㉓ 海の魔女のもとへ ~夢未の語り~
星崎さんが、婚約した。
わたしはふらふらする足で、気が付いたら、少女文学の棚から、メルヒェンガルテンにきていたの。
こっちの世界も、もう夜が近い。
さくらの花びらのなかのブーフシュテルンの明かりに照らされた、秘密の花園のミルクティー色の壁やギンガムチェックのカーテンが見える。
そこへ入ればきっとモンゴメリさんが迎えてくれて、あったかいカフェラテを出してどうしたのって訊いてくれる。でも。
わたしはそこを通り過ぎた。
今はひとりぼっちになりたかった。
ひとりきりで思いっきり泣きたかったんだ。
しばらく歩くと、見たことのない海岸に出た。
満点の星空の空間を紫のすきとおった海が覆って、静かに揺れてる。
わたしは砂浜にしゃがみこんだ。
思いっきり、泣いちゃおうって思ったとき、少しだけ離れたところに、砂浜を歩いて行く人影が目に入ったんだ。
灰色の制服に紺のブレザーとズボン、それから焦げ茶の髪には見覚えがある。
マーティンだ!
そう思ったそのとき、ざっぶーんって音がして、彼の行く先の海の上に、緑のアーチのようなものが現れたの。
アーチは、不気味にうごめいてる。よく見てみて、わたしはひっと声をあげちゃった。
頭がいくつもあるへびがたくさん集まって、そのアーチを作ってるんだ。
こういう生き物って、なにかの物語に出て来たような……。
そうだ。
アンデルセン童話の人魚姫が、海の魔女の家に行く途中で出会う、半分動物で半分植物の生き物だよ。
海の中のものはなんでもつかまえてしまうの。罪のない小さい女の子の人魚でさえも。すごくかわいそうだった。
そんな恐ろしい生き物に導かれて、マーティンはどこへ行くんだろう?
とにかく、泣くのは延期だね。
ももちゃんの彼(?)だもん! とめなくちゃ!
走り出そうとするけど、足が砂にとられてなかなか前に進めない。
ど、どうしよう。
これじゃマーティン、行っちゃうよ。
ぐずぐずしているときだった。
ひらりとマーティンの前にもう一人、同じ背格好の男の子が現れて、立ちふさがった。
「ここから先は行かせないよ」
マーティンはその男の子を見た途端、悲しげにすっと目を細めた。
「ジョニー……」
彼が、ジョニーなんだ。
マーティンと同じ、『飛ぶ教室』に出てくる男の子。
暗い砂浜に目を伏せると、マーティンは決然とジョニーの方を見た。
「悪い。もう、決めたんだ」
ジョニーもひるまない。
「どうしても行くなら、僕を倒してから行くんだ」
マーティンの顔は青白くて、まるで病気の人みたいだ。
でも、その濃い茶色の目は澄んでてまっすぐ前を見つめてる。
「怒ってるんだな。将来、君の小説の挿絵を描くっていう約束、忘れたわけじゃない。それができなくなったことは、ほんとに、謝りたいと思ってる」
わたしは頭を回転させて、『飛ぶ教室』に書かれてた設定を思い出す。
絵の得意なマーティンと、作家志望のジョニーは親友同士。
物語の中ではジョニーが、将来自分が物語を描いて、マーティンがその挿絵を描く未来を思い描くんだ。それで人生が楽しくないわけがないとまで言ってた……。
それがだめになっちゃったって、どういうこと?
「見くびってもらったら困るよ」
眉をちょっぴりつりあげて、ジョニーが言った。
「君の幸せのためだったら僕はどんなことも許せる。例え君がもも叶ちゃんを好きだっていい。僕が怒っているのは、そんなことじゃない。君が一人きりで危険を冒そうとしていることだ」
マーティンが、危険を冒す?
「こんなことをして、彼女が喜ぶと思うのかい?」
そう言われたマーティンは顔を背けて、目を閉じた。
「これは、考え抜いたことなんだ。正しい道だって信じてる。僕が思い込んだら引かないことは、知ってるだろ」
ジョニーは諦めたように、悲しそうに笑った。
「そうだね。それじゃ、仕方ないな。力づくっていう手は使いたくなかったけど――っ」
次の瞬間、わたしは悲鳴をあげそうになった。
ジョニーがマーティンに飛び掛かって行って、二人はつかみ合ったの!
