番外編 ハンナの過去とホープキンスの現在
※このお話はアリス達がお城に遊びに行っている時のお話です。
ハンナがバセット家にやってきたのは、アリスが二歳の時だった。
決してハンナはその事を語りたがらなかったが、彼女が未だにあるメイドの事を心配しているのを、キリは知っている。
ハンナ・メイサ―はバセット家唯一のメイドで、御年五十歳の働き者である。元々は子爵家出身だった彼女は、幸運は待っていてもやって来ない、を信条に単身王都に出稼ぎにやってきた。落ちぶれた子爵家だったので、いい縁談は見込めない事が分かっていたのだ。
体格が女性にしては良かったので、余計に男性から声をかけられる機会が無かったとも言える。そんなハンナはバイタリティは人一倍あったし根性もあった。草の根を分けてでも生き残ってやる、という強い意志もあったので(ここらへんがアリスにも影響しているのかもしれない)、王都で見つけたメイド募集のチラシを見るなり、すぐさまそれに応募した。
かくして、ハンナは無事に王宮で努める事になる。大工として。
最初はメイド志望だったのだが、彼女に合うサイズの制服が無いという理由で断られた。しかしそんな事でおめおめと帰るハンナではない。
『何でもいいんで! どんな仕事でもいいんで!』
そう押し切って粘る事一週間。寒い冬の日、毎日門の前に居座り続ける少女を哀れに思ったのか、王宮の家令であるホープキンスが仕方なく彼女に大工の仕事を与えたのだった。
ハンナはとても手先が器用だった。その上上背もあり、力もある。男に混じって長い髪をたくし上げて城を修繕する彼女は、場内では最初受け入れられなかった。
しかし、いつしかそれが見慣れた光景になった頃、彼女は王妃の部屋の修繕を依頼された。男性を部屋に入れるのは嫌だ。それならハンナがいい。王妃のその一言でハンナは王妃の部屋の専属大工になった。
とは言え、そうしょっちゅう王妃の部屋も壊れない。だから普段はハンナは今まで通り城の修繕をこなしていたが、その合間に王妃に頼まれた棚の修繕や、扉に見事な装飾をしたりしているうちに、気づけばハンナを見るみんなの目が変わっていた。
『それ、どうやってんの? どうやってそんな綺麗に彫れるの?』
そんな質問が来るたびにハンナは笑って答えた。
『実家が貧しいから、内職をして生計を立てていたの。だからこれは、慣れね!』
ここらへんもアリスに強く影響してしまったのだろう、とハンナは後悔している訳だが、そんなハンナの施した調度品の装飾は、あっという間に話題になった。
ある日、王妃が自室でお茶会を開いた時の事、ある令嬢(キャロラインの母である)が、部屋に置いてある箪笥の装飾に目を留めた。
『あの箪笥の装飾は素晴らしいですわね! どこの細工ですの?』
『あれは私の専属の――』
この時、王妃は迷った。私専属の、と言ってしまった。専属の大工を雇っているなどと思われたら、それこそ贅沢だと言われかねない。
『私の専属のメイドが彫ってくれたの。とても器用なのよ!』
この時から、ハンナは王妃専属メイドとなったのである。
元来器用な質のハンナは、メイド業もしっかりこなした。働き者で部屋の修繕もしてくれて、いつも面白い話を聞かせてくれるハンナ。王妃にとって、ハンナは唯一無二の存在となっていった。そんなハンナの働きぶりは城の中でも話題になり、困ったことがあればとりあえずハンナを頼れ、と噂される程の立場になった頃、ハンナは大工から異例のメイド長に大出世をする。
メイド長になってもハンナの働きぶりは少しも衰えなかった。部下からの信頼も厚く、君主からの信頼も厚かったハンナ。
そんな時、一人のメイドの妊娠が発覚した。普通ならば喜ぶところだ。ところが、彼女の場合は喜ぶべき事ではなかった。何故なら、相手というのが、当時の騎士団に居た既婚者だったからだ。
ハンナは妊娠と浮気の恐怖と焦りで取り乱す彼女をなだめ、言い分を聞いた。彼女は相手が既婚者だった事を知らないままに付き合いを始め、子供を宿した事が後から分かった。これに怒り狂ったハンナは、その騎士を棒で打ち付け、利き腕を骨折させてしまったのだ。
こうなってはもう二度と騎士としては役に立たない。王によってクビにされた騎士は、彼女に何の謝罪もないまま、騎士団を去った。
彼女は、ハンナが手塩にかけて育てた、大事な大事な部下だったのだ。そうして――。
『王様、王妃様、怒りに任せて私はやり過ぎてしまいました。処刑をされても文句は言えません。ですが、どうか彼女には寛大な処分をお願いします。彼女のお腹には、赤子が居るのです。どうか、赤子にもこの世を見せてやってください』
涙の一つも零さずに頭を下げたハンナに、王妃が涙を零した。ハンナが妊娠したメイドを可愛がっていた事は知っていたからだ。そして彼女が既婚者だと知らなかった事も後から聞いた。
悪いのは彼女じゃない。ましてやハンナでもない。
けれど、当事者を処罰しなければこの騒動は収まらない。王妃は涙を流しながら言った。
『王、私が彼女達の処分を決めても?』
王もハンナの働きぶりを知っていた。彼女の腕前は大工たちも認める程だった。そして、何よりも彼女は城の者に慕われていた。
『ああ、もちろんだ。私はお前の処分に従おう』
『ありがとうございます。ではハンナ。あなたは今日を持って王宮での務めを解任します。どこにでも行きなさい。そして、メル。あなたは、暖かくて空気の良い、善良な市民が暮らす街に流します。場所は決まり次第通達します』
王妃の処遇を聞いて、初めてハンナは涙を流した。頭を床にこすり付け、しばらく上げる事が出来なかった。隣ではメルが嗚咽を零して謝罪と謝礼を繰り返している。
ハンナの最後の仕事は、王妃にお茶とお菓子を出す事だった。これが終われば、ハンナはもうこの王宮を去る。
いつものように扉をノックすると、中から鈴のような声が聞こえてきた。中に入ると、王妃はベッドに突っ伏して泣いている。
『ドレスが皺になりますよ』
優しく声をかけたハンナに、王妃は縋りついて大声を上げて子供のように泣き出した。
『どうして! どうしてあんな事したの⁉ メルを可愛がっていたのは分かってるわ! でも、あんなことしたらどうなるかぐらい、あなたには分かっていたはずよ!』
ハンナは子供のように縋りついてくる王妃の髪をあやすように撫でながら言った。
『メルでなくても、私は同じことをしていました。私の実家はそれはそれは貧しくて、村自体も貧しかったのです。だから、子供の間引きもありました。生まれないように冷たい冬の湖に体を沈める者もいたのです。ですが王妃さま、子供に何の罪がありましょう? 愛されて出来たはずの子達なのです。それなのに、生まれる前に、生まれてすぐに命を落とすなど、これほど悔しい事はありません。だから、私はきっと、誰であっても同じことをしていました。私はとても勝手な事をしました。信頼を裏切りました。でも、王妃さまお願いです。少しでも私に温情をかけてくださるのなら、そういった子達が生まれないような国を作ってくださいませ。それから、ハンナはどこに居ても、何をしてても、王妃さまの専属メイドで専属大工です。呼ばれたら、すぐに王妃さまにお会いしに来ますよ』
そう言ってハンナは不敬ではあるが、妹や弟にするようなキスを王妃の頭頂部に落とした。
『……約束するわ。必ず、必ずそういう国を作っていく……メルにも、多めに退職金を渡すわ』
『ありがとうございます。感謝します』
『どこか充てはあるの? 私が探しましょうか?』
涙を拭って真っ赤な目でそんな事を言う王妃に、ハンナは首を振った。
