第3章/それぞれの居場所

27.今はそれでもいい


 遠い昔に別れを告げた音色に全身を包まれているようだった。

 大きくなったり、小さくなったり。寄せては返す波の音。次第にそう気付いていった。


 たまらない懐かしさの正体が幼少の記憶より更に昔のものなのだとしたら、それはやはり母親の体内にいた記憶ということになるんだろうか。もう二度と戻れない場所。何処か物哀しさが伴うのもそれなら説明がつく気がする。


 薄闇だった視界は徐々に明るくなっていくように思えた。

 しかし見えてきたのはぐずついた空。明るさ全開にしてもそんなに明るくならなかった地元のカラオケの個室を思い出す。


 前方にはやや荒れた海。そして砂浜には何故かぽつんとグランドピアノが置いてある。

 空の鼠色ねずみいろと海の群青、砂の白、そして際立つ小さな黒。全体を通して見ると絶妙なコントラストだ。


 俺がひねくれているのだろうか、“無駄に芸術的”という表現がしっくりきてしまう。

 意味深なようで実はなんの意味もない、でも本当のところはわからない、そんな奇妙な絵画を見ているようだった。


 立ち止まったまま瞳を閉じて、耳を澄ます。気のせいかと思っていた音が次第にはっきりしてくる。

 ピアノの音だ。そしてこのメロディ……一体何処で聴いたんだっけ。


 再び瞼を開くと、ひとりぼっちだったピアノの前に誰かが座っていた。

 ゆっくり近付いていくと細くしなやかな指が、この名も知らない曲を奏でているのがわかった。


 そうだ。こいつは器用だから、勉強やスポーツだけじゃなくピアノの演奏も出来たんだ。


「高島」


 また会えた。そう思うと同時に俺の身体は小さく震えた。


 こちらを見上げた高島の表情が穏やかな微笑みだったものだから俺は思わず息を飲んだ。

 こんな顔、この世界では見たことない。この世界にいる高島はいつも悲しそうだったり恨めしげだったり、だけど俺はいつだって何もしてやれなくて。


「ねぇ、響。この音を聴いてみて」


 ポーン、と高島の指が一つの鍵盤を鳴らす。

 続いてポーン、ともう一つ。それから俺に問いかける。


「どっちの方が澄んでると思う?」


 また随分と抽象的な質問だな。単なる好みで答えていいのか?

 俺は少し笑って最初の音を選んだ。


「響はやっぱり音の違いがわかるんだね」


「なんで? 俺別に絶対音感とかないけど」


「はは、絶対音感はまた意味が違うって。でもわかったことがあるよ。響と俺はやっぱり違う。似てるように見えるけど、実際は別モノだ」


 近くで視線が交わると高島の瞳に哀愁が宿ったのがわかった。白っぽい手がさらりと俺の頬を撫でる。



「響はもうすぐ大丈夫になる。だからもう悲しいこと、俺に言わせないで」



 その言葉を受けて俺はようやく理解した。サラサラとかすかな音を立てて細かな砂と化していく世界を見つめながら。



 夢の中の高島に悲しい顔をさせたり恨み言を言わせていたのは他でもない俺なんだ。きっと罪悪感がそうさせていた。


 ならば本当のお前は今、何を思ってる。

 何処で俺を見てくれているんだ。





 そっと身体を起こして窓の方を見る。カーテンは閉まっているけれど朝の象徴とも言える小鳥たちの鳴き声が聞こえる。

 俺は少し驚いていた。こういう夢を見るときは大体、深夜とか明け方とか中途半端な時間に目覚めていたからだ。


「ごめんな」


 意図せずぽろりと零れた言葉は負のループの区切りのようにも感じられた。決着がついたという程のスッキリ感ではないんだけど。


 カーテンを開けて朝日を迎え入れると、夢の記憶は少しずつ蒸発していった。



 うちの大学の夏休みは九月末まで。しかしそれも残すところ二週間ほどとなった。


 幸いなことに課題は割と早い段階で片付けられた。慌ただしさの大部分はバイトの方。でも学校が始まってからではここまでシフトは入れられまいと時に歯を食いしばって乗り切ってきた。

 おかげで身体がいくらか引き締まってきたのが実感できて、鏡の前で何度かニヤけてしまったことがある。ここだけの話な。


 歯を磨きながらスマホのメッセージアプリを見る。

 “おはよう”というポップな文字がついた可愛らしいスタンプが彼女から届いていた。スタンプのレパートリーが少なすぎる俺はどれにしようか少し迷って結局普通に「おはよう」と文字で返した。


 頬が緩む。あれから何度も繰り返していることなのに朝を迎える度に胸の奥が温かく、そしてちょっと安心するのだ。



 実のところ日中はほとんど彼女と連絡を取り合っていない。ただ朝と夜は必ず声をかけ合っていた。たまに電話もする。それはお互いちゃんと眠れているか確認し合う為のものだった。

 バイトに向かう支度をしている途中で思い出した。

 今日は“俺が行く日”なんだ。戸締りはもちろん、エアコンや給湯器の消し忘れにも注意しなきゃ。台所に洗い物が残っていないか、生ゴミをちゃんと処理してあるかもチェックする。まだ暑いし見落としたら後々大変だからね、ニオイとか。


