⑭ わたしの選んだ道

 いっぱい走って、息が切れていた。

 両ひざに手をついて、目の前の黒に金でふちどられた扉を見上げる。

 ここが、実験室。

 ルーシュンさんが、わたしから星崎さんに、病をうつした場所だ。

 そう思うともどかしくて、息が整わないまま、扉を開け放つ。

 声にならない声が耳元で鳴って、一瞬遅れて、自分が出したものだとわかる。

 高い本棚に囲まれた部屋。

 その中央に設置された、二枚の壁。

 そのあいだを何本もごちゃごちゃと蛇のように伝う電線。

 それはぜんぶ、壁の真ん中でぐったりと座っている人につながれていた。

 漆黒のナイトさんとしての王子様衣装はぼろぼろですりきれている。

 ところどころ赤くなった皮膚がむき出しになっていて。

 まずは隠れて、様子をうかがう――頭にあったそんな作戦はぜんぶ、ふっとんでいた。

 転げ落ちるように、彼のもとへ走りよる。

 その目は、力なく閉じられていた。

「ほし、ざきさ……ん、ほしざきさん」

 声にならない声を発しながら彼の傷口をハンカチでぬぐう。

 こんなことしかできないことに、また弱弱しい声がもれる。

 わたしはどうしてこんなに力がないんだろう。

 ふいに、ぴくりと金に縁どられた黒い袖が動く。

  徐々に開かれた目は、驚きに染まった。

 かすかな声が、その口元からもれる。

「夢、ちゃん」

 電線から痛みが届くんだろう。

 唇をかみしめて、彼は続ける。

「どうして。きみは、今頃は、オレのことは忘れた、はずだ」

 しゃべるたびに電流が走るのか、顔をしかめる星崎さんにしゃべらないでと伝えたくて、首をやっと横に振る。

 それでも彼は言葉を継いだ。

「どうやって、思い出した」

 どっとあふれ出る気持ちが、とぎれて言葉になる。

「知りま、せん。教えてなんか、あげない。こんなことをした星崎さんになんか」

 一瞬、狂おしいほどのなにかが彼の目にともる。と、それをかき消すように、彼は厳しい表情をつくった。

「なにしにきたの、こんな危険なところに」

「すぐ……うぐっ、助けま、す。星崎さん。すぐに」

 なんの確証もないくせに、ただただ繰り返す。電線に手あたり次第手を伸ばしては痛みにうめき、

「やめろ、夢未」

 それでもぎゅっと握って引きちぎろうとする。

「やめるんだ」

 力なく、電線を取り落とす。

 叱られたからじゃない。

「切れない……。どうして」

「夢ちゃん」

 星崎さんが、微笑んだ。

 こんなときにまた、いつもの優しい口調に戻って言う。

「ルーシュンは、今機嫌が悪い。きみがかなう相手じゃない。いい子だから、逃げなさい」

 いつも、大変なことは自分ばかり矢面に立って。

 説得するときにはふだんのように優しくなって。

 ずるいよ。

 星崎さん。 

「やだ。やだ……ぁっ」

 もう一度、電線に手を伸ばす。

 ――あ。

 ふらついて、床に手をつく。

 こんなときにまで、視界がつよくかすむ。

「夢、ちゃん。眠いのかい」

 涙がこみあげてくる。

 誰がこうしたのか。

 知ってるくせに。

「眠くなんかないっ。眠くなんか、ないです」

 すっと、その瞳がどこまでも穏やかに細くなった。

「眠れるようになったんだね。よかっ……た」

 彼がそう言ったとたん、八方から電流が彼を襲って。

 わたしは激しく首を横に振った。

 そうすれば、神様が運命を考え直してくれるみたいに。

 神様は、ひどい人だ。

 そしてその神様に刃向かってでもわたしを休ませようとしたのはこの人なんだ。

「最後の逢瀬はすんだかい」

 ぞくりと、寒気がかけぬける。

 部屋にあつらえられた燭台の炎が、銀の長髪の影を紫のカーペットの床に浮き上がらせる。

「ずいぶんなことをしてくれたね、ナイト。お礼にきたよ」

 細い電線にまとわりつかれた腕が、かばうようにわたしを抱き寄せる。

「きみを僕の人形にしてあげる。感情や人格のない、狂気にのみしたがう、完全なる下僕にね」

 その言葉が終わるまえに、星崎さんはわたしを突き飛ばした。

 彼の苦しそうな声が、聞こえる。

「星崎さんっ!」

 大量の電流が彼の中に流されている――。

 駆け寄ったとき、ギラギラしたその光はぱっと失せた。

 充満する煙の中で、彼は、動かない。

「残念だね、もうその名の人間はいない」

 ルーシュンさんの怒りを抑えた声が響く。

「さぁ、我が右腕の漆黒のナイト。命令だ。本野夢未のブーフシュテルンを奪え。殺してもかまわん」

 ぶちっと音をたてて、電線が彼の身体からちぎれ。

 ゆっくりと上げた彼の目は――彼の目じゃなかった。

 感情のかけらもない。

 星崎さんが。

 狂気とかいうものに、とりつかれたっていうのに。

 わたしはただ、駄々っ子のように首をふるばっかり。

「やだ。やだっ。星崎さんと戦いたくなんかない!」

 星崎さんは――漆黒のナイトは、わたしに迫って、手刀や攻撃を繰り出してくる。

 それを避けながら、わたしは訴えた。

「思い出して。わたしです。夢未です」

わたしを取り押さえようと右に左に攻撃をくりだす。

「大人しくナイトにブーフシュテルンを渡したまえ」

 彼の手刀が胸の直前まできて、とまる。

「そうすれば愛しい彼との追いかけっこを終わりにできる」

 そして続く、新たな攻撃。

 なにかおかしい。

 もしかして。

 実験室をかけまわりながら、わたしは気づいていた。

 胸だけじゃなく、頭も、足も。

 彼が繰り出す手足は、わたしに触れることはなかった。

 かなりすれすれでわたしをさけている。

 その事実を前にしたとき、かすかな勝算が頭をかすめた。

「星崎さんっ!」

 わたしは叫んだ。

「ほんとは、聞こえてるんですよね。星崎さんは、嘘も演技もじょうずだから。あやつられてるふりをしている。そうですねっ?」

 できるだけ、大きな声で。

「わざと外まで無傷で追い詰めて、わたしを、逃がすために」

 傷だらけでもなお、きれいな顔が、悔しそうにゆがむ。

 ごく、小さな声で。

 わたしを扉まで追い詰めたナイトさんは言った。

「できれば、敵方に聞こえない声で言ってほしかったな」

 星崎さん。

「言うことを聞くんだ。逃げて。早く。この身体が完全に狂気に支配される前に」

 やっぱり。

 こんなときに、彼はやっぱりすてきだなんて考えてるわたしは、だめな子かな。

 ルーシュンさんの舌打ちが聴こえる。

「まだ病を流し込む量が足りないみたいだね」

 ルーシュンさんが手をすっと移動させると、二つの壁が床を滑って、星崎さんをかこう。

 ルーシュンさんが手を開くと、病を流し込む電流発動させる。

 星崎さんが、かすかにうめく。

 これこそ、わたしの狙いだった。

 そう。

 ルーシュンさんに聞こえるように言ったのはわざと。 

 電流を発動させるのを待っていた。

 病を移動させる力のある、この電流を。

 迷わずに、わたしは二枚の壁のあいだ、彼のそばに滑り込んだ。

 ぎゅっと苦しでいる彼の首にだきつく。

 星崎さんの目が、予感に見開かれる。

「夢ちゃん、何を考えてる」

 謝る意味もこめて、笑った。

「まさか」 

 はい。……その、まさかです。

「星崎さん。抵抗できないところを、ごめんなさい。失礼しますね」

「やめるんだ。夢未――」

 目を閉じて。

 息をとめて。

 ルーシュンさんが息を飲む音を聴きながら。

 わたしはそっと唇で彼の唇にふれた。

 すべては許されると言ったロシアの作家がいた。