『いいえ、実は既に手配済みです。ビックリしますよ、王妃さま。私が次に行くところは、私の実家と変わらない程の貧乏男爵の家なんです。男の子と女の子が一人ずついるんですが、母親が子供達を置いて出て行ってしまったんですって! 何よりも驚きなのが、メイドは私しか居ないそうなんです! ビックリするでしょう?』
『まあ! そこへ行くの? 嫌じゃない?』
不安気な王妃にハンナはいつものように豪快に笑った。
『嫌なもんですか! むしろやり甲斐がありますよ!』
そうしてハンナは城中の人達に見送られながら、王宮を後にした。
『お疲れ様でした、ハンナ』
『ホープキンスさん。バセット家への手配、ありがとうございました。何から何まで、本当にありがとうございます』
頭を下げたハンナを見て、ホープキンスは初めて見るような笑顔で言った。
『あなたがここへ来た時の事を、今でもたまに思い出しますよ。寒い中、一週間も城壁の前で過ごして……凍死しやしないかと毎日ヒヤヒヤしていました』
『はは、ごめんなさい』
『いいえ。ですが、働いているあなたを見て、私も頑張ろうと思えていたのです。どこへ行っても、私はあなたを応援していますよ。そしていつか――』
ホープキンスはそこで話すのを止めた。にっこり笑って、やってきた馬車に荷物を積み始める。
『どうか、お元気で』
『ホープキンスさんも。早く結婚しないと駄目ですよ』
『はは! 耳が痛いですね』
最後はお互いにいつものように軽口を言って別れた。
あれから十二年。ハンナは今日もバセット家で家事をしている。ノアに続きアリスも学園に入った事で、毎日叫ぶことは無くなった。
『嫌なもんですか! むしろやり甲斐がありますよ!』
そう言ったのは嘘ではない。ただ、誤算はあった。アリスがドン引きする程お転婆だった事だ。ハンナがドン引きするのだから、相当である。だが、屋敷から居なくなってしまうと、不思議な事に寂しく思う。
ハンナは干したての洗濯物を見上げて腰と腕を伸ばした。
「おーいハンナー! いつもの手紙届いてるぞー!」
屋敷の中からロイの声がして、ハンナは急いで屋敷に戻った。
ひと月ほど前、キリから手紙が来たのだ。アンシーの居場所が分かった、と。それを聞いてハンナはその住所にすぐに手紙を送った。そろそろ返信が来てもいい頃合いだ。
「貸してちょうだい!」
「おい! ちょ、いえてぇ!」
ロイを押しのけて自分宛の手紙をより分けると、自室に戻った。
そこは以前、アリス達の母が使っていた部屋だ。母親が出て行き収拾がつかなくなったアーサーが、やってきたハンナに部屋を用意する事をすっかり忘れていてあてがわれたのがこの部屋である。
最初はもちろん遠慮したが、アーサーはやつれた顔で片足にノア、もう片足にキリをくっつけ、背中にアリスを貼りつけながら笑った。
『大丈夫、うちはそういうのぜんっぜん気にしないから!』
疲れ切った顔をしたアーサーとこちらを伺うようなノアと不安そうなキリ。そして歯を見せて笑うアリスを見て、ハンナが思わず声を出して笑ってしまったのはいい思い出だ。
手紙は全部で4通あった。アリスとノア、そして――メル。
ハンナは急いで手紙の封を切ると、手紙を読み始めたが、最後まで読む前に涙が零れてしまった。メルの妊娠を聞いた時には流せなかった、おめでとうの涙だ。
メルは、あの後南の地方に住まいを移し、しばらくは近所の人達に助けられながらがむしゃらに暮らしていたが、そこで知り合った御者の者と恋仲になり、あの時の子も含めて、今は家族四人で幸せに暮らしているらしい。旦那は大層いい人のようで、自分の子ではない子も、まるで自分の子のように扱ってくれているようだ。
最後には旦那が描いたという二人の子供の似顔絵までついていたのだが……まあ、下手である。それでもきっと、ハンナへの手紙をメルが書くと知って、ハンナが安心出来るように、自己紹介代わりに描いてくれたのだろうと思うと、胸に熱いものがこみ上げて来る。
