第304話
「急ぐのは構わんが足元には気を付けろ、何が仕掛けられているか分からんからな」
「分かってる」
しかし暗闇の中、ただ足元に宿る光だけを頼りに早足で動くことはどうしても不安が沸き上がり、ちらりと後ろへ振り向いて背後にいる彼女を確認してしまうのは仕方のない事。
そして呆れたように首を振る彼女がいることをしかと確かめ、ため息を聞くだけでえも言えぬ安堵感に包まれた。
「言った傍から。全く――」
カナリアの喉が緊張に詰まった瞬間全身の毛穴が開き、先ほどまでの停滞した思考が一瞬で拭き飛ぶ。
「前ッ!」
「――ッ! 『アクセラレーション』」
敵の姿は捉えていない、だが前方を薙ぎ払う。
目を見開いて右手を上げようと動くカナリアを左手で抱え上げ、一度、二度、三度の跳躍と共に背後へと飛びずさった。
全く気が付かなかった……!
スキル? いや、魔法!? 風や葉擦れの音が一切ないこの世界で、会話ありきとは言え緊張に張り詰めていた私に近付くなんて――
「え? いない?」
「げほっ! こほっ! そんなわけがない! しっかりと集中しろ!」
運ばれた衝撃に痙攣する横隔膜を必死に動かしカナリアが叫ぶ。
が、彼女が目にしたという人間は、少なくとも先ほど私達がいたであろう場所には、影すらも存在しないように見えた。
勿論その程度で気を抜くわけはない。
右、左。
しかし視線の先に引っかかる存在はない。
カナリアが下に構えた掌から展開する魔法陣が輝き、己たちの呼吸音すら五月蠅く感じる静寂で、ひたすらにじっと武器を構え耳を澄ます。
長い一瞬に耐え続けた私達であったが、おもむろにカナリアが私へと左手を差し出し、虚空へと口を開く。
「いるのか」
返答は沈黙。
彼女の視線がこちらを向き、武器を下ろす様に語る。
コクリと頷き、私は身体の力を抜いてカリバーを下ろし、彼女は魔法陣を握りつぶして霧散させた。
が、これにも敵は乗ってこない。
少し露骨過ぎたか? いや、私が思うにそもそも……
「いない、多分」
勘だ、あてにはならない。
だが少なくともカナリアが目撃したという人影は、既にそこから立ち去っているように思えた。
「う、うむ。しかし」
「分かってる」
逃げた? あるいは偵察程度だったのか。
どうやら私が察知したと同時にこの場を離れた、と考えるのが妥当だろう。
ここで漸く本格的に警戒を解き、私は
「――? カナリア! なんかへ」
「後ろに下がれ!」
奇妙な違和感に触れ無意識に彼女へと警告を投げかけようと動くが、しかし再び叫んだ彼女が私を押しのけて前へ飛び出す。
倒れるようにして後ろへと追いやられた私が見たものは、前方一面を埋め尽くす眩い炎の壁であった。
「なっ」
「甘い」
触れるものすべてを焼き尽くさんと迫りくる、質量を持たぬ破壊。
しかし右手を正面へと突き出しカナリアが吠えた瞬間、炎が私達を避けるかのように二つへと割れる。
「この私に魔術で仕掛けてくるとは、舐めるなよ」
暗黒が一瞬で真昼間と間違うほどの明度へと変化した世界の中、カナリアが軽い舌打ちと共に左手で軽く指を鳴らす。
刹那、無秩序に暴虐を振りまいていた白焔へ一筋の線が通り抜け……己を生み出した術者へとその咢を剥き出しに襲い掛かった。
炎に囲まれた瞬間、私達を襲った犯人の姿が鮮やかに浮かび上がった。
鮮やかな蒼のローブを着込んだ人物だ。平均的な成人男性程度はあろうかという高身長ながら、ローブからでも分かる起伏はその存在が女性であると理解させる。
彼女は慌てて何かを叫び魔法陣を展開させると焔の大半を消し去り――