ジョニーがマーティンの頬を殴った。
それが合図のようにマーティンもジョニーの脇腹を殴る。
どうしよう。
とめなきゃ。
でもどうやって……っ。
しばらくけんかが続いたあと、ジョニーが倒れた。
口の端から血を流しながら、マーティンは海面の不気味なアーチへ向かって行く。
「ごめんな。ジョニー。もしものときは、もも叶のこと、頼む」
「そんなことが、あったら、絶対、許さないからな……っ。マーティン、絶対、死ぬなよ」
マーティンがかすかに振り返ろうとして――一気にアーチのなかへ駆けこんだ。
蛇の頭たちがいっせいににたっと気味悪く笑って、マーティンと一緒に海に沈んでいく――。
ジョニーはそれを見届けてから、砂浜に顔を伏せた。
わたしはあわててジョニーのところに駆け寄る。
「大丈夫!? ジョニー」
「……君は?」
「夢未だよ。ももちゃんの友達」
「そっか……情けないとこ、見せちゃったね」
「今助けを呼ぶね」
わたしはバッグからスマホを取り出した。
えっと、ケストナーおじさんの番号は……!
こういう時に限って手が震えて操作が鈍る。
もう、しっかりして、わたし!
ジョニーが大変なんだから。
なんとか通話ボタンを押した、そのときだった。
紫色の大きな波が頭のすぐ上まできていることに気が付いたんだ。
わたしはとっさにジョニーの腕を掴んだ――。
❤
気付いたら、ソファの上にいた。
少し遠くには淡い木のカウンター席。上にはケーキの入ったショーウインドーやコーヒーメーカーが置いてある。その横に白いテーブル席とイスがいくつか。
『秘密の花園』の中だ。
「気がついたかい、ロッテちゃん」
ソファの向こう側から声がして、よく知ってるおじさんがお茶目に手を振ってくる。
「ケストナーおじさん。わたし、どうして……」
「少し眠ってたんだよ。
すまないね、僕のわんぱくすぎる少年たちのために」
あ。
思い出した。
わたし、ジョニーと一緒に海に飲まれて……。
「ジョニーは?」
すぐそこのテーブルから声がした。
「僕なら平気だよ」
そこに毛布にくるまったジョニーが座っていて、モンゴメリさんに紅茶を出してもらってるところだった。
「ジョニー。君も紳士なら、女の子を危険に巻き込んではいけないな」
「反省しています」
わたしはあわてて言う。
「違うの。ケストナーおじさん。ジョニーは、マーティンが海に浮かんだ怪しいトンネルでどこかへ行こうとしたのを止めようとしてただけで」
「わかってるよ、夢未ちゃん。この場合、より悪いのは、あのマーティンだ。僕は少々彼を向こう見ずにしすぎたようだ」
ええっと、そういうことが言いたいんじゃなくて。
うーんなんて言ったらいいかな。
迷っていると、モンゴメリさんが話の流れを必要な方へ修正してくれた。
「困るのは、その向こう見ずを内密に行おうとしていることね。いったい、彼はなんのために、なにをしようとしているの?」
ケストナーおじさんは、溜息をついた。
「わからないな。ただ、海の魔女が絡んでいることは確かだ。マーティンを止めようとしたジョニーと、一緒にいた夢未ちゃんを溺れさせたのは彼女の力だろうからね」
わたしは、さっき見た不気味な生き物のトンネルを思い出す。
海の魔女って、もしかして……!
「アンデルセンの『人魚姫』に出てくる魔女は知っているね」
やっぱり、その魔女なんだ。
「彼女は自分の商売を邪魔する者に容赦がないんだよ。マーティンが彼女のもとへ行こうとしたのを止めた君たちが酷い目に遭わされたということは、マーティンはもしかしたら彼女のお客になって取引をしようとしているのかもしれない」
取引……? それって。
「きれいな声と引き換えに、人間の足をもらった人魚姫みたいに?」
「そのとおりだ。彼女は本の中に住む人々にも叶えるのが難しい願いを、実現する力を持っていて、それをお客に差し出す代わりに、危険な代償を要求することで知られている」
ってことは、マーティンも、何か危険な目に……!
