マッツの恋

単元1

 未来の作家と画家のたまご、計画する――恋に落ちたボクサー――きっかけはサンドイッチ


 正午の日差しに照らされて、庭に植えられた木のかげがベッドや机になげかけられる。

 ギムナジウムの寄宿舎はいつになく、のどかだ。

 しばらくぶりだね。みんなのケストナーおじさんこと、エーリヒ・ケストナーだ。

 ヨハン・ベク先生から舎監室に招待を受けているので、ほんとうならばそちらへ向かわなければならないところを、足がついついこちらに向いてしまった。


 わんぱくな少年たちは元気だろうか。


 原作者として、すこしぐらい気にかけても許されるだろう。


 寄宿部屋が並んだ廊下をぶらぶらと歩いていると、ある部屋から声が聴こえてくる。


「れ、恋愛小説……!?」


 聞き覚えのある声だ。


「今、そう言ったのか?」


 ひょいとドアについている窓をのぞくと、文机に向かい合った椅子に座ったマーティン・ターラーが顔を赤くして硬直していた。

 向かい合うようにしてくつろいだ様子でベッドに腰かけているのはジョニー・トロッツ。


「うん。なにかおかしいかな?」


 ウェーブがかった髪からのぞく物静かな瞳は、創作のひらめきに静かに揺れている。

「ケストナーさんもそういうのを書いたんだ。このあいだ小説を見てもらったとき、今のきみにはいいかもしれないって言われて」


 ジョニーの言葉を受けて、マーティンはいつもは正義に燃えるアールグレイの目をいっぱいに見開き、口をぱくぱくさせる。


「てことは、僕はれ、恋愛小説の挿絵を!?」

 ジョニーはふっとほほ笑んで肩をすくめた。

「なにを今更。仲間内では一番やりての君が」

 ははぁ、なるほど。

 扉の向こうで一人、納得する。

 この二人、これで将来性のある作家と画家のたまごだ。

 すばらしい芸術作品をともに生み出す計画を練りだしたらしい。


 そこへ、廊下の向こうから金髪の髪をなびかせて、ちびの男の子がかけてきて、わきめもふらずにがらりと扉を開けたので、あわててよける。

 僕のことなど目にも入っていないようだ。


「たいへんだ、マーティン、ジョニー。事件だよ!」


 いちはやく立ち上がったのはやはりリーダー、マーティンだ。


「なんだ、また実業学校のやつらが」


 そのことばが終わらないうちに、ウリーの声が響いた。


「マッツが恋に落ちたんだ!」



 数分後、そこにはわんぱくなかま全員が集合していた。

 とうのマッツ、そして、メンバーのもう一人、セバスチャンの姿もある。

 いつもは闊達なマッツがなかなか話そうとしないので、セバスチャンはいらいらしてきたらしい。

「いいからはやくしゃべれよ。こっちははやく『相対性理論』の続きが読みたいんだ」

 あたりのしんとした空気を和らげるように、マーティンが促した。

「マッツ。ゆっくりでいい。話してくれないか」

 これを受けて、ジョニーが微笑む。

「こういう話のはじまりとしては、まずは出会いからかな」

 マッツは赤くつっぱった顔をぺし、とたたくと、とうとう語り始めた。

「数日前、庭の禁煙車両にいたときのことだったんだ」



 オレは庭にしゃがみこんでいたんだ。

 その日は朝からボクシングの練習でくたくただった。

 練習を終えたオレはさっそく、昼飯のパンを買いに走ろうとしたんだけど。

 どっこい、昨日金をぜんぶつかっちまったことに気づいたんだ。

 金を借りようにも、ウリーは留守だったし、しかたなく、庭にねころがって空腹をやりすごしてたんだよ。

 天気は皮肉みてーに快晴だ。

 いっそ寝て忘れようと思っても、腹の虫が鳴る。

 ちくしょう。

 そのときだった。

 鼻先をいちごジャムの香りがかすめたんだ。

 目を開いたらそこには、ジャムをはさんだサンドイッチがあるじゃねーか。

 とうとう天国にきたのかとおもったね。

 オレはすぐさま手を伸ばして、むしゃぶりついた。

 まるまる一切れ、食べ終えたときだった。

 サンドイッチの向こうに、女の子がいたって気づいたのは。

 空腹がようやくおさまって回りだした頭で考える。

 てことはオレ、この子のサンドイッチを奪って食っちまったのか?

 あわてて身体を起こして、手をあわせる。

「ごめん! オレ、サンドイッチしか見えなかったっていうか、その、きみがもってたって気づかなかったっていうか」

 肩までの髪、うすい黄色のワンピースに、オレンジの小花が散ってる。

 その子は怒るどころか、さらにサンドイッチを差し出したんだ。


「もっと、食べたほうがいいよ。はやく!」

「え?」


 おしつけらるままに大量のサンドイッチを受け取りながら、オレは彼女を見た。

 泣きそうな顔をして、こんなことを言うんだ。


「……ほんとに死んじゃってるのかと思って、怖かった。それで、サンドイッチを差し出してみたんだけど、無事で、よかった」


 恋してるやつは、女の子の顔を妖精とかお姫さまだって言うけど。

 オレにはそのとき、その顔は天使に見えた。



 でも、どうして、こんなところに。女の子が?

 しかもこんなしゃれた格好して。

 立ち話もなんだから、禁煙さんがかつて使っていた車両に招待して、そう訊くと女の子はうつむきがちに答えた。

「友達がここの学校の子とお付き合いしてて、今日も出向いていったんだけど。なかなか帰ってこないから心配で、見に来たの」

「そうだったんだ」 

 優しい子なんだなぁ。

 そこまで話したとき、きゃっとその子が叫ぶ声がした。

 古くなった車両の荷台がおちてきたのを、とっさにうけとめる。

 頭を抱えて震えていたその子が顔をあげる。

「すごい。力持ちなんだね」

 荷台をどけながらへへと笑ってごまかす。

「ま、これでもボクサー目指してるから」

「えーっ」

 返ってきたのは感嘆というより、心配の声だった。

「世界チャンピオンと戦っても……死んじゃわないでね」

「へっ?」

 なんだ?

 こんな反応されたの、はじめてだ。

 きゅっと胸が締まるかんじがしたのにとまどって、あわてて話題をかえる。

「このサンドイッチさ、すげーうめぇけど、きみが作ったの?」

 そう訊くとその子は、とびあがりたくなるくらい、かわいくうつむいた。

「ううん。一緒に暮らしてる人が、持たせてくれたんだ」

 それってお母さんとかだろうか。

「違うんだけど。わたしを引き取ってくれた人で。お腹すいたら食べなさいって」

「そっか。それをぜんぶ食っちゃって。ほんと、ごめん」

 改めて詫びると、その子はふわりとほほ笑んだ。

「いいの。その人、心配症でね。食べきれないくらい持たせてくれるから困ってたの。

かえって助かっちゃった。残したらまた、心配させちゃうから」


 ふーん。


 車両の外で小鳥が鳴いて、この幸せな気持ちをからかってるみたいだった。

「わかる気がするな。オレのかあちゃんも、ふだんめちゃくちゃ強いくせにかなり心配症だし。あんまり気にされるのもちょっと困るかな」

「そうなの。でも、だからこそ、心配かけたくなくて。……その人の……彼のこと。優しくて、とっても、すてきな人なんだ」

 かすかに顔を赤らめて言うその子の頭の上を気持ちよさそうに漂っていくのは、のんきすぎるふわふわの雲だった。




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