 大陸を遠くへだてた中国。だが、僕が作家となったのも、思えば同じ想いからだった。

 戦争中、同胞が殺されかけるのをただ好奇の目で眺める人々。

 その姿を目にしたとき、医学を捨て、文学で人々を改革する道を歩み始めた。

 それなのに。

 この時代は文学を見捨てた。

 文学から見捨てられても当然だ。

 そして愛からも。

 この世に神などいない。

 きみも思わないか。

 なんにも悪いことしやしないのに、父親に苦痛をあたえつづけられている。

 少なくともきみの愛しい彼は僕に同意した。

 だが――あぁ。

 きみはことごとく、僕の世界をかきみだしてくれるようだ。

 今ナイトに覆いかぶさるように重なるきみと。

 この頭の中にある、地獄のような時代は一致しない。

 何度目かの歪み。混乱。軋み。

 だがこれまでにない甚大な歪曲。

 頼むから、これ以上僕を破綻させないでくれ。

 神や美しい言葉なんか、信じちゃいないくせに。僕と同じのくせに。

 きみは、きみたちは、いったい、なにを想って。

 神の真似事なんかしてみせるんだ。

 考え深いきみに問われてうまく答えられるほど、生きる意味とか、そういう命題について考えてきたわけじゃない。

 どちらかというと生きること自体にせいいっぱいだったほうの人間で。

 だからこそ、精神上の世界へ焦がれる想いはあるにはあったけれど。

 そういう点に関して、本の外の世界にはひとかけらの期待もなかった。

 この世に神がいるとしたら、両親が望まない自分を、この世に産み落とした、そういうたぐいの神だと、思っていた。

 きみを引き取ったのは、そうした自分自身を投影した、憐憫もあったかもしれない。

 今考えれば、ばかげた話だけど。

 境遇が似ていると思ったきみは、一緒にいてみると、オレとはぜんぜんちがったね。

 辛酸をなめてるはずなのに、未だ不器用で、世間ずれしていなくて、まっすぐで、素直で。

 星崎さんと、呼んでくれるきみから、目が離せなくなった。

 目をかけるほど、何倍にも愛情が跳ね返ってくる感覚は、驚きと新鮮さと。

 そして世界への期待で、オレを満たしていった。

 きみが元気で、笑っていられる未来があればいい。

 期待は願望に、願望は渇望に。

 きみに差し出せるのなら、まんざら悪くない人生だと思った。

 だから、夢ちゃん。

 大人しく受け取ってくれることが望みなのに。

 まだきみは手を差し出すのか。

 いつも、その小さな手は、この腕を包もうとする。

 外側に手を回して守ろうとしても、さらにその外側に身を置いて――。

 夢未。

 なぜ、きみはいつも――。

 本はいつもすてきなものをわたしにくれる。

 いいことさがしゲーム、わかちあうことによって輝く宝物。ロマンス。心はいつもプリンセスであること。

 でも、文学なんて意味がないって言ってしまう人の気持ちも、わかるんです。

 わたしには、わかるの。ブラックブックスさんたちの気持ちも。

 現実の世界では、そういうことを信じて守っても、いいことなんかひとつもないですもんね。

 信じるたびに裏切られて何度もふみにじられて。

 あなたと会ったとき、わたしはぼろぼろでした。

 でも、あなたと会えたことで、わたしの中ではすべてが帳消しになりました。

 あなたが抱きしめてくれるたび、世界中にありがとうと言いたくなりました。

 いままであったつらいことぜんぶ、わたしを傷つける人も許そうって思ったんです。

 本の中のような幸せな気持ちが、ほんとうにあったんです。

 星崎さん。

 だから、わたしは、自分の痛みを受け入れたいんです。

 なのに、そう思わせてくれたひとがこんな状態だったら、その決心もくずれちゃいます。

