⑧ 彼の好きな人は身近にいる?
夢っちが星崎さんと住んでるマンションのエントランスの前は、グレーのタイルが敷かれて木々や花が植えられた通り道になっているの。今はチューリップやミニバラが咲いて歩いてるだけでいい気分だわ。
日曜日の今日はチーム文学乙女の活動日。活動内容は『かみやんの好きな人を一緒に考えよう』。夢っちとももぽんはそう言ってくれてるんだけど。
でも、もういいの。
わたしは、白いつば広帽子を上げた。
彼が幸せだったらあたしはそれでいいって、二人に伝えるつもり。
木陰の道をしばらく行くと、ショートカットの中の両サイドの三つ編みに、さくらんぼの飾りをつけた、ピンクのスカート姿の夢っちが見えた。お出迎えに出てきてくれたのね。
「おはよう、夢っち。今日はお世話になります」
開口一番、夢っちは心配そうに言った。
「神谷先生の好きな人のこと、気になる?」
「ううん」
なるべく元気に見えるように、言う。
「今日はあたしのことはいいから、楽しく遊びましょ」
案の定夢っちは、納得いかなそう。
「……でも……」
そのとき、手を大きくふりながら、黄色いキャミソールに短パン姿の女の子が走って来た。
ポニーテールが大きく揺れてる。
「ももぽん、おはよう」
「お待たせーっ。ごめん、『飛ぶ教室』の第八章、夢中になって何度も読んでたら遅くなった!」
あたしのために、物語占いの結果に頭を捻ってくれてたのね。
嬉しいけど、ちょっと複雑。
悪いことしちゃったみたい。
「ももぽん、気持ちは嬉しいんだけど、そのことはもう」
「マーティンが言ってたの。神谷先生の好きな人、つきとめたほうがいいって」
戸惑うわたしの手をぎゅっと握って、ももぽんは言った。
「それで、気がついたの。神谷先生の好きな人ってさ」
わたしはかすかに顔をそむける。
知りたいけど。
やっぱり、知りたくないような。
そのとき、わたしたちに、一つの細い影がかかった。
「久しぶり。かわいい三人組さん」
わたしたちは、一斉にその人を見る。
ボリュームを出したショートヘア。今日はノースリーブに青いカーディガンを羽織ってる。ベージュのパンツと、白いパンプス。やっぱり、きれい。
夢っちがその名を呟く。
「小夏さん……!」
さっと、あたしは夢っちを庇うように前に立つ。
小夏さんは、身を屈めて、それでも夢っちを見た。
「謝りにきたの。嘘、ついてごめんなさい。夢未ちゃん」
このあいだ、星崎さんと婚約したって言った、あのことね。
「でもね、あたしはあたしで、夢未ちゃんの味方のつもりなの。ほんとうよ」
それも、完全には否定できない。
小夏さん、星崎さんに、夢っちは、ほんとうの家族と暮らしたほうがいいからわざと嘘ついたって言ってたわ。
でも、油断もできないの。
「お父さんとはその後どう?」
夢っちは首を横に振った。
「星崎さんと約束したんです。もう一人でお父さんのマンションに行ったりしないって」
溜息と一緒に、小夏さんは言った。
「やっぱり幾夜か。まったく強情なんだから」
そして、真剣な顔になった。
「あたしは、お父さんは夢未ちゃんのこと愛していらっしゃると思うわ。ところが親だって完璧じゃないの。疲れてたりすると、子どもにひどいことしちゃったりもする。とんでもない間違いもする。でも本心ではきっと」
夢っちがきゅっと口元を結ぶ。
「確かに、そうかもしれないけど」
進み出たのはももぽんだった。
「あたしは星崎さんに賛成だな。夢のお父さんが夢のことほんとは好きだったとしても、今近づいたら夢が危ないのに変わりはないんです」
あたしは震える夢っちの頭をぽんぽんする。
「いいお友達ね。でも、夢未ちゃん。きっといつか、またお父さんと暮らしたくなる日がくると思うの。そしたら、まだその可能性は残ってるって……あなたに言ってあげたくて」
夢っちが顔を上げる。
