第三節 運命の出会い


 あれは確か雨の日のことだった。その日は終電を逃したので、歩いて帰ることにした。雨に濡れて桜が水たまりの中で散っていた。そして、桜の花先が茶色くもなっていた。


人混みの中、早足で歩いていると、“パサッ”何かが落ちた予感がした。


「あの」振り返ると茶髪の私より若そうな青年がいた。高校生くらいだろうか。


にしても私、バッグのチャック開けっ放しだったなんて。恥ずかしい。誰かとぶつかった感じもした。財布を落としたのか。ベージュの柄で閉じる場所に硬いプラスチックのリボンが付いている。何ともチャーミーな財布だ。お気に入りの財布だった。


「それ、私の財布です。拾って下さり、ありがとうございます」


 財布を拾ってもらっただけなのに、ときめいてしまった。顔を上げると恋渕先輩よりはるかに感じの良い草食系っぽいイケメンだった。おしとやかで大人しそうな。茶髪で髪も整えられている。


そう言って立ち去ろうとした。が、その青年は傘を差していなかった。ザアザア降りなのに……。


「あの、もし良かったらお礼として、傘に入れてあげましょうか?」


この時の私はこの一言がのちの自分の人生を大きく変えるとは思いもよらなかった。


「あ、はい」


 しばらくは無言の間が続いた。水玉の赤い傘に男女が2人。ザアザアと打ちつける雨音だけが耳に入ってくる。相合い傘なんて初めてだった。距離が近いから心拍数が上がる。それにその青年は私の手に重ねるようにして手を被せてきた。思わず、手が震えてしまう。そして肩が濡れる。春なのに寒い。


「あ、あの傘はどうされたんですか?」と私が静寂を打ち破った。


だが、青年は何も言わない。即答できない質問もあるのかと数秒待ってみた。けれど沈黙のままなので、「どうして傘差さないんですか?」とさっきより大声で聞いてみた。


すると「ビニール傘はこの前壊れた」という返答が返ってきた。


「壊れたなら新しいの買えばいいじゃないですか」


「それが金が無い」


金が無いとは一体どういう事だろうか。無いなら両親に借りればいいし、なんなら自分でかせげばいい。それなのにこの青年は何を言っているのだろうか。それに傘だから巨費が必要なわけでもない。


「事情は何となく分かりました。それじゃあ、バーにでも行きません? 私も疲れましたし」


「そうですね」


こうして、二人はバーへと入っていった。


 そのバーはどこかロマンティックで洋風なお店だった。今もなお、ジャズが流れている。時を忘れてしまいそうだ。マスターは40代くらいだろう。ひげを付けている。


「何か頼まれますか?」


急に聞かれたので止まってしまったが、「私はレモンサワーで」と注文した。


(年齢聞かずに同行してきちゃったけど大丈夫かな……)青年を見て思った。


「じゃあ、僕は赤ワインをお願いします」青年は迷う事もなく丁寧に注文していた。


「えっ、今いくつ?」


「22です」


22!? この見た目だと10代でも通用する。動物に例えるなら猫かキツネタヌキだ。


青年は慣れた手つきで赤ワインを一杯口にする。


「美味しい」


「それは良かった」マスターが微笑む。


他にも客はいるが、男女の客は私達だけだ。


「趣味は?」


「釣りかな。あとは今してないけどゲーム」


「してない? 仕事で忙しいから。とか?」


「仕事もしてないよ」


この言葉にはさほど驚かなかった。大学生かもしれない。


「じゃあ、勉強かな」


「そうだね」僕は嘘をいた。だって、君に真実を知られたら、離れていってしまうから。


「ファッションが趣味か。服とか好きなの? 私ね、実はデザイン会社に勤めてるんだ」


「そうなんだ」青年はまるで知られたくない事があるかのように下を見た。


「どんな服が好きなの?」


「お洒落な服かな」


青年はカジュアルな服を着こなしている。そして、スタイルも良い。登山に行く時の服装に近い。


「やっぱりそうだよね」


「好きな食べ物は?」


「最近、山菜ときのこと焼き魚しか食べてない」


そんなことってある? 待って、この子異常だわ。


「へーその中で好きな食べ物は?」


「無いけど寿司は好きだよ」


「美味しいもんね」


 寿司は日本料理の定番だ。海外にも寿司をモデルにした料理があるらしい。刺身は新鮮な物が一番だ。海鮮丼も美味だ。寿司は食感も良い。


「私は苺パフェが好きかな」


「そうなんだ」


この青年は私に興味が無いらしい。無関心といった表情で私を見てくる。大きなリアクションも見せない。苺パフェは甘くて美味しいのに。この青年はもしかして嫌いなのか?


「付き合ってる人いる? 結婚してるの?」


質問してくれた……! と思ったらまさかの恋愛。


「付き合ってる人はいないけど告白の返事できてない状態。結婚はしてないよ」


「そうなの。ちなみに告白されてから何日経ってるの?」


「3週間」


青年は口が開いたままだった。ありえないという顔をしている。


「それはいくら何でもマズイんじゃない? どうして決まらないの?」


その質問に私は答えるまで時間が掛かってしまった。出会ったばかりの人にペラペラ喋っていいものなのだろうか。


「それは……」一息置いた後で「怪しいと思ったから」と答えた。


「どこらへんが怪しいと思ったの?」と青年は上目遣いで聞いてきた。


だけど、これといった理由は上手く言えず、「分からない」と言った。


「だったら振っちゃえば?」と青年は言った。


私よりも決断力があった。青年の言う通りだ。


「だけど振り方が分からなくて……怖い思いもしそうで……それに女性社員からの問い詰めも面倒で機会を逃してしまうの」嫌そうに恐れ戦きつつ、身をすくめた。


「そっか」青年は気持ちが分かったという顔をして、この時は頷いた。


「そろそろ、行こっか」


「待って!」


 私はそう言うと、背伸びをして斜め45°を忘れずに唇を彼の唇に軽く当てた。くっつくこと約15秒。甘くてほんのり酒の香りがする苦いキスでもあった。お互い顔を赤らめた。色っぽかった。バーの客はこちらに気付いておらず、見ていない。大人の恋愛のようだった。


「もしかして酔ってる?」


「酔ってないよ」私は苦笑いすると彼のほうをもう一度見た。


彼から伝わる温かい体温。滑らかな唇であった。


そして、バーを出た。彼はまだ現実を受け入れられてないようだ。手をパタパタさせている。私もそれは同じだった。これが人生初のファーストキスだった。勿論の事だが動じている。体の震えが止まらない。名前も詳しい事も知らない間柄の口づけ。

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