第109話 廃太子
その日、僕は王太子屋敷の自室にて目を覚ました。
まだ朝を迎えるまでは暫くの時間がある。僕はベッドに寝たまま天蓋を仰いでいた。
五年間。五年間だ。僕はずっとこの光景を見てきた。何を成すこともなく、ただ無為な時間ばかりを過ごしていた。だがそれも、今日を迎える為の時間だったと思えば何だか愛おしくも感じる。
起き上がって部屋を出る。
僕の部屋の入り口には、本来護衛をしている筈の近衛兵は一人も立っていない。
最初の頃は近衛兵が常に目を光らせていたのだが、僕が不要であると命じてからは誰も付かなくなった。その代わり、彼らは直属兵と共に屋敷内の警備に当たっている。
部屋を出る際、扉と自分に【
まだ冷たい空気の中、無言のままに屋敷の中を歩く。
見慣れた光景だ。廊下も絨毯も天井も、所々に飾り付けられた調度品も。視線を移せば広がる窓からの景色もそうだ。ここに来た当初はこの窓までに高さがあり、小さな僕の背では上手く見えなかったものだ。
実を言えば、ジャスパーとして活動するようになってから身長が結構伸びた。だからこそ、
歩く歩く。力に目覚めて世話になった書庫も。よく紅茶を飲んだテラスも。近衛兵や直属兵が訓練していた広場も。何もかもが頬を緩ませる景色だ。
「王太子殿下」
「ん?」
【
はて、何故ここに居るのだろう?
「どうした、こんな早朝に」
「私は今日は夜の番でしたので」
「ああそうか。そうであったな。隊長でも番をするのであったか」
「はい。隊長と言っても一人の近衛。例外は許されませぬ。それより王太子殿下、このような時間にこのような場所へ、どうなされたので」
「そうだな」
僕はロメロの顔を見た。精悍な顔立ちだ。
こいつは王城や
僕はつい微笑んでしまった。
「私とて、こうしたい時もある」
「左様ですか。ですがまだ冷えまする。それに共を連れずに歩くのはやはり」
「何。お主がおる」
「……は」
僕は微笑んだ。
「お主がおる。近衛隊がおる。エルドレッドがおる。直属軍がおる。何を恐れるか。不埒者から逃げ出すわ。思い出せ。あの戦、敵は最後、お主達に震えて逃げ出しておったぞ」
「殿下……」
僕はロメロの腕を叩いた。こいつは身長が高くて肩が叩きづらいのだ。
「この屋敷に帰って杯を交わした時も言うたがな。よくぞ五年、果たす役目も無い状況下、こんな私を守ってくれた。心から感謝しておるぞ」
「――はっ」
ロメロが跪いた。
「王太子殿下をお守りすること、これ我が使命でありますれば。この先例え“邪鬼”
邪鬼とは、この世界で最悪の災悪とされる負の集合体だ。恨みつらみを宿した魔力に、またそれらが集い集って形を成したものが邪鬼だ。これが現れた時、凡ゆる国が滅ぶと言われている。
遥か過去に実在したと資料が残っているそれを現在の危険度段階に当てはめると7の特殊個体。幾つかの大陸が滅んでもおかしくない本物の化け物だ。
嘘か誠か。唯一その化物を倒した存在が居る。現代では「闘神」の二つ名を持ち、「最強」と呼ばれているその男の名前を『アレ』と言う。
邪鬼含め、『アレ』は数千年前、他大陸に存在していたので詳細な資料はアーレイ王国には存在しない。それを踏まえた上で述べれば、初代アーレイ王すら可愛く見える、古今無双とも称される神話級の男だ。
ロメロは邪鬼という化物を相手にしても逃げぬと言う。「闘神」だけが成し遂げた偉業を成し遂げると言う。僕を守ると言う。
泣いてはならぬ王太子。こいつはそれを破らせようとする最低の不忠者だ。そして最高の忠義者だ。
僕はロメロに一歩近付き、肩に手を置いた。
僕が最後に渡せる、王太子からの
「その
「有り難き御言葉!」
静かな朝の空気の中、歓喜に満ちたロメロの声はよく響いた。
「では、また後程な」
「はっ」
跪いたままのロメロを背に、僕はその場を後にした。
きっとロメロと僕とでは、「後程」という言葉の捉え方が違うだろう。けれど、今はそれで良い。
あの日、ナーヅ王国との戦の最中。三人で戯れた軍議用の天幕の中。そして、帰ってからの宴を思い出す。僕達に湿っぽい別れは似合わないだろう。
流石にこれ以上歩き回っていると使用人達に見つかりそうなので大人しく部屋に戻ることにした。すると、部屋の前では数人のメイドが僕の世話をする為の道具を手に待機しているではないか。
歩き回っている内にどうやら結構な時間が経っていたみたいだ。良かった。居ないと気付かれては騒ぎになっていただろう。
僕は【万視の瞳】で自室内の様子を確認してから、【
ロメロと顔を合わせているので今更と言えば今更なのだが、この場でメイド達にあれこれ部屋に居なかった理由を詮索されるのも煩わしかったから。
室内に転移してベッドに入る。そのまま暫くぼんやり天蓋を眺めていると、メイド達が扉をノックする音が響いた。返事はしない。僕が寝ている前提でのノックだし、メイド達もそれを承知で勝手に入室してくるから。
それから。入って来たメイド達に全ての衣服を脱がされ、全身に【
ここ最近全くされてなかったメイド達によるお世話。流石ミミリラ達とは手際が違う。高貴な存在をお世話する為に磨き上げられた、洗練された動き。芸術的とも言えるその
それに何とも言い難い気持ちを抱えながら、彼女達に身を任せ続けた。
準備が終わると今度は食堂へと向かい、これまた久しく感じる長いテーブルに一人着く。少し待って出された食前酒を飲み、食事を始める。
静かなものだ。王城で食べた食事とは違う静けさ。控える者あれど、誰一人口を開かず音を立てぬ空間。昔はこれが普通だと思っていた。
今はどうしてか。無性に
でも、これが五年の時を過ごした空間なのだと思えば、それもまた愛おしく思えるのだから不思議なものだった。
僕はつい微笑みを浮かべてしまった。それに気付いたのだろう。常に僕の様子を伺っているメイドの一人が僅かに首をかしげたのが分かった。
食事が終わると、僕は訝しがる使用人達に命じてこの屋敷にある最も格の高い儀礼服を用意させた。それ以外の使用人達も訝しがる中、僕は儀礼服を身に纏ったままテラスでのんびりと紅茶を口にしていた。
この景色から飲む紅茶が好きだった。何も成せぬ自分が、優美に紅茶を飲む、そんな時間が好きだった。周囲に優雅を見せる為にあるその時間は、王族の勤めでもあったから。唯一僕が許された、王太子の時間だったから。
そんな状況のままどれだけ時間が経っただろう。その時はやってきた。
「王太子殿下。王城より使いの方が参られました」
「ご苦労。案内せよ」
「は」
迎えに来たゼール。彼は知っているのだろうか。今日で僕が主人で無くなることを。こいつは結局僕のことをどう思っていたんだろうな。
そんな、埓の無いことを思った。
※
使者が待つという応接間。そこに居たのはまさかの弟であるクロイツだった。
僕が姿を見せると、弟は嬉しそうに笑った。
「兄上。久しくさせて頂いております」
弟の挨拶に、僕は苦笑を浮かべてしまった。
そう、僕達は本来久しぶりなのだ。今は側にゼールが居るのでその挨拶は何も間違っていないのだが、いざ言葉にされると何だか可笑しく感じてしまう。
僕は苦笑をそのままに、弟に近づいた。
「うむ。久しいな。健勝か?」
「はい、兄上のお陰で。あれから鍛錬にも身が入ります」
「ならば良きことよ」
近づいた僕と顔を見合わせた弟は、僕の全身を見て力無く笑った。
「よい儀礼服ですね」
「ああ。結局一度も着る機会の無かったものよ。私には無用の長物であったが、何、
僕が笑いながら言うと、弟は表情を歪めた。弟よ、せめて表情を隠すことを覚えねばならんぞ。
だが仕方無いのかも知れない。打ち合わせ済みの話とは言え、弟にとっては尊敬する僕が廃太子されることに心苦しさを覚えるのだろうから。
それにしても使者を弟に任ずるとは。事情は分からないけれど、もしかしたらこれが初の王太子としての務め、とでも父上に言われたかな。
何にせよ、弟にこれ以上そんな顔をさせる訳にはいかない。
僕は一つ頷き、口を開いた。
「さて、使者殿。務めを果たされよ」
「――うむ」
そこには覚悟を決めた弟が居た。
弟は懐から状袋に入った羊皮紙を取り出すと、それを両手に持った。
「国王陛下よりの命である」
「はっ!」
その言葉に跪く。とうとうこの瞬間がやって来た。
「カー=マイン・カラーレス・ジ・ガーランド・ル・カルロ=ジグル・アーレイ。その
尚、王太子としての地位を廃するは住まう屋敷を出で立つ時を以て成されることをここに記す。第四十七代目アーレイ王国国王、カルロ=ジグル・フレイム・ル・カロリッシュ・ル・アーレイ」
「王命、賜りました」
そう言って羊皮紙と状袋を受け取り、記された内容に目を通してから懐に入れた。
立ち上がり、再び顔を見合わせて苦笑する。
「偉く言えたものでも無いが、後をよしなにな」
「はい。兄上の後を汚さぬよう、懸命に励むものであります」
「汚すも何も、初めから何も無いのだがな」