(良かった……王妃さまは、メルの為に本当にいい所を探してくれたんだね……)
皆の想いにハンナは涙を零しながらふと、もう一通の手紙に目をやった。てっきりキリからだと思っていたが、どうやら違うようだ。裏を返して名前を確認したハンナは、驚きすぎて息を飲んだ。
差出人は、あのホープキンスだったのだ。ハンナは恐る恐る手紙を開けた。今まで十二年間一通の手紙も寄越さなかったホープキンスがハンナに宛ててくる手紙など、怖くて仕方ない。
(まさか! 王妃さまに何かあったとか⁉)
ハンナはアリス達がまさかルイス王子と懇意にしている事は知らない。だからこの手紙の内容に大層驚いた。
ホープキンスからの手紙には、初めて見たバセット家の面々の感想と、アリスを見ているとハンナを思い出す、という内容だった。ホープキンスは今まで王妃にハンナの行き先を聞かれてもずっと黙っていたが、これを機会に王妃にハンナの行き先を告げると、やはりアリスを見てハンナみたいだと喜んでいたらしい。はっきり言って心外である。あれと一緒にしてくれるな、と思いながらも先を読み進めたハンナは、最後の一文に顔を赤らめて慌てて手紙を閉じた。
「な、何を馬鹿な事……」
閉じた手紙を開いてもう一度最後の部分を読み返して、ハンナはやはり手紙を閉じる。
年甲斐もなくドキドキする胸を押さえつつ、ハンナはそっとペンを取った。
今しがた閉じたホープキンスからの手紙を頭の中で何度も反芻する。
『そろそろ私もこの仕事を引退しようと思うのですが、その時は、私がバセット領に行って、君と暮らすのを許してくれませんか? ついでに、残りの人生を君の隣で過ごす事も』
それからしばらくして、ホープキンスはハンナからの手紙を握りしめて王に涙目で自分をクビにしてくれ、と懇願して王と王妃を困らせたのだった――。
ホープキンスの現在
最後まで聞き終えたアリスは、そっか、と呟いただけだった。ハンナの身に起こった事は辛かっただろうと思うし、メイドも可哀相だと思う。
でも、ずっとハンナはアリスの母親代わりだった。だからとても複雑な気持ちである。もしもそのメイドが居なかったら、ホープキンスがハンナをバセット家を紹介しなければ、アリスはハンナと出会う事さえなかったのかもしれない。
「ハンナは今、幸せかなぁ?」
ポツリと呟いた言葉にノアが笑い、キリが呆れた。
「今のハンナを見て幸せそうじゃないって言う人が居たら見てみたいよ」
「お嬢様の愚痴は毎日言ってましたけどね。私が無い物は自分で作るんだ、なんて教えなきゃ、あんなお転婆にはならなかったのかねぇ、と」
毎日アリスを怒鳴り散らし、追いかけまわし、手伝いをさせていたハンナを思い出してキリが目を細める。
「ああ、あと、娘が居たらこんな感じなのかね、とも言ってました。王妃さまの事は妹のように可愛がっていたみたいですが、お嬢様の事は娘みたいに思っているようですよ」
「アリスが二歳の時だったからね、ハンナが来たのは。僕も覚えてるよ。しばらくアリスはハンナと寝てたし、お風呂は未だにずっと一緒だもんね」
「うん」
「素敵な方なのね、きっと。アリスは確かに破天荒だし突拍子もない事をしょっちゅうするけど、心根は真っすぐで曲がった事が嫌いでとても素直な所は愛されるべき所だわ。育ててくれたのが、ハンナさんだからこそ、だったのでしょうね」
キャロラインの言葉にアリスは顔を輝かせた。
「うん!」
嬉しそうに笑うアリスは、それこそ母親を褒められた娘のようで、思わずみんな笑った。
「それにしてもビックリだよな~。まさかそんな所に王家との繋がりがねぇ」
「ほんとだよ。でも、どうしてバセット家を紹介したんだろうね? ホープキンスさん」
ハンナほどの人材ならば、それこそどこへやってもおかしくはない。ましてや王妃専属のメイドだったのだ。それを落ちぶれた男爵家に向かわせるなんて、ホープキンスも一体何を考えていたのか。