「カナリアぁ……!」
――ちろちろと燃えるローブを脱ぎ捨て、内から現れた女性は地を這うほどにドスの効いた低い声で唸った。
褐色に白髪という神秘的な姿、起伏の激しいボディライン。
もしどこか平和な時に見かければ目を惹く容姿であったが、残念ながらその顔は般若の如く激情に歪み切っている。
正直引いてしまうほどだ、怖い。
しかし彼女の容貌を垣間見た私には、彼女の名前や正体などに心当たりがあった。
勿論出会ったこと、会話を交わしたことはないにも拘らず、だ。
彼女はカナリアの会話で何度か出た、そして記憶を垣間見たあの日にも遭遇したことがある。
そう、カナリアの幼馴染ともいうべき存在であり、カナリアが秘匿した『次元の狭間』に関する資料を持ち出した全ての元凶が一人。その名は――
「クラリスさん、だっけ」
後ろで同意に等しい衣擦れの音が聞こえた。
誰かが来ることを恐れ警戒態勢を敷いていたのか、何らかの方法で私たちの侵入を察したのかは分からないが、ただ一つだけ分かることはある。
紛れもなく、彼女は敵だ。
グリップを包み込む指先に力が入ってくのが分かった。
「貴様は先に行け」
唐突に振られたカナリアの提案。
いや、提案というには些か強情であり、有無を言わさない命令と言える。
「えっ、でも二人で戦った方が」
「奴の目的は我々を倒すことではない、時間稼ぎだ。でなければあんな分かりやすい魔法など使ってこない」
その言葉には確かに一理がある。
私たちの正体に相手が最初から気付いていた、いなかったに関わらず、この道は恐らく彼女達以外に立ち入ることは出来ない絶対の領域。
地の利は間違いなくあちらにあり、わざわざ姿を現し、更には焔などという目立つ明るい魔法を使うのは奇妙と言えた。
私たちの目的は魔天楼の破壊。
そしてその目標を果たすという一点においてのみ、カナリアの存在は不要と言える。
加えて単純な戦力を図れば、私とカナリアには圧倒的な格差がある。
――クレストを倒せる可能性が高いのは、私だ。
ちらりとカナリアを見る。
彼女の金瞳は煌々とした輝きを湛え、己が負けるなどとは微塵も考えていない、絶対の自信に溢れていた。
「分かった」
「もしクレストと交戦し、打倒した上で私が三十分以上姿を現さなければ魔天楼を破壊しろ。物理的、基盤らしきものを狙う何でも構わん。少なくとも現状の崩壊はそれで止まるはずだ」
カナリアの右手が一瞬輝き、簡素な銀の懐中時計が即座に生み出される。
「行け」
ひらりと空中を舞う『それ』を掴んでコートのポケットへとねじ込んだ私は、脇目もふらず一直線に二人の横を駆け抜けた。
◇
「逃がすと思うの!?」
無防備な背中を晒し、一目散に駆け出したフォリアへと手を差し出しクラリスが絶叫する。
眩い魔法陣が犇めきその小さな影を捉え蝕もうと嘶いた瞬間、しかし本能的な機転から彼女は背後に立つ同郷のエルフへと標的を変えざるを得なかった。
「逃がすさ、貴様はその選択肢以外を選ぶ余地などないのだから」
紫電が空を裂く。
轟雷が弾け、閃光が絶え間なく瞬いた。
記憶にある存在より一段と磨きのかかった魔法に己を守ることしかできなかったクラリスは、何度目かも分からない舌打ちと共に、既に点にしか見えなくなった少女の背中を流し目で見送り奥歯を軋ませる。
そして暴虐を生み出した小さな存在は、記憶と変わらぬ飄々とした顔で肩をすくめた。
「久しいなクラリス、前回の巻き戻し以来じゃないか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます