第四百三十九話 ダムの決壊

 夕方、アリスはバセット家に戻ると一目散に厨房に駆け込み、料理中のハンナの背中に抱き着いた。


「あらら、お嬢、いつ帰ってきたんだい?」

「今だよ」


 ハンナの背中に額を擦りつけて言うアリスに、ハンナは何か感じ取ったのか火を止めて向きを変え、正面からアリスを抱きしめて背中を撫でてくれる。


「お嬢、今日は久しぶりにお風呂に一緒に入って一緒に寝ようか」


 ハンナが優しく言うと、アリスはパッと顔を上げてコクリと頷く。


 どうやらアリスはキャロラインの所で赤ちゃんを見てきた事で、何かを感じてしまったのだろう。そう推測したハンナは、その後も背中にアリスを貼り付けたまま料理を再開した。


「お嬢はいつまで経っても甘えただねぇ。ほんとに、しょうのない娘だ」

「えへへ」


 アリスにとって母親はハンナだ。だからこんな風にハンナに言われると胸の辺りが暖かくなる。でも、それと同時に切なくもなる。それが何故かはアリスには分からないままだったが、アリス自身はその正体を分かりたいとは思わなかった。


 何となく、それは知ってはいけないような気がしたから。

 


 長期休暇が終わり、アリス達が学園に戻っていつものように放課後、ルイスの部屋に集まっても、そこにはキャロラインとミアは居なかった。


 そう、キャロラインはテオとの別れが惜しすぎてギリギリまで家に居る事を決めたのである。


「もうじきどのみち俺達は卒業なのにね」


 カインがそう言って笑うと、ルイスは少しだけ寂しそうに笑って言う。


「分かってはいても離れがたいのだろうな。キャロは十分すぎる程普段頑張っているんだ。たまにはいいだろう。それに、何かあったらスマホもあるし、妖精手帳もあるからな」

「お姫様からさ、毎日同じような写真が届くんだよ。いや、分かるよ? 嬉しいのも可愛いのも分かるんだけどね? 写真撮るの……下手過ぎない? ほとんどブレてんだけど」


 そう言ってリアンはキャロラインから送られてくる写真を見ながら言った。どれもブレていたり半目だったり酷い有様だ。


「ミアさんの方が写真は上手いですね。一応、全部目は開いてます」


 キリが写真を見せると、皆がそれを覗き込んできて笑う。


「いや、開いてるけど、近すぎでしょ! 全体像分かんないっすよ!」

「まぁまぁ、二人とも嬉しくて仕方ないんだよ。気持ちは分かる。一応言っておくね。僕も子供が出来たら、多分毎日皆に写真送りつけると思うから」


 シレっとノアの言った言葉に、皆の視線がアリスに向く。けれど、当のアリスはお菓子に夢中である。


「まぁ、無事そうなる事を祈っておいてあげる」


 期待を込めた眼差しでチラチラとアリスを見るノアが不憫になってリアンが言うと、ノアはいつもの笑顔で言った。


「……この話止めよっか!」

「あ、逃げた」

「逃がしてやれ、カイン。ノアの片思い歴は尋常じゃないんだから」

「そうです。それ以上突っ込むのは流石に可哀相ですよ」


 アランの言葉にとうとうノアはキッと皆を睨んでそっぽを向いた。そこに、ルイスに一本の電話が入った。相手はキャロラインだ。


「どうした? 何かあったのか? キャロ」

『ルイス! 大変、オルゾの堤防の一部が決壊したって連絡が入ったの!』

「なに⁉ おい! オルゾの堤防の一部が決壊したらしい! すぐに向かうぞ! キャロはどうする?」

『私は既に用意してる最中よ! 向こうで落ち合いましょう!』

「分かった。俺達もすぐ向かう」


 ルイスはそう言って電話を切ると、皆の顔を見渡して無言で頷き合う。あまり派手に妖精手帳は使いたくはないが、そんな事は言っていられない。


 ルイスはすぐさま校長に仲間たちの外出許可を貰って学園を飛び出し、馬車の中から妖精手帳を使って皆でオルゾのバーリーへ向かう。


