⑩ 抜け落ちた記憶の鍵

 それからどうすればいいのか、何度も考えようとした。

 考えようとするとロックがかかったようになって眠くなる。

 けっきょくいつも眠りこんでしまっていた。

 それを繰り返していくうち、だんだん身体の重みがとれて。

 それにともなうように、心の痛みもうすれていくのがわかった。

 お父さんの夢ももう、見なくなった。

 痛みに関連するものぜんぶが、強制的に外側へひっぱられて出ていくよう。

 前の家族のことも、ブラックブックスのことも……彼のことも。

 そのまま、数日が経ち、数週間が経った。

 学校へも行けるくらいに回復して。

 そんなある日のことだった。

 廊下ですれちがったとなりのクラスの女の子の胸に抱えているものが、視界のはしをかすめた。

 数メートル進んだあと、振り返る。

「白石さん、それ!」

 その子は驚いたように立ち止まる。

「え?」

 そう。

 彼女が手に持っているのは文庫本だった。

『小公女』。

「物語の本を持ってるの?」

 白石さんは笑いながら眉をさげて、とんとわたしの肩をたたいた。

「何言ってるの? 本野さんがすすめてくれたんじゃない。だからあたし、図書室で借りたんだよ。貧しくてもつらくても、心だけはプリンセス。けっこう泣けた~。教えてくれてありがとね」

 白石さんを見送ったあとも、わたしは呆然と立ち尽くしていた。

 我に返ると、学校図書室に走った――。

 栞町に、本が復活した。

 学校図書館には司書の先生がいて、姿を消していた市立図書館も、以前のように貸し出しや、読み聞かせだって、ふつうにやっていた。

 きみょうなそのことを話し合うために、わたしたちは学校の図書室に集合していた。

「なんでとつぜんこうなるの。ブラックブックスのせいでみんな、本から遠ざかってたのに」

「急に計画をとりやめたのかしら。そんなうまい話、あるわけないわ」

 ももちゃんもせいらちゃんも納得いかなそうだけど、わたしはなんだか、これでいいような気がした。

「でもよかったよ。これでもとどおりだね。ぜんぶ」

 心からそう言ったのに、ももちゃんもせいらちゃんもそろってテーブルに視線を落とす。

 どうしたのかな?

 まるでわたしのことを気遣っているみたいだ。

 何度か口を開いては閉じたあと、ももちゃんが言葉を継ぐ。

「あとは……カレを取り戻さなきゃ」

 え――。

 空白が、頭の中を支配する。

「カレって、だれのこと?」

 首をかしげると、ももちゃんが眉をつりあげる。

「こんなときに、ふざけないでいいよ」

「だって。わからないんだもん」

 ももちゃんがえ、と顔をあげた。信じられないというようにその顔が不安に染まっていく。

「決まってるでしょ。夢と一緒に暮らしてた――」

 ももちゃんこそ、なにを言ってるんだろう。

「わたし、ずっと一人でマンションにいたよ」

 せいらちゃんが目を見張った。

 片手で顔を覆って、ももちゃんが椅子に頽れる。

「……どうなってんの」

 そんなリアクションに、驚く。

 でも、そのはずだった。

 お父さんと別れてから、わたしはずっと一人。

 でも、ごくたまに、マンションの部屋に、他のだれかのカップや寝具なんかがあって。

 不思議に思っていたんだ。

 わたしといっしょに、前、誰かがいた……?

 そう考えようとすると強いもやのようなものがやってきて

 へとへとで眠くなって。

 叱るようにももちゃんがわたしの肩をゆすぶる。聞き覚えのない誰かの名前を叫んで。いったいどうしちゃったんだろう?

 それをせいらちゃんが、なだめてとめてくれる。

 泣きそうな顔をして、ももちゃんが図書室を飛び出していってしまう。

 残されたせいらちゃんと、目を見かわした。

 ……。

 これ以上ないほど、気まずい解散になった。

 ももちゃんが出て行ったあと、たっぷり一分くらい黙って、わたしはようやく口を開いた。

「……ももちゃん、なんで怒ってるのかなぁ」

 同じく考え込んでいたせいらちゃんが、答える。

「怒ってるというより、ショックが大きいんだと思うわ」

「だから、どうして? わたしなにかしたかな」

「……」

 がたん、とイスが動く音がした。

せいらちゃんが立ち上がって、わたしの後ろに来る。――にっこり、笑っていた。

「いいえ。夢っちは、なーんにも悪くないわ」

 優しくあやすように、わたしの肩に腕を回してくれる。

「そう、だよね。ももちゃんたらへんだなぁ。一人で暮らしてきたって言っただけで怒るなんて」

「そうそう。ほっときゃいいのよ」

 そうあっさりと言われると、やっぱりちょっとだけ引っかかる。

「……なんかね、わたしたまに、誰かと暮らしてたような気もしてくることがあって。

でも、そのことを考えようとすると、身体がどんどん重くなって、いつの間にか寝ちゃうの」

「疲れてるのよ」

 せいらちゃんはぽんぽんと、両側から手でたたいてくれる。

「夢っちは、前からくよくよしすぎるところがあったから」

 せいらちゃんが後ろから、わたしの顔の前に身を乗り出す。

「あたしはそのまま、考えることやめることをおすすめするわ!」

「でも。なんか、だいじなことのような気もするし」

「どんな賢い小公女子も、ときにはおばかさんになることだって大事よ! ぜんぶ、ぜ~んぶ、忘れちゃいなさい」

 肩をたたいて、からからと笑い続ける。

「だって、そんなこと考えたって、よけいに苦しくなるだけじゃない。そうでなくたってもうじゅうぶん苦労多き人生だったのにさっ」

 せいらちゃんはまださっぱりと笑ってる。

 笑ってるのに、その目の端が光った気がした。

「本が人々にもどってきた。夢っちも病気から快復する。みんなもとどおり。今の状況って

言うことなしじゃない」

 うん。

 そう。そうだよね。

「ももぽんのことならあたしに任せて。夢っちはただ、このまま身体を回復させることだけ考えるの。――いいわね」

「う、うん」

「よし」

 せいらちゃんはわたしに手を差し出した。

 少しだけほっとして、気になっていた本を図書室で借りてから、わたしは家に帰った。

 帰り道、ずっとつないでくれていたせいらちゃんの手は、かすかに汗ばんでいた。

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