㉘ わたしの帰るところ ~夢未の語り~
メルヒェンガルテンから戻ってきてせいらちゃんとばいばいしたわたしは、電車で花布の駅までやってきていたんだ。このあいだチョコレートを投函した、あのマンションの近くの公園のブランコに座って、ぼうっと夜の空を見る。
スマホの電源は切ってある。
星崎さんが心配して電話くれてることはわかってるから。
でも出ちゃいけない。
もう、甘えちゃいけないんだ。
小さい頃からの思い出がたくさんある公園なのに。
すごく心細い。
昔暮らしたあのマンションに帰ろうと思ったけど、いざとなるとそれが怖い。
世界の全部がわたしにどっかへ行けって言ってるみたいだった。
誰かが、走ってくる足音がして、わたしは身体がびくっと縮むのがわかった。
お父さん?
わたしを迎えにきてくれたの。
今度は、ずっと優しくなってくれるの?
そうだ。
きっとそうだよ。
そう思うのに、身体が震える。
息を切らして、街頭の下に現れた人を見て、ほっと力が抜けた。
「こんな遅くに、一人でこんな遠くまできたりしたらだめだよ」
「星崎さん」
ブランコの正面で息を整える星崎さんに、わたしは言った。
「わたし、お父さんのところに帰ります。また、一緒に暮らしたいんです」
まるでメルヒェンガルテンの星空の中みたいに、しんとして、星崎さんの声だけが、聞こえた。
「夢未」
心に直接響くようなその声に、どきっとする。
星崎さんはわたしの肩に両肩を置いた。
「オレを見て。目を見て、ほんとうだって言える?」
震えて、どうしても見れなかった。
さっき、お父さんが、ここにきてくれたらって思った。
でも、そう考えたら怖くなった。
わたしはお父さんと暮らしたいの?
暮らしたくないの?
「わからない。わからないよぅ」
星崎さんが、どこか苦しそうに、笑った。
「そうだよね」
息が苦しい。
責めるように言う言葉すらやさしさに溢れてるのがわかるんだ。
「星崎さんが、婚約したからってだけじゃないんです。これ以上一緒にいたら、またどんどん一緒にいたくなって、もう二度と、お父さんとお母さんと暮らせなくなるって、思ったから」
目の前が急に真っ暗になって、動けなくなって、温かい温度を感じた。
わたしは抱きしめられてた。
「行かせない」
耳の奥の方で、いつも聞いてるより低い声が響く。
「気遣いも遠慮もいらないって言っただろ。
自分が助けてもらわなきゃならないときに、オレの都合なんか考えるな」
星崎さん。
なんかいつもと違う――?
あ。
なにか言わなくちゃ。
「ち、違います。わたし、ほんとにお父さんとお母さんのところに」
「だったら、なんで一人で公園なんかさまよってるの」
え……。
それは。
「わかってないよ、夢ちゃんは。
バレンタインのプレゼントのために、一人でお父さんのマンションに行くなんて。
頼むから危ないことはしないでくれ」
どうして知ってるんだろう?
「渡そうか迷ったけど、これ」
星崎さんは、水色の小さな紙袋に包まれたなにかを差し出した。
「お返しを預かったんだ」
お父さん……!
どうしてだろう。
お父さんが、ホワイトデーチョコをくれた。
なのに、胸がきゅっと痛くて、涙が出てくる。
「お父さんは、ほんとは優しいんです。
ただたくさん辛い想いをしたから、ちょっと変になってるだけなの」
「そうだね。そういう大人はいる。でもそれは、もうそうなってしまったことで、仕方のないことなんだよ。どうしてもいけないのは、夢ちゃんまでが心を壊すことなんだ」
星崎さんの言葉が一つ一つ、胸に溶けて行く。
言われたこと、全部はわからないけど、一つだけ、ちゃんとわかったことがある。
星崎さんは、わたしが傷つくのがいやなんだ。
「帰ろう。栞町に」
その言葉が、すごく当たり前のものみたいに聞こえた。
ブランコから降りると、肩にかけてるポシェットがかさっと音を立てた。
そうだ。星崎さんへの『物語星座のケーキ』。
遅くなっちゃったけど、栞町のマンションに着いたら食べてもらわなきゃ。
バレンタイン・ケーキじゃなくて、婚約お祝いケーキになっちゃったけど。
花布の駅から乗った電車の中。座ってうとうとしていたら、考えが口から出ていく。
「でも、小夏さんは、あんなにすてきでいい人だから、星崎さんも、幸せになれるよね」
よかった、よね。
「そっか。まだそのことが残ってたね」
前に立ってる星崎さんが言った。
「小夏は夢ちゃんを心配してるんだよ。許してやってね。だけど婚約とはね。あんな突拍子もない嘘、信じる夢ちゃんも、素直すぎるというか、やっぱりずっとこのまま大人になってほしいというか」
……。
えぇ!?
一気に目が覚めた。
「婚約したって、嘘だったんですか」
あ。
どうしよう。電車の中で大きな声出しちゃった。
あわてて口を押えるわたしに、星崎さんはおかしそうに笑って首を傾げた。
「日本では、二人の人と同時に婚約はできないよ」
えっとそれは知ってるんだけど。
「忘れちゃったかな。もう一度言おうか? 五年後待ってるって」
電車の中にぱぁっと光が射し込んだように思えた。
何回きいても、心に春がくる言葉。
なんでだろう。
さっきまであんなに怖かったのに。
今では世界全部が、わたしに笑いかけてくれてる気がするんだ。
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