厚い玄関扉があった。


「こんにちはー」

『余所様のお宅にお邪魔するときは、必ずご挨拶なさって下さいね』


 という、教育係ルフィニアの顔が頭に浮かぶ。教わったままに一応声だけはかけてから、扉に付いた鉄の輪を掴んだ。

 幼いイリスにはいささか高い位置だったが、つま先を立てればなんとか届く。


 えいっと気合を入れて引いた。思ったより易々と扉は開き、角度が変わったことで表面の花の彫刻がより立体的に見えた。背中から屋敷の中へと風が吹き込み、乾いた空気が頬を叩く。


 鼻にまとわり付いていた緑の匂いが、一転して埃臭さに変わった。二・三歩進んだところでゆっくりと扉が閉まり、錆付いた音が途切れると静寂が訪れた。


「わぁ、真っ暗!」


 イリスは歓喜の声を上げた。それも暗がりに吸い込まれ、反響する様子もない。

 以前は明るく暖かかったはずのその家は、日の入らぬ暗闇の世界に様変わりしていて、まるで人外の生き物の棲家すみかみたいだった。


「ワクワクする」


 目を凝らし、最初に見えたのは目の前の階段だった。とても広く、途中の踊り場からは両脇で折り返して更に上に伸びている。


「……」


 ふと、踊り場の壁にかかった大きな絵を見付けた。肖像画に描かれた、古いタイプのドレスを纏う美しい女性が、来訪者に微笑みかけている。

 色素の薄い髪がふわりと肩にかかった、眩しそうに目を細める若い女の人の絵だった。


 イリスはしばらく目を奪われていたが、ディーリアを助けられるのは自分だけなのだと気持ちを新にして回りを観察する。絶対、この屋敷内にいるはずだ。


「えっ?」


 カタリ、という音が耳を掠めたのはその時だった。静かな中でのあまりに異質な物音に、幼女は振り返る。


「わぁぁっ」


 甲高い叫びは、闇の向こうへ反響した。

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