第44話 ラ・メルベイユ
(1)
ビルフォードからイオナに何が起こっていたかの説明を聞いていた凍馬は、いつの間にか握り締めていたインディゴブルーのコサージュを、うっかり壊してしまわぬよう、そっとカバンの中に仕舞い込んだ。
――まだ、イオナは目覚めない。
「読心術(マインドリーディング)か」
凍馬は告げられた彼女のスキルをそのまま反復した。「心の声を聴く」という能力があるかもしれないことを、これまでの彼女の挙動に感じないわけでもなかったので、凍馬にとっては特段、思うところも無い。
「竜王(マスタードラゴン)は、盟約を結んだ竜王(ドラゴンマスター)にそのスキルを授けると聞く」
加えて、イオナがこれまで呪文の全解放をためらっていたのなら、この読心術(マインドリーディング)というスキルが原因だろう、とビルフォードが告げた。
「あんまり、好いものじゃ無いだろうからな……人の心の声を聞くということは」
「そう、かな」
天涯孤独の時間があまりにも長かった凍馬には、何もピンと来るものはなかったが、ビルフォードが言うのならそうなのだろうと解釈することにした。
「“正直に”生きているお前には分からんだろうなぁ」
ビルフォードも、そこのところはよく理解しているようだ。あまり深く考え込めずに、凍馬はぼんやりと天を仰ぐ。
屋根の無い白い部屋から差し込む光は木漏れ日。
辺りの交譲木(ユズリハ)に透けた緑色のきらきらした光は、外の亜熱帯の日差しよりも優しくて、凍馬はふと、すっかり記憶の隅に追いやられていた地元の森を思い出した。ペリシア西部の無国籍地帯“修羅の森”だ。「帰りたい」と思えば、彼女に伝わるのだろうか。
――彼女は、悲しむのだろうか。
「水が要るな、」
やおら、ビルフォードが立ち上がった。
「汲んで来よう」
まだ気後れした頭のまま、ビルフォードの背中を見送った凍馬だったが、何故、彼が突然席を外したのかは、すぐに分かった。
「アラ、優しいのね、ビルフォードったら」
声に驚いて振り向けば、イオナがゆっくり身体を起こしたところだった。
(2)
風に流され、さらさらと交譲木(ユズリハ)が揺れる音が涼しい。凍馬は、思い出したようにカバンを開け、コサージュを手に取った。
「ハナが落ちてた。お前のか?」
「ハナ? ああ、コサージュが落ちてしまっていたのね。ええ、アタシのものだわ」
アリガトウ、とイオナはコサージュを受け取ろうとした。いや、一度、凍馬の目をじっと見つめた。「何だよ?」と、怪訝そうな表情を見せた凍馬に、不敵な笑みを返したイオナは、そこで漸くコサージュを手に取った。
「今、緊張したでしょう?」
想定外の問いかけに戸惑い、思考を止めてしまった凍馬に、イオナが言葉を継ぎ足した。
「ココロの中を覗かれるんじゃないか、って」
吹き抜けてきた風がイオナの髪を揺らしたのを見送って、凍馬は首を傾げた。
「そうなんかなァ……」
凍馬は溜息交じりで白壁にもたれ掛かる。
「ま、お前がそう言うんなら、そうなんだろうな」
もしも自分が読心術(マインドリーディング)という能力を持っていたのなら、自分自身に使ってみたいものだ、と凍馬は少し笑ってカバンの蓋を閉めた。ここ数日間、すっかりカバンの中に仕舞い込まれてしまっていた紺色のバンダナに睨まれつつ。
イオナは、コサージュを仮止めする為にテグス(勿論、凍馬から拝借したもの)を斜めに切る。その手際の良い作業を、凍馬もじっと観察していた。ふと、
「帰りたいのね、修羅の森に」
イオナの口から出た言葉が凍馬の心臓を抉(えぐ)る。凍馬は返すべき言葉を探していた。否定しようにも嘘臭く、肯定しようにも言い尽くせない。仕方が無いので、
「オレは、帰りたがっているのか?」
と、問い返してしまった。
「奇抜な自問自答ね」
案の定、イオナは可笑しくて笑ってしまっている。凍馬は、バンダナの無い額に掛かる髪を掻き揚げて、空を仰いだ。
「貴方って、不思議な人ね」
今度はイオナが溜息をついたようだった。凍馬は視線だけを彼女に向ける。彼女は、凍馬と同じように、空を仰いでいた。
