【1章 美しき労働】『美少年とゆかいな仲間たち』
66階に着いた。
エレベーターの扉が開く。薄暗い箱の中に、光が差していくんだ。
廊下の壁の蓋を開けて、ダスト・シュートへとゴミ袋を投げ込んでいる女がいる。
おれらの部屋のハウス・キーパーをしているキャンディだ。
最近雇われらしいんだが、これがいい女。
デニムのホットパンツから伸びた褐色のむちむちの太ももは、たまんなくそそる。
彼女は、おれに気付くとイヤラシく笑った。どの男にもそうやって笑うんだ。最近は、視察に来た政府のお偉いさんとも寝てるって噂だ。
妬けるね、まったく。
「ハーイ、メリー。今晩暇? ちょっと飲みに行かない?」
「メリーは忙しいの!」
おれの腕にしがみつき、ドロシーがキャンディの前に立ちふさがる。かまぼこみたいな目でキャンディを睨んでやがる。キャットファイトってやつだ。
だが、キャンディは余裕たっぷりの表情を浮かべ、「あら、じゃあ、また明日ね? ドロシーちゃんも」と言ってドロシーの頭に手を置いた。
なるほど、試合放棄だ。
「いいからどっかいってよ!」
「はいはい、子猫ちゃん」
おれたちはすれ違った。キャンディの後ろ姿を目だけで追う。
カットソーは背中がざっくりと空いていて、活きのよさそうな肩甲骨が躍っていた。
エレベーターの扉が閉まっていく。
だが、キャンディが「あ!」と何かに気付き、すぐさま足を挟んだ。
「忘れてたわ。ねぇ、メリー。このフロアに、どの鍵でも開かない場所があるんだけど……そこの掃除はやらなくていいのかしら? いつも、ほっといてるんだけど」
「あぁ……。いいんだよ。開かずの間さ。おれも入ったことがない」
妙なオーラを放った部屋が一つ、フロアの隅っこにあるんだが、誰かが出入りしてるのも見たことがないんだ。おれもその類の話は苦手だ。だから、忘れてちょーだい。
「夜には女の啜り泣きが聞こえてくるって噂だぜ。さわらぬ神になんとやらだ」
「ふふ、触ってみないと、わからないこともあるのよ?」
キャンディは目を細めて笑いやがる。
扉は閉まった。キャンディは、扉が閉まりきる最後の瞬間まで、おれを目で誘ってた。
「メリーぃー?」
キャンディの姿が見えなくなると、ドロシーがたまんねぇ甘い声で、おれの耳元で囁く。振り向く勇気はねーけど、きっと青筋浮かべて笑ってやがんだ。
とりあえず、部屋に戻ろう。おやつは何がいいかね?
「どうしてあたし以外の女の子に色目使うの? 次やったら、こっから落とすよ?」
ドロシーはそう言って、ダストシュートの蓋を叩いた。
「悪いって。カンベンしてくれ」
ダストシュートは一階まで直通。今は鍵が付いているけど、うっかり落ちたらミンチ確定。
ドロシーは「帰ったら、『ちゅくちゅくハミガキ』ね!」と、わざとらしく腰に手を当てた。
まったくよ、固いこと言いっこなしにしようぜ。
なにせ、おれたちは仲間なんだ。
「お口開けて~? はい、あ~ん♪」
洗面所の鏡には、間抜け面して口を開けているおれと、ハッピーな顔をして歯磨き粉のチューブを握ってるドロシー。
こいつは、こうしておれを赤ん坊扱いするのがたまらなく好きなんだ。
要は、おれを激しく見下している。でも、それでいい。
おれは対等という言葉が嫌いだ。対等さの中に、性欲は存在しない。愛情なんてたわごとは、生殖の本能に反している。人間だって、見下し見下されることで種を保存してきた。
……要はね、おれは見下されることでしか、興奮できないってことなんだ。
ドロシーは右手で歯磨き粉をたっぷり絞り、人さし指に塗りつける。片手だけで器用なもんだ。包帯で左腕を吊ってるのは、腕にケガしてるわけじゃなく、ファッションらしいけど。
「今日はイチゴ味だからねー♪」
あいがと。ぼくちん、うれちい。
ドロシーは、おれの口に指を突っ込んだ。
人工的で不自然に甘酸っぱいイチゴの香りが、鼻の奥から抜ける。ドロシーは母性的な微笑みを浮かべ、リズム良く、一本ずつ右下の奥歯から磨いていく。
細くて華奢な指が、口の中で躍るのさ。
くすぐったくて得意じゃないけど、これも仲直りの儀式。我慢しよう。
「きもちいー?」
「ん」
「キャンディより、あたしの方がかわいい?」
「うんうん」
「じゃあ、結婚してくれる?」
「ほへは、関係なふへ?」
「関係あるよ! 歯磨きが上手な奥さんもらえたら嬉しいでしょ?」
こいつはこうして、たびたび結婚を申し込んでくる。
「はい。あと、メリーのサインだけなんだよ?」
ドロシーは鏡越しに、紙を広げておれに見せる。
婚姻届だ。
ヘッタクソな、拙い丸っこい字。役所で失笑が漏れることうけあいだね。
「クリスマスに式あげたいからぁ、絶対それまでに書いてよね?」
冗談じゃないぜ。こんなもん持ち歩いてるやつとは、おねんねな関係以上にはなりたくねー。
口をゆすぎ、鏡に向かって笑ってみせる。
ハロー、美少年くん。
あ、おれか。(なーんて、毎日やってるやつはいるのかね?)
鏡に映っているのは間違いなくおれなんだが、すごく他人めいて見えるんだよ。
洗面所を出て、リビングの赤いソファに座った。ドロシーも隣に腰かけた。おれたち「治療隊」(おれ、ドロシー、あと佐藤ってやつがいて、全員で三人だ)の共同リビングを、カッコつけて「本部」って呼んでいるんだ。
バドミントンくらいはできそうな広さの、六角形の部屋。
扉の向こうには、ジャグジー付の風呂まで完備。高級リゾートホテル並みの待遇だ。
おれは、テーブルの上のアップルパイを摘まんで一口食べる。
糖分が頭に行きわたって、血が喜んでいる感じがする。
これだよ、これ。大好物なんだ。
「あー、もうまたじゃん!」
ドロシーが、電子パネルに向かって不平をもらす。パネルには、部屋の名前が表示されていて、バスルームの下のランプが点灯していた。ジャグジー風呂は使用中ってことさ。
「また佐藤の野郎か」
「うん。まだひきこもってるよ。もう3日目だっけ」
さてさて、これが最近の目下の悩みってわけ。
同僚の佐藤っつうしみったれた野郎が、いじけてバスルームに閉じこもってやがんだ。
しかもくだらねぇ理由で。ガキなんだ。
一応、別個にシャワー専用ルームもあって、汗を流すだけならできる。でもやっぱバスタブで脚を伸ばして鼻歌をうたうってのは、たまんねぇ至福なわけ。
「いい、ちょっと行ってくるわ。説得してくる」
おれはバスルームに向かった。
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