番外編 良い夫婦の日 1
◆アリス・ノア夫妻
「キリ、いい夫婦って……何だろうね」
ノアはお玉と片手鍋を握りしめて未だ森から帰って来ないアリスを領の入口で待っていた。もう何度森に向かって叫んだだろう。もう何度お玉で鍋を叩いただろう。
「それは夫婦によると思いますが」
「うん、そうだね。そうだよ。僕は幸せだよ。幸せなんだけど理想はね! 夕食が出来上がってテーブルに置いたら、わ~い! 兄さまありがと~! って言ってすぐ食べてほしいんだよっ!」
「それはお母さんの幸せでは」
「いいや、旦那も喜ぶよ。可愛い奥さんが僕の手料理をワクワクしながら待ってる所を想像してみなよ。ちょっと感動で震えるでしょ?」
思わず掴みかかりそうになったノアを避けてキリは少しだけ首を傾げて言った。
「すみません、それはうちでは普通の出来事です」
何せ料理が出来ないミアだ。プロポーズの時に約束した通り、料理全般はキリが担当している。
それを聞いてノアがキリをキッと睨みつけてフンとそっぽを向く。
「このリア充が! もう怒った! 今日という今日はもう許さないっ!」
ノアは握りしめていたお玉と片手鍋をキリに渡して領地の柵を開けたその時である。前方から物凄い勢いであちこちに葉っぱをつけたアリスが走ってくるのが見えた。
「兄さま~~! キリ~~!」
「アリス! 何回呼んだと思ってるの! もう鍋ボコボコだよ!」
「ごめんなさ~い! でもね! 見て~~! ほら、兄さまの大好きな栗だよぉ~!」
そう言ってアリスは勢いよくノアに飛びついた。背中のカゴには栗がたっぷり入っている。栗はノアの大好物だ。本当は栗ごはんを作ってやりたいが、生憎この世界には米がない。というよりも、稲がまだ見つからないのだ。
思い切り飛びついてきたアリスをどうにか抱きとめたノアは、アリスの背中のカゴを覗き込んでポツリと言った。
「栗?」
「うん! 兄さま大好きでしょ? キリもちょっと持って帰る?」
「ええ。ありがとうございます、いただきます。ですがお嬢様が扱った方が美味しい物が出来上がりそうなので、出来上がった物をください」
「しょうがないなぁ! いいよ!」
栗の処理が色々面倒なことを知っているキリが言うと、お花畑アリスは笑顔で親指を立てた。少しおだてておけば単純なアリスはすぐに調子に乗って了承してくれるから扱いが大変楽だ。
「で、これ取ってて遅くなったの?」
「うん。父さまにも持って行ってあげようと思ったの。それにね、キャロライン様にも贈ろうと思って。でもね、一番は兄さまにモンブラン作ってあげたかったんだ!」
「僕にモンブラン?」
「うん! この間仕事しながら言ってたじゃん。『秋だね。秋と言えばモンブランだね。ケーキの中で一番好きだったよ』って」
アリスはそう言って半月ほど前のノアのモノマネをして見せた。するとそれを聞いた途端、ノアの顔がパァっと輝く。
「そんな前に言った事よく覚えてたね⁉」
「覚えてるよぅ。今まで一回も作った事無かったけど、今日森に入ったら栗が一杯出来ててね、取るのに夢中になっちゃった。ごめんなさい」
ノアに抱き着いたまま謝るアリスにノアはニコッと笑う。
「そうだったんだ! 言ってくれたら僕も手伝ったのに! ありがとう、アリス」
「ノア様、今日という今日はもう許さないのでは?」
アリスを力いっぱい抱きしめて頬ずりするノアにキリが言うと、ノアはニコニコしながら言い切る。
「え? 僕そんな事言った? さ、アリス! ご飯できてるよ。温め直すから食べよ」
「うん! 今日のご飯は何かなぁ~? お肉かなぁ~? お肉だといいなぁ~! 今日は胃がお肉入れてって言ってる気がするなぁ!」
「……ノア様、今日は野菜炒めでしたよね?」
肉一択のアリスの胃袋事情を聞いてキリがコソコソとノアに言うと、ノアはやっぱり満面の笑みで言う。
「今から肉焼くよ! さ、ご飯ご飯! その前に君はお風呂ね!」
「はぁい!」
手を繋いでルンルンで屋敷に戻っていく二人の背中を見つめながらキリはポツリと言う。
「いい夫婦……?」
◆キリ・ミア
「と、言うことがあったんですよ」
「それは大変でしたね。今日はいつもよりもお鍋の音がしていたので心配していましたが、アリス様が無事で良かったです!」
言いながらミアはキリが作ったタンシチューを一口食べて目を輝かせた。
「キ、キリさん! これ、お肉がホロホロです!」
「美味しいですか?」
「はい! これ、お店で出るレベルですよ!」
満面の笑みでそんな事を言うミアを見て、キリは口の端だけを上げて微笑んだ。
「そこまで褒めてもらえると二日前から仕込んだ甲斐がありました。ミアさんはやはり豚肉よりも牛肉の方が好きなようなので」
「……やはりって何です?」
「他意はありません。ミアさんが想像しているような事は何も考えてませんよ?」
「嘘ばっかり! 絶対思ってましたよね⁉ もう知りません!」
プイとそっぽを向きながらもシチューのお皿はしっかり握っているミアを見てキリは笑みを噛み殺す。
「ミアさん、俺は前にも言いましたが生き物の中で豚が一番好きです。つまりそれはあなたが一番好きだと言うことです」
「っ!!!!」
突然のキリの言葉にミアの感情はぐちゃぐちゃである。怒っていたのにそんな事を真顔で言われたら怒りよりも恥ずかしさが勝ってしまう。
顔を真っ赤にしたミアを見てキリは満足げに笑ってシチューを食べ始めた。
「ところでミアさん、明日お嬢様が栗を使った何かを作るそうなので、明日はあちらで夕食にしましょうか」
「栗料理ですか? 私にはパンぐらいしか思いつかないんですけど、アリス様が作るものなら安心です! 楽しみですね。私も栗、大好きですから」
「そうなのですか?」
「はい! 栗の入ったパンが大好きなんです。ホクホクでほんのり甘くて美味しいですよね」
そう言って頬を染めたミアを見てキリが何かを考え込んでいたかと思うと、徐に席を立って手帳と鉛筆を手にして戻ってきた。
「どうしたんです? 急に」
「書き留めておこうと思いまして。あなたの事では何一つ失敗したくないので」
「そ、そんな事わざわざ書き留めなくても……それに、その手帳いつものと違う奴ですか?」
「はい。これはミアさん専用の手帳です。ちなみにもう一冊ありますが、それはお嬢様への愚痴手帳と化しています」
幼い頃からアリスの生態を書き留めているうちにいつの間にか手帳が愚痴一色になってしまっていたので、最近はその手帳を愚痴手帳と名付けたキリだ。
「そ、そんなのまで書いてるんですか?」
「はい。いつかお嬢様に全冊見せてやろうと思っています」
「……地獄ですね」
想像したミアは青ざめたが、キリは小さく首を振る。
「あの人を舐めてはいけません。恐らくこれを見ても、キリはこんなにも私をよく見てくれている! キリのデレだ! とか何とか言ってノア様と喜ぶに決まってます」
うんざりするほど何でもポジティブに解釈する。それがアリスとノアだ。そしてそんな二人にキリは随分救われていたのもまた事実である。そんなキリを見てミアが笑った。
「確かにあのお二人なら言いそうですね。特にノア様なんて、僕のは無いの? なんて言い出しそうです」
「……言えてますね。そしてその後事あるごとにグチグチ言われそうです。分かりました。明日からノア様の分も作ります」
ノアに対しては愚痴など無いが、疑問に思うことは多々あるキリだ。そもそも何故あのアリスとずっと一緒に居て平静(?)で居られるのかが一番謎である。
「でも、お二人の手帳と一緒に私のがあるのも何だか嬉しいです。私のは愚痴ではないんですか?」
「そんな訳ありません。あなたへの手帳もいつかちゃんとお見せするので、その時まで秘密です」
そう言って目を細めたキリを見てミアは頬を染めて笑ったが、キリの秘密は大抵恥ずか死しそうなほど甘ったるいので、今から覚悟しておこうとミアは心に誓った。
◆リアン・ライラ夫妻
「栗ー? いや、うちはいいよ。だって面倒でしょ? え? 出来上がった物送ってくれんの? ああ、それなら貰う。ありがと。それよりちょっと変態に電話代わってくんない? いや無理でしょ? 仕事の話だから。うん、そう。いやだから早く代わってってば! しつこい!」
リアンは執務室で電話越しにそれだけ言って待っていた。しばらくしてノアが電話に出たかと思うと、やっぱり栗の話から始まる。そこへライラがお茶を持ってやってきた。
リアンは手元にあった紙に鉛筆で『ありがと』と書いてライラに見せると、ライラはにっこり笑って部屋を出ていく。
その後姿を見つめながらリアンは小さく笑った。
寝室には生まれたばかりの赤ん坊が眠っている。長女のジャスミンだ。今日は少しも泣き声が聞こえなかったので、すぐに寝付いてくれたのだろう。
「聞いてる聞いてる。で、ちょっと化粧水について聞きたいんだけど、あれってさ――」
その後ノアと30分ほど電話をして電話を切って寝室に行くと、ライラはまだ寝室には居ない。
「もう、まだやってんのかな。こんな時間なのに」
リアンは寝室の隣にあるライラの仕事部屋をノックすると、中からライラの声が聞こえてきた。
「ライラ、もうそろそろ寝な。また三時間後には起きなきゃなんだから」
「うん、もうちょっとだけ。ねぇリー君、ここの表現なんだけどこっちの方がいいと思う?」
そう言って見せられたのは漫画に使う効果線の一覧だ。ライラは今、漫画で見る歴史の3巻を描いている。
「こっちかな。今どこらへん描いてるの?」
「アリス達とフォルスに行った時の事よ。描いてて懐かしくなっちゃって」
そう言ってクスクス笑うライラに、リアンも当時を思い出して笑いを漏らした。
「大変だったよね。頼りの変態も居ないしお姫様も居ないし、キリと僕だけであいつを制御するなんて出来っこないって思ってたっけ」
「でも結果的にはフォルスの学園を守ったんだものね。あの時ベルが意地悪されて泣き出して」
「そうそう。あいつが勝手にゴーしちゃってさ。そしたら覆面が現れて」
「あの時のリー君凄く格好良かったのよね」
何かを思い出すかのようにリアンを見上げてくるライラを見て、リアンは顔を赤らめてそっぽを向く。
「一回しか撃てなかったけどね。あー、なんか懐かしい」
「うん。でも漫画を描いてるといつも思うの。もしもアリスに出会ってなかったら、私はどうなってたんだろうって」
何せライラの役どころはキャロラインと同じ悪役令嬢だったのだ。もしもアリスと友達にならなければ、それこそダニエルと結婚していたか、それ以外の未来だったのかもしれないと思うと怖くなる。
「変わんないよ。ライラは僕と結婚してたよ。あいつに会わなくても」
「そうかしら?」
「そうだよ!」
そう言ってリアンはふとアリスがあの時に語ったライラの未来の話を思い出した。
アリス曰く、ダニエルと結婚しなかったライラの未来はどこかの好色親父に嫁ぐ未来だと言っていた。そんな事、考えるだけでもゾッとする。
何故か突然怒り出したリアンを見て、ライラは嬉しそうに微笑んだ。
「そうよね。きっと私はダニエルにフラれてリー君の所に嫁いでたわよね」
「当たり前でしょ。もし違ってても僕は絶対に無理やりストーリー変えてたよ」
「うん。リー君ならきっとそうしてくれてたと思う」
ライラは立ち上がってリアンに抱きつくと、頬を胸に擦り寄せる。そんなライラをリアンは強く抱きしめてくれた。
一体アリスに何を聞かされたのかは分からないが、こんなリアンは珍しい。
「リー君、今日はリー君の部屋で寝てもいい?」
「寝室じゃなくて?」
寝室とは別にリアンもライラも自分の部屋を持っている。仕事で遅くなった時は互いにそこで寝るようにしているのだ。でないとジャスミンが少しの物音で起きてしまう。なかなかに繊細な子なのだ。
リアンがライラを見下ろすと、ライラはイタズラに笑ってリアンを見上げてくる。
「うん。実はね、今日は乳母さんにジャスミンを預けたの。どうしてもここだけ描きたかったから。でも、やっぱり今日はもう寝るわ」
「寝られるかな?」
「無理かも?」
そう言って二人は笑い合いながら仕事部屋を後にした。
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