その顏を見て、あたしも、ももぽんも、小夏さんさえはっと息を飲んだ。
夢っちはお日様みたいなぽかぽかした笑顔を浮かべていたの。
「ありがとうございます。小夏さん。でも、今星崎さんといて、すごく幸せなんです」
笑顔のまま、続ける。
「星崎さん、どうしてわたしにこんなに親切にしてくれるのか、まだわからないんですけど」
ふっと、小夏さんの瞳が暗くなったのは、木陰のせいかしら。
「たぶん、自分が、いろいろ、譲ったり諦めたりせざるを得ない人生だったからかな。せっかく入ったこの街の有名な大学も結局、途中で辞めざるをえなかったし」
茫然と、夢っちが呟く。
「そんなの、知らなかった……」
「だから自分の夢や人生を他人に譲ってしまいそうな人を見ると放っておけないの」
夢っちの栗色がかった目が、揺れてる。
それを見て、わたしははっとしたの。
それは恋する瞳だった。
好きな人に苦しんでほしくないって、それだけ思ってる目。
「あたしから言えるのは、これくらいかな」
小夏さんが、それじゃ、幾夜によろしくと言って立ち去ったあとも、夢っちのその目を見ることを、わたしはやめられなかった。
❤
夢っち宅のリビングにお邪魔して、低いテーブルを前にカーペットに座っても、わたしたちはしんみりムード。
星崎さんが用意してくれたんだって言って夢っちが出してくれたクッキーやジュースにあたしも、ももぽんすら手をつけない。
「夢っち」
沈黙を破るべく、あたしは口を開いた。
「あたし、やっぱり、頑張るわ。あとちょっとだけ」
夢っちがはっとしてあたしを見る。
「かみやんの好きな人は誰かつきとめてから。諦めるのはそれからでも遅くないなって思ったの」
ちょっと恥ずかしいけど、ついでに言う。
「さっきの夢っちの目がすごくきれいだなって。それで、やっぱり人を好きでい続けるってすてきだって……」
「せいらちゃん」
夢っちったら赤くなって俯いてる。
「ももぽん、マーティンくんにもらったアドバイスの話、聴かせてもらえないかしら」
ももぽんはにこっと笑って頷いた。
「そうこなくっちゃ」
いよいよ本題に入ろうとしたそのとき、リビングのドアがガチャリと開いたの。
入って来たのは星崎さんだった。
「ももちゃんに、せいらちゃん。いらっしゃい」
あたしとももぽんはぺこり。
「お邪魔してます」
「星崎さん、今日はお部屋でお仕事なんじゃ」
「うん。ちゃんとおもてなしもできなくてごめんね」
あたしは思わず言う。
「そんな、とんでもないですわ」
「そうですよっ。恋の会議ができればあたしたちはそれで」
「ももぽんっ」
星崎さんは微笑んで、
「三人とも、頑張ってね」
と言うと(それって恋をってこと?)夢っちに一冊の本を差し出した。
難しそうな本だわ。
そこにはこう書かれてた。
『嵐が丘』。
「大人向けの小説をまた読みたいって言ってから。恋愛ものだったらこれかなと思って。昔読んだのを探したら出てきたから、あげるよ」
「わぁ」
夢っちは目をきらきらさせてその本をめくる。
「どんなお話なんですか?」
わたしもももぽんも興味しんしん。
「英語文学の三大悲劇の一つとも言われてる。昔の映画も有名だけど、少し前また新しくイギリスで映画がつくられて大ヒットしたんだ。日本でも小さな映画館で上演されたんだよ。本国の監督がまた頑固で、『主要都市の映画館で大々的に取り上げないのなら、日本での上映は絶対許さない』って言い張ったときには弱ったな」
その口ぶりにわたしはなにか、ひっかかるものを感じた。それで、訊いてみたの。
「星崎さん、お詳しいんですね。映画もお好きなんですか」
すると少し戸惑ったような答えが返ってきたの。
「いや、まぁ……、仕事柄、原作が本のものは一応チェックするかな。中でも文学作品が下地になってる映画がすごくヒットするのは珍しいからね」
へぇ。さすがに仕事熱心ね。
ゆっくりしていってねとわたしたちに言って星崎さんがお仕事部屋に戻ると、夢っちがしみじみ言った。
「映画化された本かぁ……。場面を思い浮かべながら、じっくり読みたいなぁ」
その言葉で思い出したように、ももぽんが言う。
「そうそう。あたしね、『飛ぶ教室』の第八章をもう一回じっくり読み返してみたの」
わたしたち、ぴんと背筋を伸ばす。
本題ね。
「それで思ったんだけど、神谷先生の好きな人って、案外身近にいるんじゃないかな」
どういうことかしら。
そう言えばあたし、今の今までかみやんのことを諦めかけてたから、物語占いの結果の『飛ぶ教室』を読んですらいないのよね。
そのあたしに代わって、そうか! と声をあげたのは、ご存知、外国文学のエキスパートの夢っちだった。
「『飛ぶ教室』で、正義先生の会いたかった人。その人は、学校の庭の禁煙車両に住む、マーティンたちのよき相談相手だったんだもんね」
なるほど、そういう設定だったのね。
灯台下暗しってこと。
よし、こうなったら。
あたしは二人に宣言した。
「明日の塾の帰り、かみやんに訊いてみるわ」
夢っちもももぽんも背中を押してくれた。
「勇気出たんだね」
「頑張れ、せいら」
彼の気持ち、確かめなきゃ。
やっぱり、ちょっと、怖いけど。
切ないけど。
それでも――。
夢っちの文学カフェブレイク その2『嵐が丘』
イギリスのヨークシャーってところにある『嵐が丘』のお屋敷の主に連れられてある日孤児の男の子がやってくるの。彼の名前はヒースクリフ。
屋敷のお嬢様のキャサリンと仲良くなるんだ。
成長したキャサリンは、ヒースクリフを愛していながら、お金持ちの別の男の人と結婚してしまうの。その日からヒースクリフの復讐の日々が始まる。
好きじゃない人との結婚が生んだ、悲しい物語だけど、ハラハラのその展開を息もつかずに読んじゃうんだ……!
❤
翌日の月曜日。
塾で授業が終わって、あたしは自習室に駆け込んだ。
ここで遅くまで勉強してれば、必ず彼が――かみやんが様子を見にきてくれる。
名付けて『二人きりになれるときを待て作戦』。あたしの常套手段なの。
「せいら。そろそろ9時回るけど――」
ほうら、獲物がかかったわ。
「かみやん、質問があるの」
「わかった。ただし、遅くなると危ないからあと三十分な」
やった。
ずらっと並んだ机の中であたしの隣の机に腰掛けたかみやんに、あたしはストレート球をぶつける。
「かみやんがこのあいだ言ってた『困ったときどうしたらいいか心で訊く人』って誰?」
かみやんはやられたって顔をして笑った。
「しまった。質問を装って横道にそれるせいら詐欺にひっかかったか」
「人聞き悪いー。上品に知略と言ってちょうだい」
「わかったよ。毎日遅くまで勉強してる努力に免じで話してやる。けど次はないからな」
やった。
「もう一年になるか。『嵐が丘』って映画の現代版が、イギリスで異例の大ヒットをとばしたんだ」
あら。
どこかで聞いた話ね。
「難しい文学作品が原作にも関わらず、特に若い層にうけたらしい。あの話は、愛のない結婚が生む悲劇を描いてて、そういう問題が現代にも通じるからだろうって書いた評論家もいた」
ふむふむ。
「映画会社をやってるオレの親父はそこに目を付けたんだ。日本でも上映してヒットさせたいって思ったんだな。日本版の映画の制作権をくれるよう、イギリスの映画監督との交渉に必死になってた」
かみやんのお父さんって、映画会社の社長さんだったんだわ。
そうよね。彼、このあいだ、お金持ちが参加するバレンタイン・パーティーにも来てたし。
お金持ちのご子息っていうのは知ってたけど。
そういえばご実家にお邪魔したとき、お父様が映画のお仕事の話をしてたのを思い出す。
