第18話 聖なる傷と微笑む人(2)

(1)

 教会から出てすぐに、イェルドは凍馬に迎えられた。早速、イェルドは例の老婆を見ていなかったかと兄に問うてみた。しかし、

「老婆? 居たかな? まァ、オレが熟女を欲してないから見ていなかったっていうだけなのかも知んないケド」

凍馬の視覚は何とも都合の良い仕組みでできているようだった。呆れていても仕方が無いので、イェルドは先刻の不思議な出来事を兄に話した。

「また一人、敵が増えたワケか」

凍馬は一つ溜息をついた。これまでそう多くの他人と係わった事の無い彼にとっては、そろそろ人物の把握だけで辟易しそうになっていた。

「いえ、まだ、敵と断定するのは尚早です」

わざわざ“光の勇者”という言葉を使ってくるところからすると、むしろ“アリス”達に近いものを感じる。

 イェルドの分析は半ばであったが、凍馬も用件を伝えた。

「“敵”ってので、思い出したんだが、お前には話しておきたい事があったんだ」

どうやら、その話の為に兄はわざわざこうして迎えにきてくれたようだ。

「お前はもう、講義には出ない方が良い」

彼は結論から話してくれたので、何をどうすれば良いのかはよく分かったが、イェルドは、一応理由を聞いた。

「それは……」

凍馬は答えに困ってしまった。一体何から話すべきなのかということを考えてしまったからだ。察したイェルドは微笑んだ。

「良いですよ。それなら、私の質問に答えてくださいね」

本当にこちらの弟は良くできているなと感心しながら、凍馬は頷いた。


 カッカディーナの町から傭兵学校の寮へ進むにつれ、家屋は疎らになり、街道は山道へ変わる。日は西へ落ち、蜻蛉(とんぼ)さえ姿を消す中、イェルドの尋問は始まった。

「講義には出ない方が良い、とは外出を避けた方が良いという趣旨ですか?」

アユミと出くわさない為にはその方がよりイェルドの安全の為になると思った凍馬は、またも一つ、頷いた。兄の回答を分析したイェルドは確認の上、切り出す。

「どうも、私が外出すると良くないようですね。安全の為ですか?」

アユミがイェルドを名指して「殺す」と言い捨てた事についての言及は避けたい凍馬は、またも一つ、頷いた。その回答を分析したイェルドは、更に質問を続けた。

「兄さんの酒の拝借先は、食堂或いはカッカディーナの繁華街ですか?」

図星か惰性かはさておき、またも一つ頷きそうになった凍馬は辛うじて思い留まり、言葉を失って引きつったままの口角を弟に向ける。

「単なる仮説ですよ」

とイェルドは微笑む。

「ヴェラッシェンドのリトリアンナ界隈ならともかく、このレッドキャッスルで個人的に狙撃されるほど恨みを買った覚えはありませんから」

穏やかさに隠れた彼は上手に兄を追い詰めていく。

「私の知らない敵が傭兵学校或いはカッカディーナに潜伏しているのか、貴方が単に私を部屋に封じ込めたいのかのどちらかだと思いまして、取り急ぎ後者の思い当たるフシを突いてみたところです」

本当に彼は良くできた弟だ、と凍馬は思う――時折、何故だか戦慄を感じる件はさておき。

「前者の方なんですか?」

即ち、自分を標的としてこの近辺に潜伏している敵が居るのかどうかをイェルドは問うた。しかし、この問いの答えはなかなか返ってこなかった。

「前者の方なんですね」

待ちかねたイェルドはそう判断したが、間違いではなさそうだ。今、兄の重い口が開いた。

「エリオの仲間に、オレの義理の弟が居る」

「え?」

聞き返した弟の声は小さく動揺している。気付いただろうか。よく出来た弟ではある彼は、一つ、誤解していることがあるのだ。

「オレにだって、貧相だったが、家族ってモンがあったんだよ」

“凍馬”は、確かに孤独を余儀なくされていたが、決して知らないわけでは無いのだ――親の顔や故郷、自分の本名や家族の名、人が人故に持っている深い愛(例えば、親の子に対する慈愛や兄姉の弟妹に対する責任感。師に寄せる敬意や仲間に寄せる信頼)。そして、大切な人を失うという事の、耐え難い絶望感を。


「お前の存在は、あいつにとって最も面白くないだろうと思う」

とうとう、凍馬も白状した。

「そんなもの、なんでしょうか……」

正直、イェルドはピンと来ない。兄弟がいると知らずに生きてきた時間の方がまだ長く、兄弟で過ごせるようになった時間なども、ものの半月程度だからであろうか。

「悪く思わないでくれ」

と、兄は言う。命を狙われている手前、口にするほどでもない小さな不快感は覚えるが、「嫌だ」とも言えず、イェルドは口を噤む。が、弟の不服を察したのか、合理的な理由が返ってきた。

「アイツ、記憶喪失やってるもんだから、組織に依存しがちなんだ」

(2)

 “おい! お前、大丈夫か?!”

どう分け入ったのか定かではない深い藪の中で、自分と同じ歳くらいの暗めの金髪の少年が心配そうに顔を覗き込んでいた――アユミの記憶は、そこから始まる。

 気が動転していたアユミは、周りを見ては驚いて、その少年を困らせてしまった。どうしてそこにいたのかも分からない。見る物全てが得体の知れない恐ろしいものに見えたのだ。

“記憶って、無くなったりもするんだな!”

記憶を失ったようだと告げると、少年は驚きを見せながらも何処か冷静だった。

”無くなったりするもんなら、見つかったりもするんじゃねえの?”

――だから、何だか安心したのを覚えている。

 “記憶が無え? そいつぁ羨ましいな”

少年の養父・『凍馬』などはそんなことを言っていた。

 その場限りでその日暮らしの彼らにとって、過去は過去で今は今。記憶の有無は、それほど重要ではなかったので、『凍馬』が率いる盗賊団に保護されたアユミは、そのままその一員となった。

“お前、名前まで忘れてるんなら、オレが付けてやるよ”

その少年によって、便宜上、彼には「歩(アユミ)」という名が付けられた。その時は、少年にも名前が無く、盗賊の団員達から「チビ」だの「お子様」だのと呼ばれていた。二人名無しの「チビ」がいると流石に困るからだと少年は言ったが、後に仲間達から、「歩(アユミ)」という名は、その少年が一人前のシーフになったら名乗ろうと思って温めていた名前だったと聞かされた。

 

 しかし、今、その少年には“ツェイユ”という実名があり、イェルドという実の弟がいる。


 「バカね」

出会い頭に、アユミはネハネから“お叱り”を受けた。

「余計な事はしないで、とあれほど言ったのに」

アユミはエリオから既に4人の抹殺の了承を得てきている。しかもそれを残り一週間以内に決行すると言うのだ。

「バカね」

ネハネは更に眉を吊り上げた。涼しい一重瞼のエキゾチックな目元がさらに冷ややかにアユミを見下す。

「何故、ワザワザ身を削るようなマネをするのかしら?」

苦しい筈だ、と彼女は理解している。凍馬という「伝説の」盗賊がアユミの義兄であることは彼女も知っていた。しかも、互いに互いの存在を意識しながら、その名を今に至るまで高め合ってきた経緯を持つ仲だという。

 それなのに、あえてアユミが凍馬の抹殺任務を引き受けるメリットがあるだろうか。それも、本国の意向とは関係のないところで。


 詰め寄る度にコツリと鳴る彼女の高いヒールの靴の音に条件反射で脅威を感じたアユミは、何とか説明責任を果たさんとしていた。

「オレの頭がふわふわしてるもんだから、一応のケジメをつけたくて」

腐心した挙句、出てきた回答は何とも貧弱だった。

「結局、オレのアイデンティファイは、此処にしかないし」

かつての記憶――それは二度と取り戻せないのかも知れない。もしかすると、今あるこの記憶さえ、また忘れてしまうのかも知れない。“アユミ”と言う名の今の自分すら、いつかこの世界から消えてしまうんじゃないかという錯覚に、丁度この今でさえ、襲われている。

「バカね」

ネハネは、本日3度目となるこの言葉をアユミにくれてやった。

「記憶があろうとなかろうと、河川が逆流するわけでも、日が西から昇るわけでも無いじゃない?」

「いや、もうホントその通りっす!」

ごもっともなネハネの見解に、自分の悩みがひどくちっぽけに見えてしまったアユミは、思わず納得してしまった。そんな表情を返されるなどとは思ってもいなかったネハネは、例の言葉の4度目を吐き出した後、

「同情など、しないわよ」

と言って、アユミにキャッシュカードを突き出した。

「自分の居場所くらい、自分で作ることね」

与えられたのは、アユミの任務の遂行に必要な金である。チェスターグループの経理から、彼女が巻き上げた(!)ものだと思われる。

「おおお、愛してるネハネさん!」

「暑苦しいこと言ってないで働きなさい」

アユミはネハネからキャッシュカードを受け取ると、黒のレースのワンピースと暗めのブロンドの長い髪を靡かせて行ってしまった彼女の後姿に、暫く頭を下げていた。

(3)

 アユミが講義に現れないまま、5日もの時が流れていた。


 「つまり、この“比”の概念を使えば、戦艦の大きさや大砲までの距離を一々測らずとも計算で出すことができるワケか?」

難しい顔をして一つ頷いた凍馬がイェルドの双子の兄ということは間違いないようだ。彼はまだ、文字は2、3割程度しか理解できないものの、知的好奇心はむしろ傍らのランよりも旺盛で、聞いてしまえば講義内容などはすぐに理解してしまう。

 教育しがいがあるためか、凍馬の始末書3枚分の未提出を教官達も大目に見てくれた。凍馬の反応に釣られ、日に日に教官が多弁になるので、正直、ランにはしんどい講義が続いた。

「それだけではない。“比”という概念で我々は、あの空に掛かる月の大きさまでも計測することができるようになったのだ」

――それによると近年、月は異常接近を繰り返しているのだという。原因は不明だが、一説によると月を支えている魔法分子が希薄になってきているからではないかと言われているそうだ。

「この説を支持する根拠としては、先日のサルラ山脈に魔法核弾が落とされた直後に、月が地上から、一時後退する現象があったことが挙げられる」

ふと、ランが身震いしたのを面白がって、凍馬が詰ってきた。

「そーいやお前、月が嫌いだったよな?」

「うるっさいな」

否定しようとしたランだったが、

「小さい時、月が落ちてくる夢を見て怖くなったんですって。かァーわいいーッ」

凍馬の監視としてラン達のクラスに侵入していたイオナ(ランの教育係だった彼女は、入学試験でいきなり満点を取ってしまった為、同じく好成績で通過したイェルドと共に、幹部候補生クラスだったのだ)が暴露した。

「ったくテメェ等はっ!」

嘲笑う凍馬とイオナに食って掛かるランと、その様子を見物して笑い合う周りの生徒達を制しつつ、教官は次のようにこの話題を締めくくった。


「しかし、結局のところ、我々は神がかり的なチカラによってこの大地に縛り付けられているに過ぎない。我々が神を忘れ、大いなる自然のチカラを無視し続けてゆけば、いつか本当にこの大地に月が落ちてくるという事が、あるのかも知れないな」


――丁度、終了を継げるチャイムが鳴り響いた。


 2時間目があるのだが、先刻の“月”の話で一気にテンションを下げたランは、次の講義はサボタージュする事にして、校門を飛び越えた。

「(やっぱ、月って不気味だな)」

いつかは本当にこの大地に月が落ちてくる――そう、教官は言っていたが、本当だろうか? 遠い昔に母親は、月が落ちてくる夢を見るのを怖がって眠ろうとしない自分に、“神様が支えて下さっているから大丈夫”などと言って聞かせてくれたが。

「(ったく。落ちるかも知れないんなら、ハナっから宙に浮いてんじゃねえよ!)」

やはり、ランは月を好きになれないのだった。


 「オイオイ、始まったばかりなのに、もうサボりに行くの?」

ふと、ランは、聞き慣れた声に呼び止められた。

「アユミ!」

振り返った先に、大きなデザインハットの青年が立っていた。

(4)

 例によって、アユミはランをカッカディーナの繁華街に誘った。

「月が怖い?」

案の定、彼も不思議そうにランの顔を覗き込んだ。

「アンタは、そう思った事無い?」

アユミなら分かってくれそうな気がしていたのだが、彼の口からは、その期待と逆の言葉が出てきてしまった。

「オレは、月って好きなんだけどな」

射干玉(ぬばたま)の闇に孤高の光を照らす月の姿は、記憶を失い困惑していた自分の前に現れた、“凍馬”の面影と重なる。

 ――彼は、今の自分とツェイユとを、どのような思いで見守っているのだろうか?

「アユミ?」

あまりにも長い沈黙だったので、ランが思わず呼びかけてしまった。

「いや、ゴメン。ちょっと、バイトの夜勤が続いて疲れてて」

アユミは慌てて取り繕った。あながち、“疲れて”いるというのも嘘でもない。眼前のこの少女やツェイユを貶める為のダンジョンを、5日の期間で一気に創り上げたところだ。後は最終調整のみ。そのために必要な情報を、今日、探りに来たのだ。


 「戦争、始まりそうだね」

この話題から、アユミは話を進めていく事にした。

「そうはさせないさ」

ランは断言した。そう、彼女はこのアユミという青年を、不幸な世界大戦に巻き込みたくないという思いでそう宣言してくれているのだ。

「――その為に、アタシ達はビルフォードと共に戦いに行く。近い内に、ね」

「じゃあ、この学校からいなくなるの? いつから?」

要するに、“いつから”サルラにある基地へ乗り込んでくるのか、という事をアユミは聞き出そうとしていた。

「帝国議会の臨時会の会期が終わる前までには乗り込みたいって、ビルフォードが言ってたから……2週間以内かな」

彼女はアユミの期待通りに答えてくれた。このまま行けば、エリオとビルフォードが接触する前に、アユミは4人を始末できそうだ。

「寂しくなるね」

口先が勝手に話を繋いでくれるので、頭の中で決戦の計画を立てる事に専念できた。それだけに、

「アンタの為にも、頑張ってくるからね」

「え?」

想定から大きく外れたランの言葉が、留守がちで空っぽのアユミの心によく響いてきた。思わず、彼はランの目を見つめてしまった。

「だって、アンタみたいな良い奴に、人殺しさせるわけには行かないよ。アタシ等なんかは根が野蛮だから堪えやしないケドさ、」

彼女の中で、“アユミ”とは、明朗快活で優しい一光の民に過ぎないらしい。敵国ペリシアの特殊工作部隊で幾人とも判らない件数の暗殺任務をこなしてきた彼など、想像すらできないだろう。

「アンタには、優しい、イイ奴のままでいて欲しいんだ」

 ポツリポツリとスコールが大地を打ち付けてきた。

 大慌てで雨宿りできそうな場所を探し回るランとは対照的に、アユミは冷静だった。むしろ、丁度このタイミングで雨が降ってくれて良かったと、彼は思う。


――鼓動を鎮める幾拍かの間と、目元を拭うきっかけになってくれるから。


 「あ、」

雨宿りした店の軒先から見える小尖塔を見て、ランが笑った。アユミはランの指差した方を見つめた。

 教会である。

(5)

 雨宿りにやってきた人々で、教会は洗礼盤のところまで混雑していた。彼等はスコールが降り止むまで、新入りのオルガン弾きの演奏にじっと聞き入っていた。

「(イェルド、か)」

アユミは思わず眉をひそめた。先日の偵察中に垣間見た彼のその素顔は、改めて今見るとますます義兄・凍馬の顔に見えてくる。

 イェルドは、取り立てて戦績を挙げた訳ではないにも拘らず、神学校での成績と、養父で元聖戦士長のアル師の徳と、自らが国内外で積み上げた徳でもってヴェラッシェンド帝国聖戦士長(アークビショップ)を任されている男だ。

 魔法属性は闇の民でありながら『光』。100万人に1人の神童として、幼少期からそこそこの有名人でさえあった。ヴェラッシェンド城下のリトリアンナという都市ではバウンティハンターとしても名が通る程武芸に精通している上、神学校を主席で卒業する程の知能の高さを持つ。凡その事は調査済みである。


 イェルドを遠目に見ていた傍らの少女は、「忙しそうだな」と呟いて、すぐ彼の居る教会に背を向けた。戸惑いの表情を返したアユミの腕を強引に掴んだランは、

「雨宿りだけじゃ悪いから」

とか何とか言って喫茶店の中へとアユミを引っ張っていく。

「友達が、あの教会でオルガン弾きをやってるんだ」

そう説明したランは、暫く窓の外へと視線を投げていた。

「……。」

アユミはコーヒーを二つ注文すると、ランの視線が追いかけている教会の小尖塔を、同じように見つめた。

 遠雷の音、強くなった雨の音、コーヒー豆を削る音、来客を告げるベルの音、開かれたドアから漏れて聞こえてくるオルガンの音……それらを一通り聞いて、アユミは切り出した。

「ランちゃんさ、」

不意を打ったらしく、少し慌てた顔をしたランが、ウィンドウから彼へと視線を移す。

「――あのヒトに惚れてるよね」

「へ?」

驚いた顔をしたまま、暫く、ランはアユミに返すべき答えとなる言葉を探していた。

「オレさ、」

頬を掻いたアユミは、ランから視線を逸らしてしまった。ずっと彼女を見ていると、胸が詰まって息苦しくなるのだ。

「ランちゃんの、そーいうトコが羨ましい」

せめて“敵”という立場でさえ無ければ良かった、とアユミは思う――凍馬とも、彼女とも、多分、イェルドとも。

「オレも、きっと、もっと、素直に喜べた筈なのに」

「?」

彼の何をも知らされていないランには、彼が最後にポツリと呟いたこの一言の意味だけが、どうしても分からなかった。


 雨が止んだようだ。

 夏の顔をした日が差し込んできて、カウンターの玻璃の瓶に活けてあったワスレグサの燈の花が、うつむき加減に陰を落とした。

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