「ハンナが、自らバセット家を選んだのですよ」
突然の声にみんながビクリと体を強張らせた。全く音がしなかった扉に目をやり、ゴクリと息を飲む。そこに立っていたのは、渦中のホープキンスだった。
「び、びっくりした! 音はちゃんとさせろよな、ホープキンス!」
カインが大きな息をついてお茶を飲むと、ホープキンスはカインに軽く頭を下げて、ノアとアリス、そしてキリを順番に無表情で見定めている。
「ハンナはどうやら元気そうで安心しました。初めまして、ジャック・ホープキンスと申します。あなた達がバセット家の方々ですね?」
慇懃な態度で頭を下げたホープキンスにノアが立ち上がって礼を取る。
「こちらこそ、ずっとお礼を言いたいと思っていました。ハンナを紹介していただき、本当に感謝しています」
「いえ、私が紹介したのは、バセット家も含めて十二件でした。その中から、ハンナはわざわざ一番苦労しそうな家を選んだのです」
「ホープキンス! そんな言い方はないでしょう?」
やんわりと窘めるキャロラインをノアが手で遮った。
「それでも、です。あなたは多分、ハンナがバセット家を選ぶことが分かっていたんじゃないでしょうか?」
「どうしてそう思うのです?」
「もしもハンナに向いていないと思うのならば、あなたは最初から提示しなかったはずです。そしてあの時のうちの状況は悲惨だった。母親に逃げられた僕とアリス、それに続いて父がどこからともなく拾ってきたキリ、親を失くした子供が三人も居たのは、おそらくうちだけだったでしょう? ハンナは周りが引くほどの子供好きです。今やバセット領の子供たちはほとんどの者がハンナを第二に母だと思っている節があるほどです。そんなハンナが、うちを選ばない訳がない」
言い切ったノアに一瞬目を丸くしたホープキンスだったが、次の瞬間、胸に衝撃を感じて見下ろすと、アリスがホープキンスの胸を涙目でグイグイ押してくる。どうやらホープキンスを追い出そうとしているらしい。
「駄目だよ! ハンナはもうどこにも行かないんだから! 王妃さまが返してって言ったって、絶対絶対、駄目だよ!」
「……」
「お嬢様! ハンナに言いつけますよ」
その言葉にアリスはハッとしてホープキンスから手を離した。そんなノアとアリスとキリを見て、ホープキンスはとうとう笑いを堪える事が出来なくなってしまった。
「ふはっ! す、すみません。ハンナが行ったバセット家の子達が来ると聞いて、一体どんな子達なのだろうと思っていましたが、ようやく安心する事が出来ました。大丈夫ですよ、アリス様。私はあなた達からハンナを取り上げにきた訳ではありません。ハンナが幸せにやっているのかどうかが知りたかっただけなのです。ハンナは怒ると今でも怖いですか?」
「うん。盗み食いしたら豚の小屋に一晩入れられるよ」
「それは流石にお嬢様だけですよ」
「僕もされた事ない」
「え⁉」
「ははは! そうですか。楽しくやっているようですね。安心しました」
さっきまでの無表情は嘘だったのかと思う程ホープキンスは爽やかに笑った。とてもじゃないが五十過ぎには見えない。
ホープキンスは目尻の涙を拭いながら大きく息をついた。
「ノア様の仰る通り、ハンナなら間違いなくあなた達の家を選ぶだろうと思っていました。ハンナは子供が好きで、それ故にあんな事になってしまったのです。だからこそ小さな子供のいる家に行って欲しかった。それに、ハンナにはこんな狭い所は合わない。そうでしょう?」
規律にがんじがらめになった王宮は、ハンナには狭すぎる。特にメイド長となってからは、ハンナは豪快に笑わないようになってしまった。それはホープキンスは望んではいなかった。それならばまだ大工で居た時の方が彼女は楽しそうだった。
しかし今はどうだ。話を聞く限りあの後もバセット家にはメイドがハンナしか居ないという。