「お前に言われたかねぇよ」
凍馬は再び視線を空に向けた。いや、もう一度イオナの方に向けた。
「辛いモンか? 他人のココロが読めるってのは」
オレにはよく分からねえケド、と付け足して、凍馬はイオナの言葉を待った。
風がピタリと止んだ。
凍馬にとっては、眠ってしまいそうなほど穏やかな静寂だった。しかし、そう感じていたのは彼だけだったようだ。
『――我が祈りに応え給え』
不意に聞こえてきたイオナの詠唱に驚くまま、凍馬はイオナの方を注視した。
『読心呪文【雄弁なる真実】(マインドリーディング・ラ・メルベイユ)』
イオナの詠唱の終結と同時に、魔法分子結晶が見る見るうちにヒトの形に結合し始めた。唖然としていた凍馬の目の前で、魔法分子結晶の人形に「イオナ」の
「ゴメンナサイ、アタシは少し疲れてしまったの」
“訊きたい事なら総てその子が教えてくれるわよ”、と伝え置き、イオナは再び横になってしまったのだ。
凍馬はまるで霊(ゴースト)のように表情を失ったイオナ(の容をした魔法分子結晶)を見上げた。
「アタシは、」
魔法分子結晶が口を開いた。
「アタシは、イオナ・アルクスバーン・シュディアーロア。もとい、」
彼女が切り出した内容こそが、驚嘆すべきもの(ラ・メルベイユ)であったのだ。
「イオナ・フレデリック・ユーリヤ。ペリシア帝国元帥の地位を授かりし者」
何と、イオナこそが、前・ペリシア帝国元帥だった者であると言うのだ!
(3)
目を閉じた暗黒の中、音だけが聞こえる。その音も何処か遠い――イオナは拳を握り締めていた。
――裏切り者には死を! 裏切り者には死を! 裏切り者には死を!
帝国元帥のスキャンダラスな失脚に色めき立つペリシア帝国から逃げ惑うことに必死で、一体どのくらい走り続けていたのか、彼女はよく覚えていない。覚えているのは、二つ。
両親・姉・姉の婚約者と姻族が、自分の謀反の所為で処刑されてしまったこと。
そして、自分の謀反を密告したのが自分の婚約者であったこと。
ペリシア帝国を竜の加護で防衛するという名目の英才教育で、竜王(マスタードラゴン)を取り込む術を学んだのがイオナの運の尽きだった。彼女の持つ、読心術(マインドリーディング)のスキルで内心を読まれては困る、と両親や親戚・友人までが彼女と常に距離を置くようになってしまった。
しかし、それは一方である種の権威を彼女に与えた。他と比べ、抜きん出た才能を開花させていた彼女を、ペリシア当局が放って置く訳が無い。程なくしてイオナは、帝国元帥としてペリシア帝国の軍事機構のトップに君臨することになったのだ。
とはいえ、精神的にはまだ発達途中であった若年の彼女にとって、成果をまくし立てる官僚達や、身の回りの泥臭い利権に塗れた人間関係や、貧困と圧迫と隷従に苦しむ大多数の庶民達の生活を直視せざるを得ない環境は、強烈なプレッシャーでしかなかった。
そんな彼女の前に現れたのがメーアマーミーという若き青年将校だった。彼の愛国心や民を思う気持ちに惹かれ、イオナは何時しか彼と共にペリシア帝国を変えようと決意するに至ったのだ。
それなのに――
「(裏切り者は、どちら?)」
強く握り締めたイオナの手のひらに血が滲む。渇ききった喉から出てくる言葉など、最早無い。動かない両足が地面に食い込んで、傷だらけの身体が地面に強く叩きつけられた。
“裏切り者は、死ね”
イオナはこの、聞き覚えのある低い声の主を見んと顔を上げた。
「何故、貴方なの……」
何と言う事だろう――かつては死ぬまで共にと誓い合った婚約者が、狙撃者として、眼前に立っていたのだ。「裏切り者」はどちらの方なのか、その答えはともかく、
“死ね、イオナ!”
この、強烈なココロの声を忘れることが出来ないのだ。
灼熱の火の玉が迫ってくる。激しい光と熱と痛みが皮膚を貫いた感覚が、彼女には確かにあった。きっと、「イオナ・フレデリック・ユーリヤ」という女は、その時に死亡したのだろう。
“おはよう。ケガの具合はどう?”