 普段よりも膨らんだリュックを背負って出発した。


 通りに出たところでヘッドホンをつける。スマホはあまり使いこなせてない俺だけど、以前より幅広いジャンルの曲を聴いているような気がする。


 空を見上げてなんとなく感じた。近付いてくる秋の気配。風がいくらか乾いてきたからだろうか。

 秋は好きだ。汗かかないし冷えもしないし過ごしやすくてメシも美味い。なのに何故無性に寂しくなったりすんだろう。それさえなければ完璧なのにと今までに何度も思った。昔から不思議だったことだ。



 午前中からしっかり働いて、退勤する頃には腹ペコだ。


 今日はオーナーが広島土産の和菓子をくれた。あっちが地元なんだそうだ。言われてみれば言葉のイントネーションに少し特徴があるような気がする。

 箱の大きさを見る感じ結構沢山入ってそうだけど、甘いもの好きな彼女と俺にかかればあっという間に胃袋の中だろう。


 眩しい西日も次第に落ち着いてくる。夜に染まりきっていない薄紫のエリアをくっきりとしたシルエットのカラスが通り過ぎていくのを眺めるのが好きだ。



「ありがとうございました!」


 最後のお客様を見送った芹澤さんがこちらに気付いて大きく手を振る。


「響くん、お疲れ様!」


「お疲れ様です。これ、オーナーから芹澤さんの分のお土産も預かってきてます」


「えっ、なになに、お土産? ありがとう。大倉さんには後でお礼の連絡入れとくよ」


 そう、たまにこうやって託されたりなんかする。オーナーも俺の交友関係はもう大体わかっているらしい。


 閉店後の静かな店内。客席の奥に目をやるとハンドメイドアクセサリーのコーナーが出来ていた。また新たな作家さんの作品を置いてるんだろう。


 芹澤さんと他愛のないお喋りをしていたところ、着替えを済ませた彼女がやってきた。


「響、お疲れ様〜! 来てくれてありがとう!」


「奏もお疲れ様」


 あれから彼女の顔色はだいぶ良くなってきた。こうしてバイトも出来ているしサークルにも復帰したという。

 ちょっと痩せたような気はするけど、もうじき涼しくなるからどうせまた元に戻ると少し残念そうに言っていた。


 スレンダーでいたい女子はやっぱり多いんだろうか。それでも俺は……


「わぁぁ、おまんじゅうもらったんだぁ! えっ、私ももらっていいの? 嬉しい〜! ねぇねぇ、緑茶買っていこう? 和菓子にはやっぱり緑茶だよ!」


 甘いものを目にするなりダイエットのことなど一瞬で頭から吹き飛ぶ彼女が好きだ。

 ……だってこういうときの表情、悔しくなるくらい可愛いんだよ。ハムスターみたいで。


 少し遠回りになるけど二人でスーパーに寄った。

 和菓子、緑茶ときているから、出来れば夕飯も和食がいいかななんて話していたところ、ちょうど惣菜コーナーの天ぷらが安くなっていたから買っていくことにした。メインは蕎麦に決定。バイトの後でお互いに疲れているからパパッと用意できるメニューは助かる。



 ゆっくりとした足取りで帰路を辿る。街灯のもとで伸びる二つの影。


 玄関を開くと迎えてくれるのは甘い香り。今夜、俺が過ごす場所だ。


 洗面所で手を洗った後、自分のパジャマや歯ブラシを用意していく。

 ロマンチックな彼女の世界に男の生活感を持ち込んでいるのが少し申し訳なくて、だけど本当はやっぱり嬉しくて。


 後ろからふわっと、マシュマロのように柔らかい感触が俺を包み込んだ。

 振り返って微笑みを交わすと更なるぬくもりを求めるように自然と顔が近付いた。



 日中はほとんど彼女と連絡を取り合っていない。それは逢えない日の過ごし方だ。

 お互いの部屋を行き来する頻度は確実に増えた。一緒に勉強をしたり、くつろいだり、今日のように泊まることもたまにある。

 悪夢に怯えた日でも心細くないように、寄り添い支え合える場所にいたいと共に希望した結果だ。


 俺の生活は大きく変わった。だけど不思議なんだ。何故こうも無理なく成り立っているのか。まるでこっちが初期設定であったかのように。



「今度、響のところに行ったときは何作ろうかなぁ」


「そうだね。たまにはガッツリ系でもいい?」


「カツカレーとか?」


「いいね」


 食卓の柔らかな照明に二つの笑い声が溶け合っていく。幸せを恐れてしまう俺の心もいつかは落ち着いてくるんだろうか。


 だけど今夜は手を繋ぐ。眠りに落ちるまで、ずっと。

 いつか泣いて目覚めたとき、そこに彼女がいてくれてどれだけ救われたことだろう。逆に俺が彼女の涙を拭うこともあった。


 純粋な信頼関係と思いたいけど実際のところは共依存とかいうものなのかも知れない。

 だけど時折聞こえてくる彼女の心のメロディは、今はきっと難しいことを考えなくてもいいんだと俺に思わせてくれた。

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