一度だけ送られてきた手紙には三人の子供達と領主のアーサーの事が書かれていたが、不安よりも楽しさが勝っているように感じた。
しかし流石のホープキンスもまさか令嬢を豚小屋で一晩過ごさせる暴挙に出ているとは思わなかったが、目の前のアリスは十分ハンナの事を慕っているのがよく分かった。
ホープキンスの言葉に三人は真顔で頷いた。それを見てまたホープキンスは笑いだす。
「ホープキンスがこんなに笑っているのを初めて見たわ……」
「俺も」
キャロラインとカインの言葉にホープキンスは思い出したように無表情に戻すと、ノア達に深々と頭を下げた。
「どうやら、私の選択は何も間違ってはいなかったようです。ありがとうございます」
それを受けて三人も頭を下げる。
「こちらこそ、ハンナを紹介してくれてありがとうございます」
「ありがとうございます、ジャックさん」
「私からも、お礼申し上げます」
早くに母が居なくなった三人にとって母も同然のハンナである。彼女はバセット家になくてはならない存在だ。
そんな中、ふとノアが何か思いついたように呟いた。
「そう言えば、ハンナは最近腰が痛いって」
「言ってましたね。お嬢様を追いかけるのも最近疲れてきたそうで」
「僕達も学園に来ちゃったし、色々心配なんだよね」
そこまで言ってノアはチラリとホープキンスを見た。ホープキンスはそれを聞いて、少しだけ眉をしかめる。
「ハンナは誰に義理立ててるのか、まだ独り身だし心配だなぁ。せめてもう一人ぐらい男手があったらいいと思わない?」
そう問うノアにキリが何かに気付いたように頷く。
「そうですね。未だにちゃんとした執事が居ないのもどうかと思いますし……」
二人の意図を正しく読んだのか、リアンが口を挟んだ。
「だったらちゃんとした執事雇えば? あんたんとこ大分盛り返したんでしょ? おじさん一人でどうにかなるの?」
「それがならないんだよ。だから学園にまで書類が送られてくるんだ」
苦笑いしながらそんな事を言うノアにホープキンスが耐えられなくなったように頭を下げた。
「急用を思い出したので、私はこれで失礼します」
そう言ってバタバタと音を立てて立ち去ったホープキンスを見てノアが笑みを浮かべる。
「これでハンナはもっと幸せになれるかな?」
「はい、きっと」
「え? え?」
一人何が起こっていたのか分からないアリスだけが首を傾げていたが、周りはみんな気づいたようで、キャロラインとカインが呆れたような顔をしている。
「ノア! うちの執事を引き抜くのは止めてくれないか」
全てを扉の外で聞いていたルイスが耐えきれなくなったように姿を現した。
「居たの?」
「居たとも! 何だか真面目な話をしているから外で待っていたが、お前という奴はほんとに、油断も隙も無いな!」
「でもそれでみんな幸せになれるんならいいんじゃない? どっちみちそろそろ代替わりじゃないの?」
王都の執事は大体それぐらいの年齢で代替わりすると聞いた。
「まあ、それはそうだが」
「なるようになるって、ルイス。寂しいのは分かるけどさ」
「そうよ、ルイス。ホープキンスの門出じゃない。祝いましょうよ」
「待て! まだ決まった訳ではないだろう⁉」
とはいえ、時間の問題だろうな、とノアを見て思う。血相を変えてルイスの隣を通り過ぎたホープキンスは、いつものホープキンスではなかったのだから。
「ルイス、仕事は愛には勝てないよ」
尤もらしい事を言ったノアに、ルイスもとうとう腹をくくるしかなかった。
この数年後、ホープキンスの退職が決まるのだが、長年勤めたホープキンスの行き先は、王妃だけが知っていて、風の噂でホープキンスがようやく身を固めたと聞いた時、王宮では盛大なパーティーが開かれたという。
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