バーリーに到着すると、そこには既にオルゾのゴロツキ三人衆とキャロラインが居た。


「キャロ!」

「ルイス! 皆も!」


 ルイスが声を上げると、キャロラインはハッとして顔を上げてホッとしたように微笑む。


「どこが決壊したんだ?」


 ルイスが声をかけると、バーリーのキースが早口で話し出した。


「バーリーからマヤーレへ向けて川が一部カーブしている場所があるのですが、そこの一部が決壊してしまったんです!」

「原因は?」


 ノアが聞くと、キースが申し訳なさそうに頭を下げた。そんなキースを見てウルトとスニークがまるでキースを庇う様に慰めるようにキースの肩に手を置く。


「私が悪いんです。放水している時に目を離したばっかりに……」

「お前は悪くないだろ! 貯水池に落ちた帽子を拾ってやろうとしただけじゃないか!」

「そうだ。誰のせいでもないんだ!」


 ウルトとスニークに言われてキースは涙目で顔を上げて事情を説明してくれた。


 どうやらダムの放水の観光に来ていた人の帽子が風で飛ばされ、それを拾いに貯水池に入って取っていたら、規定量を超えた放水をしてしまい、カーブを水が曲がり切れずに決壊したらしい。運の悪い事に雪解け水も混ざって水量が増していたがために起きた悲劇である。


 キースの話を聞き終えて、ルイス以外の仲間たちは決壊した場所に向かった。ここはキャロラインに任せておくに限る。


「キャロライン、この場は任せたよ」


 それを聞いてキャロラインは深く頷いた。そして落ち込むキースの肩にそっと手を添える。


「実は、私がここに到着した時、一人のご婦人がいらっしゃって、私のせいだ、と泣いておられました。ご年配の老夫婦で、このダムの放水を見たいとご主人に無理を言って連れてきてもらったそうなんです。そしてその時被っていた帽子が、息子さんが初めてのお給料で買ってくれた帽子なんだそうですわ。だから余計に思い入れが深かった。帽子が風に飛ばされて奥様は泣き叫んだそうですね? 旦那さんは止めたけれど、奥様は貯水池に入ろうとした……それを、キース様が代わりに入った。そういう事ですか?」

「……はい」


 静かなキャロラインの口調に、キースは泣きそうな顔で頷いた。自分にも子供が居るから分かる。


 子供からの些細なプレゼントはずっと取っておきたい。ましてや初任給で買ってくれた帽子だ。自分の生活もあるのに、それでもそこから捻出したのかと思うと涙が出てしまう。


 けれど、それは言い訳に過ぎない。結果、ダムは決壊して大事な領民達の生活を脅かしたのだ。キースは深く頭を下げた。領民達は、皆そんなキースを見ていた。


「誰もあなたを責めません。顔を上げてください、キース様。たかが帽子。ですが、その帽子一つにも大切な思い出がある。あなたはその大事な思い出を守れたのです。それは胸を張るべき事です。もしもあなたがご婦人の代わりに取りに行かなければ、彼女はきっと自ら取りに行ったでしょう。そして深刻な事故が起きていた可能性もあるのです。幸いな事に決壊した部分には家も無かった。畑が一つ潰れたそうですが、すぐに領民達と妖精達が塞いだそうですね。なので、あなたがここで言うべきは、謝る事では無くて、お礼ではないでしょうか。それに、ここに住んで居るのはあなただけではありません。確かにあなたが治めているかもしれませんが、何か起きた時は皆と共に手を取りあい、助け合っていくのが私は正解だと思います。このダムの建設が成功した時の事を思い出してください。これは、皆で作り上げた物なのだと言う事を」

「……キャロライン様……」


 とうとう涙を零したキースの肩をキャロラインがそっと撫でて微笑んだ。それを見ていた領民達が口々に叫ぶ。

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