「一方で当時、オレは大学一年目だったが、既に親父の会社を継ぐために研修させられてた。でも映画界に行く気はさらさらなかった。昔から教えることが好きだったから、先生に憧れてたんだな。入らされたのは経営学部だったけど、好きな教育学や歴史の勉強ばっかりしてた。教職をとって学校の先生になろうとしてたのが親父にばれて、だめになったってことがあってな。オレは、それならとばかりに」
わたしは先をひきとった。
「『学校がだめなら、塾の先生になればいいじゃない』」
マリー・アントワネットの台詞『パンがないならお菓子を食べればいいじゃない』ふうに言ってみたら、かみやんは笑った。
「ま、そういうことだ」
目に浮かぶわ。
お父さんに反対されても平気で、別の抜け道を探すかみやん。
しなやかだけど肝心なところは譲らないのが、らしいわ。
「ところが、塾講師のバイトを探して、試験を受けようとしてたとき、あっさりばれた。親父は懲りないオレに激怒して、映画の仕事で自分の代わりに一つ契約をとれてきたら、好きにしろって言ったんだ。それが、イギリスに行って『嵐が丘』の映画の日本版をつくってもいいっていう許しを監督からもらってくることだったんだ」
ひぃっ。
「映画製作の交渉?! しかも英語」
「もちろんそうなるな」
かみやんのお父様も、すごい条件出すわね。
「こうなりゃ、なんとかやるっきゃないかってオレも腹をくくった。けど、問題が起きたんだ。イギリスへ発つちょうどその日が、肝心の塾の教員の採用試験の日と重なったんだ。どうもそうなるように親父が仕組んだらしい。ひでーだろ」
やだっ。なにそれ。卑怯だわ。
どうなっちゃうの?
「途方にくれるオレに、こう助言した人がいたんだ。迷わず採用試験に行けって。生きたい道に突き進んできた今までの努力を無駄にするな、ってことだった」
「でも、そしたら」
「そうだな。映画の契約はとれない。そう言うオレにその人は言った。自分の意図を押し付けようとする人間にはそれ相応の手段で抵抗するしかないんだと。……同じ大学でゼミを受けてた一つ上の先輩だった」
もうわかった。
それが、かみやんの会いたい人……!
「採用試験を受けて家に帰ったら、びっくりだ。『嵐が丘』の日本版映画を作る契約が取れたことになってた。先輩は、オレの名前を名乗って、代わりにイギリスに渡り、監督を解き伏せたんだ」
「すてき……っ」
それこそまるで映画のような話だわ。
「礼をしなくちゃならない。そう思って、次に大学に行ったとき、もうその人の姿はなかった。一身上の都合で辞めたらしいって人づてに聞いた。オレには未だにそれが腑に落ちないんだ。あんなに優秀で、貪欲に勉強してた人がどうしてだろうって」
かみやんにそこまで言わせるって。
「すごいわ。カリスマみたいな人なのね」
「ま、普段はそうでもないけどな。柔らかくて、平和的で、のほほんと構えてるくらいに見えるのに。おかしいだろ。その実底知れないものを秘めてるんだ。
……そういうところが、たまらなくかっこよくて」
しみじみと言うかみやんに、胸が熱くなる。
彼の憧れの人か。
「『嵐が丘』のイギリスの監督は、小さな映画館で上演されるのはやだって大分渋ったんでしょ」
そう言うと、かみやんは驚いたように言った。
「あとになってから、そういう話も確かに聞いたけど。なんでせいらが知ってるんだ?」
えぇっと。
誰から聞いたんだったかしら。
少し考えて、わたしは思わずあっと声をあげた。
「どうした、せいら。いきなりでかい声出して」
流行る鼓動を押さえて、気が付いたらあたしは提案していたの。
「かみやん、一週間後の月曜日、大学が終わったら、栞町の駅ビルにきて」
「へ? なんでまた」
「詳細は追って知らせるわ」
かみやんは挑戦的に笑った。
「なんだ、またデートしたいのか?」
からかうような口調に、真剣に答える。
「お願い。ほんの三十分でいいの。後悔はさせないわ」
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