肥大する眼差し

鈴音

 新開地行きの特急は、今日も少し込み合っていた。私は先頭車両の前から三番目の扉の脇で、壁にもたれ掛かって立っている。車窓から外を眺めて、じっと身体が動かないように。あの人が私のことを見ていることに、気がついていないふりをして。

 その男の人はグレーのハンチング帽を目深にかぶって、私と反対側の扉の脇に立っていた。手のひらサイズのメモ帳のようなものを左手に持って、右手の短い鉛筆でいつも何かを書いている。その姿は仕事か勉強をしているように見えなくもない。だけど時折、その視線がちらりと私の方に向けられるのだ。私の顔や身体を鋭い針で刺すように、私がきちんとここに立っていることを確認するように。

 だけどその瞳の動きは、ハンチング帽のつばに隠れて周囲の人には気づかれない。私だけが知っている。彼が私のことを見ていることを。私の姿をその小さなメモ帳に描いていることを。

 私はその男の人を帽子さんと心の中で呼んでいる。歳は四十くらいだろうか、西宮北口から電車に乗ってきて、私と同じように扉の脇に立つ。そうして胸ポケットからあのメモ帳を取り出して、周囲に悟られないように絵を描きだすのだ。鉛筆の動きは恐ろしいほど素早く、猫の額ほどのページの上を駆けめぐる。時たまちらりと私を見ては、また鉛筆を動かして、私の姿をページの上に写し出していく。

 彼のその密かな行動に私が気づいたのは、少し前のことになる。いつも大学に通うために乗っている朝の特急には、毎日同じ顔ぶれが同じ車両に乗ってくる。派手な服を着たおばさんや、髪の長いミリタリーファッションの男の人、お揃いの鈴をつけた杖を持つ老夫婦。帽子さんもそんな顔なじみの一人だった。

 見られているな、と感じた。

 その視線は巧妙に隠されていたけれど、暗い瞳が時折、横目がちに私に向けられるのが、扉の窓ガラスに反射してうっすらと映る彼の姿からわかった。

 はじめは新手の性癖を持った痴漢かな、と思ったけれど、男の人に色目を使われるときのような、あからさまな情欲は感じられなかった。冷淡な、観察するような目つきの中にはむしろ、おとなしい子どもが他人の目を窺うような、どこか気を遣っているようなところがあった。だからそれほど害のあるような人ではないのだろうと、私は無視を決め込んだ。

 それに、彼が描くのはどうやら私だけではないらしい。もちろん出くわす頻度を考えると私が選ばれることが多いのだが、そこにいる乗客を無差別に選んでいるようだ。この前は競馬新聞を読んでいるおじさんを描いていて、ちょうどそのとき、私はたまたま帽子さんの近くに立っていたから、気づかれないように彼のメモ帳を覗き込んでみた。

 濃い黒の鉛筆の線で描かれたおじさんの姿は、細かいところはラフに切り捨てられているけれど、大まかな特徴を正確に捉えていて、ちょっとびっくりするくらい巧かった。眉間に寄ったしわや新聞紙がシャツに落とす影、少し斜めになっている身体の軸。簡潔に、それでいて美しく描かれていたので、こんな風に私のことも描いてくれているのなら、悪い気はしなかった。

 だから今日も帽子さんのモデルになっている間、私は妙な気を遣ってなるべく動かないようにしていた。あんまり動くと申し訳ないかなと、足の指に力を入れて、電車の揺れで体勢や服のしわの形なんかが変わってしまわないように。

 そうしている間に大学の最寄り駅に着いてしまった。帽子さんに与えられた時間はほんの五、六分にくらいなのだが、そんな短い時間でも描き上げることができるようだった。そういう、ごく短い時間で描き上げるものをスケッチではなくクロッキーと呼ぶらしい。私が電車降りるために彼のそばを横切るときには、メモ帳を懐にしまって何食わぬ顔をしていた。

 帽子さんがどこで降りるのか、私は知らない。夕方の帰りの電車で見かけたことがないから、神戸の方で夜遅くまで仕事をしているのだと思うけど、きっと画家か何かだろうと考えている。そうして私は電車を降りて、彼を乗せた電車が去っていくのを横目で見ながら、大学へと歩き出した。


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