次に意識を取り戻したイオナの眼前に、ヴェラッシェンド帝国の第一皇女がニッと笑って立っていたのだった。
時は現在(いま)。
目を閉じた暗黒の中、音だけが聞こえる。その音も何処か遠い――今もまた、イオナは拳を握り締めていた。白くて、冷たい床が余計な体温を奪ってくれて心地良い。拳を握り締めていなければ、本当に眠ってしまいそうだった。
「訊きたい、こと……」
凍馬の声に、白い石の床が微かに震える。その小さな振動を、何とかイオナも辿る。
「訊きたいこと、か」
凍馬はイオナの容をした「雄弁なる」人形を見上げていた。
「何だろうな……」
総て教えてくれると言われたので、一番肝心なことを訊きだしてやろうという貪欲さと、一番肝心なことだけを訊けばそれだけで充分だという謙虚さとが。彼の中で駆け引きを始めた。
結果、凍馬の切り出した質問は、最終的に次のようなものにまとまった。
「――今、楽しいか?」
その質問はあまりにも予想外だったので、イオナはこの声の主を見んと顔を上げた。
「貴方って、ホントに不思議なヒトね」
何だか笑いが込み上げてきたイオナは、素直に腹を抱えた。
「お前に言われたか無いっての!」
すっかり彼女は眠っていると思い込んでいた凍馬は、突然聞こえてきた彼女の笑い声に、驚きと気恥ずかしさとの入り混じった複雑な表情を白壁へと背けた。
そんな彼等をよそに、淡々と、しかし、絶妙なタイミングで魔法分子の人形が口を開いた。
「ええ。今はとっても楽しいわ」
解除された読心呪文の魔法分子結晶が一斉に自然界へと還っていく。七色に輝きながら崩れていく粒子達を、二人はそれぞれ見送った。
「無茶しやがって」
気まずさに耐え切れず、凍馬が口を開いた。
「お前まで戦う必要は無いんじゃねえの?」
首を傾けこちらを見たイオナを見ていられず、隠れるように下を向いて髪を掻いた凍馬は、もう一度呪文を封印すれば良いと、言ってやった。しかし、「それは違う」とイオナは首を横に振った。
「呪文を開放したいと思っちゃったのよ。だって、此処はあまりにも居心地が良いんですもの」
その彼女の気持ちは、あたかも読心術を使用したかのように凍馬のココロにストレートに伝わってきた。いや、ひょっとすると、彼女のマインドリーディングが発動されていたのかもしれない。
その有無はともかく、
「居心地が良い、か」
それは間違いなく、今の凍馬にも当てはまる言葉だった。
「オレももう暫くは、此処にお世話になるとするか」
――丁度、ラン達の談笑が聞こえてきた。
(4)
ランの目にも祭儀場が見えてきた。
先程ソニアと戦った際に、魔法を応酬して散々荒れたと思っていたが、意外にも、戦った形跡は跡形も無かったのに驚いた。
変化といえば、左手にある白い岩の壁が裂けていることだろうか。丁度今、その裂け目の中に水の祠があると教えられた。
「此処でお別れです」
水護神使が立ち止まった。
「え? 一緒に居てくれるんじゃないの?」
ランは戸惑った。母の面影があるこの水護神使や、強い縁を感じる炎護神使と別れる事が、正直、名残惜しかったのだ。
「ごめんなさいね。私達は、もう、行かなければなりません」
水護神使は少し困った表情をして、炎護神使の方を見た。
「ランちゃんさ、」
炎護神使が声をかけてきた。
「皆を、救ってあげてくれな。オレも、ちゃんとチカラ貸すからさ」
ニッと笑った炎護神使を心配させてはならないと思い、ランは力強く声を張った。
「ウン、任しとけ!」
そして――何だかやけにそうしたかったので、ランはそのまま炎護神使と水護神使とハグを交わした。
そこへ、榕樹を揺らし大きな音を立てて旋風が起こった。現れた暗がりの金髪を見るや否や、ランが歓声を上げた。
「イェルド!?」
お帰り、とランは手を振った。
「え、……ランさん?」
時に、風護神使と別れたイェルドが転送されてきたところだったのだ。
「お、イェルド君かぃ?」
炎護神使は口元を緩めた。炎護神使と水護神使とは初対面となるイェルドは、先ず彼等が何処と無くランに似ていることに驚いた。
「イェルド君、」
