四、反復 (4)

 朝、起きると、普通に次の日の朝が始まっていた。時間が飛ばなかったことにほっとする気持ちと、場面が変わらなかったことへの恐怖心が入り混じって、複雑な気持ちがした。


 家族が一緒にいる間は、リサコは幡多蔵の妻、理沙子の母親を演じるきることを決意した。不信に思われては動きにくくなってしまう。特に幡多蔵は…。あんた本性は知っているんだよ、父さん。


 幡多蔵が仕事に行き、理沙子が学校へ行くと、すぐにリサコは家を出て、茂雄の町の商店街へと向かった。そして、まっすぐに「カフェ時間の森」へ向かった。茂雄の店なら、こっちに違いない。


 カランカランとドアベルを鳴らして店内に入ると、女性の店員がリサコを出迎えてくれた。「カフェ時間の森」は、カウンターのみの小さな喫茶店だった。女性以外に店員らしい人は見当たらなかった。


 リサコはコーヒーを注文すると、女性定員に茂雄のことを聞いてみた。

 「いいえ、このお店には私の他にオーナーもいますが、元村茂雄という名前ではありません。」


 こっちじゃないのか。えー…?喫茶メロディ?「喫茶メロディ」なの?おじいちゃん。


 注文したコーヒーを飲み干すと、今度は「喫茶メロディ」に行ってみた。こちらは、外装からして、明らかに茂雄の店ではなかった。ピンク色のメルヘンチックな喫茶店だ。念のために入ってみる。メイドのようなコスチュームを着けた若い店員が数名働いていた。


 聞くまでもない。ここも茂雄の店ではない。


 では、茂雄の店はどこにあるのだろうか??違う町にあるのだろうか?もしかしたら、そもそも、この世界には茂雄は存在していないのかもしれない。


 リサコはその可能性を考えなかったことを後悔した。茂雄は存在しない。充分にあり得るではないか。


 リサコは意を決して、茂雄の家へと向かった。茂雄とリサコと、そして良介が暮らしていたあの家へ。


 家の前へ着き、リサコは茫然としていた。茂雄の家は、どう見ても空き家…がらんとして人が住んでいるとは思えない雰囲気を醸し出していたのだ。


 なるほど。なんとなく法則がわかったぞ。幡多蔵がいる世界では、茂雄が存在する証拠はどうやっても見つからないようになっているんだ。ふたつは同時には存在できない。そうなんでしょう?


 ここで、この家に入ったらどうなるだろうか?また目のない老人がリサコを出迎えるだろうか?


 やってみよう。


 リサコはあたりを見回すと、こっそり茂雄の家の敷地に入り込み、玄関のドアノブを回した。鍵がかかっているのか、ドアノブは回らず、リサコを入れてはくれなかった。


 夜に来なきゃいけないのかな??夜に抜け出せるだろうか??今の環境ではとても無理そうに思える。機会をうかがって、夜にもう一度ここへ来よう。必ず。リサコはそう誓って、茂雄の家を後にした。


 それから何日も、リサコはこの世界から抜け出すヒントを見つけられずに、顔のない山本家とともに暮らし続けた。この世界から抜け出すことも重要なのだが、日が経つにつれて、彼女の心には一つの決心も芽生え始めていた。


 今から4年後の2007年10月17日。リサコの記憶では、母親が自殺する。「妻と母を演じることに疲れました。」という言葉を残して。


 死んだのは私だったのだろうか?妻と母を演じるってこういうことだったのだろうか??私も死ぬのだろうか?