 だから、ごめんなさい。

 せっかくとりあげてもらった痛みだけど、返してもらいますね。

 電流がやんで、彼の口元から唇を離した。

 ふらりとかしぐ身体を、彼が――星崎さんが抱き留める。

 眠気はすっかり消えて、代わりにずっしりとした疲労感がある。

 つっと涙が一筋つたう。

 お父さんが殴ることへの恐怖。

 怒り。

 そして、それでもお父さんが大好きな気持ち。

 両方がせめぎあって不安定で崩れそうな、心。

 星崎さんが息をついて、額に右手をあてる。

「夢未。夢ちゃん。……なぜ」

 少しだけ首をかしげて、その悲し気な目を見つめ、笑った。

 みんな戻ってきた。

 星崎さんからわたしに。

 呆然としている人は、もう一人。

「ばかな。……いったんとりのぞいてもらった病気を、またもらいうけるなんて」

 違う。

 僕の知っている人々は。こういう姿では。

 うわごとのように繰り返し、ルーシュンさんはふらふらと、わたしたちの傍らをとおりすぎていく。

「どこへ行く」

 星崎さんの問いに、焦点を失ったような金の目が答える。

「どこか、しばらく、誰の姿も見ずに済むところへ」

 ルーシュンさんは機械のように振り返った。

 つられてみると、そこには電流の音を聞きつけたのか、四天王さんたちがやってきている。

「きみたちも、好きにするといい。使えない、無能な部下たちめ」

 アイリーンさんも、白雪ママさんも、シンデレラママさんも。

 みんな止めようとはしなかった。

 たった一人、ブラックドールさんが駆けよろうとした。

 振り返らないのにそれが見えたように、ぴたりとルーシュンさんが立ち止まる。

「あぁ、きみ。できればきみも、ついてこないでくれる?」

 ドールさんがびくりと止まる。

「もうしもべは不要だから。一人にしてほしいんだ。それじゃ」

 その言葉を最後に、ルーシュンさんは、霧のかなたへ消えていった。

 それを皮切りのように、ブラックブックスの幹部さんたちは、一人、また一人と散っていく。

 最後に、呆然と虚空を見つめていたドールさんも、ブラックブックタワーを去っていく。

 すると、とたんに、黒かったビル内が、赤やオレンジ、黄色を基調とした秋の装飾に満ちていく。

 ここはもう、ブラックブックタワーじゃない。季節の彩りに満ちた栞町の駅ビル、ブックマークタワーのエントランスだった。

 そっと、抱き留めてくれている彼の胸に、触れる。

「星崎さん。あの」

 ごめんなさいと言おうとして、やめた。

「ありがとう」

 切なそうで、とても痛そうで、そして少し、不満そうな視線が帰ってくる。

「どうして?」

 彼に向けて、笑う。

「わたしが大切な存在だって、星崎さんがそう、心から思わせてくれたから。……今回はちょっと大胆すぎたけど」

「どっちが」

 ああ、やっぱり怒ってる。

 嬉しくて、また笑う。

「ほんと、しかたのない子だね。夢ちゃんは」

 目を細めて叱られて、そして抱きしめられる。

「オレに苦しみを投げるって、ただそれだけのことができないなんて」

 頭を片手でおさえつけられている。

 彼の胸の中へと。

「星崎しゃ……くるし」

「そういうきみが、苦しいほど好きだ。これも惚れた弱みだから。病気を受け入れて、癒しつつ持っていく。きみのやりかたにつきあうよ」

 ぱっと視界が明るくなって、目の前には、彼の顔がある。

「でも、今回がとくべつだからね。次こういう大事な局面がきたらオレの言うことを全面的にききなさい」

 最後にちょっとだけ苦み走った笑みを向けた彼に。

「星崎さん……」

 わたしは思いきり、ぎゅっとした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る