わたしたちが息を飲んだとき。
「もうだめだ。耐えられない」
ジョニーが苦しそうに言ったんだ。
「ケストナーさん、打ち明けます。僕はもも叶ちゃんを騙そうとしたんだ。気付かれないように心を盗もうとした」
え? どういうこと?
ケストナーおじさんは頷いた。
「よく打ち明けてくれた。その先も話してくれるね。君が何の理由もなくいたづらにそんなことをするやつじゃないことは、僕が一番よく知っているんだから」
ジョニーはゆっくりと語り出した。
「近頃、上の空だったマーティンのことを心配した僕は、まずメルヒェンガルテンにいる海の魔女に相談したんです。そこで聞いたのは、もも叶ちゃんというとても悪い子がいて、マーティンを僕らから引き離そうとしてることと、そうなる前に僕がその心を奪うことができればマーティンは助かるってことでした。それでなんとかして彼女に好きになってもらおうとしたんだ。モンゴメリさんからそのための指輪ももらって、何度もあの子の指にはめようとした。でもやってみると具合が悪くて。あの子がそんな悪い子にはとても見えない。一緒にいると、苦しくなって、騙そうとしてることさえ忘れちゃうんだ」
わたしは、ケストナーおじさんと、モンゴメリさんと顔を見合わせた。
二人とも、切なそうに、でも優しく笑ってる。
わたしにも、ジョニーの気持ちがわかったんだ。
たぶん、ここにいる中でジョニーだけは気づいていない、気持ちが。
こういうことは珍しくないよね。特に、本の中だと。
なるべくジョニーが安心できる柔らかい声をつくって、わたしは言った。
「ジョニーも、すごくいい子だからだよ」
わんぱくくんの多い『飛ぶ教室』メンバーの中で、いつも落ち着きをもって、保護者みたくみんなを見ていたジョニー。
小鳥と会話するのが好きな、詩人。
クリスマス劇も作れちゃう、感性の持ち主。
「ジョニーが誰かを騙すなんて、似合わないよ」
ジョニーはふっと、微笑んでくれた。
「ありがとう。ほんと言うと、むいてない仕事だって思った。僕は人を思い通りにするより、あるがままを見ている方が好きだから」
うん。
それ、すごくよくわかる。
わたし実は、『飛ぶ教室』を読んだとき、男の子たちの中で特にジョニーとは気が合いそうな気がしてたんだ。
いいお友達になれるかも。
「ねぇジョニー。もしかして、マーティンと海の魔女さんとの契約がどんなものか、知ってるんじゃない? だから、さっきあんなに必死になって止めようとしてたんだよね」
わたしが言うと、ジョニーはばつが悪そうにうつむいた。
「そのとおりだよ。でも」
ケストナーおじさんが、みなまで言うなって顔をして頷く。
「君は、彼の秘密を守らなくてはならない、そう言うんだろう?」
そっと、ジョニーは頷いた。
「マーティンに問い詰めたんです。やっぱり、とても危険な契約でした。どうしても止めなくちゃって思った。でも、どうしてかな」
今度はわたしを見て、ジョニーは傷のある顔で微笑んだ。
「今は、彼の思うとおりに、させてやりたいんだ」
心得たって感じで、モンゴメリさんが頷いた。まずはわたしに向かって、
「夢未。あなたは本の外の世界に戻って、せいらにこのことを伝えて。そして、もも叶からできるだけ目を離さないでいてほしいの」
「はい!」
そして次に、モンゴメリさんはケストナーおじさんの方を見た。
「どうかしら、ケストナー。ジョニーの想いを尊重して、今回のことは一度マーティンに任せて見守ると言うのは」
ケストナーおじさんはやれやれと笑う。
「沈着冷静な君もすっかり、ジョニーにほだされてしまったようだね」
「実際、あなたのところの坊やはなかなかね。さっき、海の魔女がうちの店から盗んだ商品をわたしに返してくれたの」
えっ。
すごい!
ジョニーが紳士的に微笑む。
「当然のことです」
「まぁ、わたくしはもとから彼を応援していたけれど」
でも、モンゴメリさん。
指輪の力でほんとうにももちゃんがジョニーのことを好きになっちゃったらどうするつもりだったんだろう……!?
でも、ジョニーはそれをしなかった。
もしかして、そのこともお見通しだったり?
まぁ、いいや。
わたしだって、『赤と黒』のジュリアンのようにはなれないジョニーを、とってもすてきな子だと思うもん。
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