 いや、断じて違う。私は死なない。仮に4年後もこの生活が続き、理沙子の母を演じ続けなければならないとしても、私は絶対に娘を置いて死にはしない。


 毎日淡々と日々は過ぎていった。ありがたいことに幡多蔵は家族に関心はなく、リサコに話しかけてくることすらほとんどなかった。


 幡多蔵と夫婦を演じる必要がないとわかってくると、リサコは心の底から安堵した。虐待を受けていた父親と夫婦を演じなければならないとしたら、そんな地獄はあるだろうか?それがないだけでも、この狂気の人生を生きていけると思った。


 相変わらず家族の顔はノイズがかかって認識できないが、何年も経つと慣れてしまうものだ。


 やがて、理沙子は中学に進学し、母親が自殺するまで、あと数週間という日まで迫って来た。


 夜中に抜け出す機会がないまま、茂雄の家にはあれ以来行っていない。希望はまだ残っている。私は死なない。あと数日でこの人生を終わらせるような気持ちに至るとはとても思えない。


 大丈夫。私は死なない。


 そんなある日、娘がこんなことを言いだした。

 「お母さん、明日、ミチコちゃんの家でお泊り会があるんだけど、行ってもいい?」


 明日?明日は、確か、幡多蔵も泊りで出張だと言っていなかっただろうか?リサコはこの日をよく覚えている。ミチコの家に泊り行った日。母の死期が迫っているとは夢にも思わずに、友人と恋バナに花を咲かせていたあの日々。


 これは最初で最後のチャンスかもしれない、茂雄の家に行くチャンス。リサコは快く娘の外泊を許可し、ウキウキ気分で幡多蔵の出張の準備をした。


 翌日、家に誰もいなくなると、リサコはひとり、日が暮れるのを待った。夜中でないと、あの不思議な力は発動しないかもしれない。リサコは終電で茂雄の家へと向かった。


 夜中の住宅地はひっそりと静まりかえっていた。茂雄の家には明かりはついておらず、この家が空き家であることを示していた。リサコはあたりを見回し、人がいないことを確かめると、そっと玄関の敷地へと入って行った。

ドアノブに触れる。何の感覚もしない。回してみる。回らない…。


 予想に反してドアは開かなかった。こっちの家はどうやら異世界には通じていないようだった。


 複雑な感情があふれ出して、リサコはその場にうずくまってしばらく泣いた。ここから抜け出すヒントがなくなりがっかりした自分と、娘を置いていかずに済んでほっとしている自分。


 できれば娘も一緒に連れて行きたい。おそらく、それは不可能だろうけれど…。


 リサコは孤独だった。この世界に、リサコが心を開いて安心できる場所はひとつもない。リサコがリサコであることをわかってくれる人も誰もいない。


 もう、このままこの世界で生きていこうか。幡多蔵と離婚して、顔のない娘と生きていく?


 そんなことはできるだろうか??わからない。ただひとつ、絶対にわかっていることは、私は死なないということだけだ。


 リサコを意を決して、家に戻るべく、タクシーを捕まえに大通りへ出た。タクシーはすぐに捕まり、リサコを乗せて夜の街へと走り出した。


 どっと疲れが出て、リサコはすっかり眠り込んでしまった。


 ガシャーンという衝撃でリサコは目を覚ました。自分の体が宙に浮いていた。視界に入って来た運転手の後頭部が血まみれだった。粉々に砕け散ったガラスがスローモーションで飛んでいるのが見えた。


 何?どうした?


 そう思った瞬間。全身にドンという強い衝撃が走り、リサコは意識を失った。


・・・・


 暗いトンネルをものすごいスピードで飛んでいる感覚。目の中に、小さな光が見えてくる。


 その光がずっと近づいてきて、リサコを飲み込むように大きくなる。白い光に包まれる。


 圧倒的な慈悲の心に触れる。


 ああ、私は愛されている!!!!これまでに感じたことがないほど巨大な幸福感で心が溢れかえる。


 この高揚感!!!たまらない!!!私はずっとこれを感じていたい!!!


・・・・


 自分が立膝をついた状態で、ぐったりとうなだれている姿勢であることをリサコは発見する。床には時計の絵が描かれている。


 「おっかしいな…また死んじゃったじゃん。」

 声がしたので、顔を上げると、目の前に、あの気持ち悪いヤギがいた。

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