炎護神使が頭を下げる。
「ランちゃんを、頼んだぜ!」
「え? あ、ハイ……?」
まさか神使から頭を下げられるとは思っていなかったイェルドは、大いに動揺してしまう。その様子を見ていた水護神使も口元を緩めた。
「さあ、もうお行きなさい。多くの民達が、貴方達の“答え”を待っていることでしょう」
水護神使がくるりと背を向け、榕樹の森の奥へと引き返していった。
「見守ってるからね」
炎護神使が大きく二人に手を振って、水護神使の後に続いて消えた。
――ランとイェルドは顔を見合わせてしまった。思った以上に、『神使』とされる彼等が人間臭くて驚いていたのだった。
「彼等は、神使……ですよね?」
「うん。でも、……」
正直、初めて会った気がしなかった――ランはイェルドに二人の印象をそのように説明した。
暫く、二人は炎護神使と水護神使の消えた榕樹の森の奥を見つめていた。
「何だ、もう帰っていったのか」
その二人の視線とは逆方向から、今度はビルフォードの声が飛んできた。
「アレス達と居たようだが、何かコトに進展でもあったのか?」
「え……アレスって?」
――そういえば自分の祖母も“アレス”という名であったことを思い出しながら、ランは森を後にした。
(5)
結局のところ、世界がどう変わるのかもよく分からないまま、5人は“大地”と“風”の封印を遂げることとなった。
封印自体は実に簡単に済んだ(具体的には「風の祠」と「大地の祠」の入り口を結界呪文で塞いでしまうだけのことである)。水護神使・アレスの説明が解かり易かった為、祠の位置に全く迷いを来たさなかったことも大きいが、封印前の動静に比べれば、封印自体は何とも些細な出来事でしかなかったというのが正直な実感であろう。
幸運なことに、“禁じられた区域(フォビドゥンエリア)”はレッドキャッスル帝国の南に隣接するトゥザナバーレ共和国から、飛空騎で4時間という短距離の位置にある。人魚・カナッサの協力を得た今、思いの外、短期の時を経てエリオと再戦できそうだ。
「明日までに、トゥザナバーレに入ろうと思う」
と言ったビルフォードの声にも自然と力が入る。トゥザナバーレまで近付けば、彼の妻・ハルナの安否に関する情報も出てくる筈だ。
「何だよ、やけにゴキゲンじゃねえか?」
突然鼻歌を歌い始めたイオナを一瞥したランは、すっかり手入れの済んだ剣を鞘に収めた。“禁じられた区域(フォビドゥンエリア)”で何かあったのだろうか、突然彼女の方から、呪文の全解放は成功したとの報告があったのだった。
「アラ、アタシは大概ゴキゲンよ?」
ともあれ、イオナの返事が「それもそうか」と思えるものだったので、ランはそれ以上の追求をしなかった。まあ、何があったかを彼女に問うたところで、結局はいつものようにはぐらかされてしまうだけなのであろうが。
考えてみれば、この数日間はラン達にとって収穫が多い。
イェルドの“光”との盟約が完了し、エリオのチカラを最小限に抑える為の“風”と“大地”の封印は成功した。
「(ただ、)」
ランはあの不気味な出来事を思い返していた。自分と同じ顔をした女に、突然「私は貴女」などと言われたのだ。それとも、あれは夢だったのだろうか。
「(疲れてたのかな)」
ランは一つ溜息をついた――この世界に来るまでは、曲がりなりにも「温室育ち」ではあった。ひょっとすると、此処での生活は、自分が思っている以上に体に負担を強いているのかもしれない。
「まだまだ、修行が足らないようだな」
ポツリと漏らしたランの一言を、イオナが聞き逃さなかった。
「ダメよ、ランちゃん!」
ヴェラッシェンド帝国の秩序の為に、イオナは必死で説得を試みる。
「ランちゃんがこれ以上強くなっちゃったら、イェルドさん達の仕事がなくなっちゃうじゃない!」
「ま、それはそれで良いじゃないか」
鞘に収めたばかりの剣を再び抜いて、ランはニヤリと笑った。
――まさかその手により、終幕が齎されようとしている事など知らされずに。
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