そう言って僕は笑った。弟は苦笑を浮かべている。冗談を言っているな、とでも思っているのだろうけれど、僕は至って真面目に、本気で言っている。
「
「いえ、兄上の出立を確認するまでが使者としての務めですので」
「では少し待ってくれ。他の者の準備もあろうが、それとは別に最後の挨拶はせねばならぬからな。これまで仕えてくれた者達、感謝の念も言えねば魂が腐る」
「勉強になります」
僕はゼールを見た。
その顔は何故か
「ゼール。至急だ。至急屋敷全ての者をエントランスホールに集めよ。近衛兵も直属兵も全てだ」
「……畏まりました」
そう言ってゼールはやや早足に立ち去っていった。
僕はその姿を見送ってから、弟に顔を向けて軽く首をかしげた。
「私はあの者があそこまで動揺している姿をこの五年間で初めて見たぞ」
「それだけ兄上の存在が大きかったのかと」
「おかしいな。注意された覚えしかないのだが。色々教える相手が居なくなって寂しいか?」
「また兄上はそのようなことを」
二人で笑いながらエントランスホールへと歩いて行く。
とても良い気分だった。この屋敷から解放されるからじゃない。きっと今なら、笑顔でここを去れる気がしたから。
もしかしたら父上はこれを見越して弟を送ってくれたのかも知れないな。引導を渡す相手が弟ならば、むしろ気持ち良くもあるのだから。
そうして歩き、既に幾らかの使用人達が集まっているエントランスホール、その階段下の壇で皆を待つ。僕の姿と、横に立つ弟の姿に目を丸くしている者も居る。
それからも次々と屋敷に関係する全ての者達が集まっていき、そこには当然近衛隊の姿も、直属軍の姿もあった。
「王太子殿下、屋敷の者、これにて集まりましたかと」
「うむ。ご苦労」
そう言って、僕はその場全員に届くよう言葉を響かせた。
「皆、よくぞ急の呼び出しに集まってくれた。此度は皆に伝えることがあり、こうして集まって貰った」
そう言って僕は先程弟から受け取ったばかりの状袋から羊皮紙を取り出し、皆に見えるようにした。
「
どよめきの声が広がる。
一瞬でエントランスホール中に声という音が伝播し、ところどころでは悲鳴のような声を上げるメイドすら居る。
近衛隊や直属軍の方に視線を向けると、そこでは正に驚愕といった表情を浮かべるロメロやエルドレッド達が居る。エルドレッドは良い。これからザルードに向かい、領地で共に過ごすのだから。しかし、ロメロとは今日ここで別れとなる。
朝のロメロの姿を思い出す。彼の言葉を思い出す。その決意と
僕は彼らから視線を外し、この場の者達に向けて笑顔を見せた。
「王命は私がこの屋敷を出で立つ瞬間を以て効を発揮するものである。私はこれより後、王城より賜った馬車に乗り、ザルード直属軍と共にザルード領へ向かうこととなる。
無論、ザルード領より来た使用人達も共にだ。王城よりお借りしていた使用人達もまた迎えが来る手筈となっておる故、それに合わせて帰参することとなる」
僕はそこで一息吐いた。
「ここに集まって貰ったのはこれを伝えること。そしてこの五年、私に仕えてくれた
戸惑いの表情を浮かべたままに、その場の全員が跪いた。
僕は頷き両手を広げ、大きく声を張り上げた。
「皆の者、これまで大義であった! このカー=マイン、廃太子を賜ろうとも汝らへの感謝の念、生涯忘れることはないだろう! そして誇れ! 汝らは確かに、成すを成せぬ王太子を支え続けた優れた者達である! この先、汝らであれば凡ゆる時と場所を乗り越えられると信じておる! ――重ねて言おう! この場の
――はて、何故だろう。僕の言葉が終わるに合わせて、嗚咽を漏らす者達が現れた。近衛隊、直属軍なら分からないでも無い。彼らとは僅かなりとの付き合いが生まれているから。
でも、使用人達の中にすら落涙する者が居るのはどうしてだろうか。彼ら、彼女らは僕が所為で、無能王太子の世話役だなんて役目を与えられてしまったのだから。
まぁ良いか。今となってはもう、使用人達が何を思い、僕の世話をしていたかなんて分からないのだから。
僕は弟と視線を交わらせ、頷き合い次に行動を移した。
「マルリードとタナルよ、この後すぐに貴賓用第一応接間へ来い。ゼール。そちらは任せたぞ」
「はっ」
『畏まりました』
それだけを言って、僕は百を越える視線を背に浴びながら、弟を連れてその場を立ち去った。
その
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます