第134話 ルックナー兄弟
「ワシに客だと?」
「はい」
「誰だ?」
「それが……」
ヘルムート王国の王都にある王城内の財務卿執務室において、現在懸命に積み重なった大量の書類にサインを続けていると、突然秘書から来客の訪問を告げられた。
が、どうも様子がおかしい。
「コンラート。お前にしては珍しく歯切れが悪いな」
「実は『あの方』でして……。まさか、ここに直接来られるとは予想外だったといいますか……」
「『あの方』? ああ……」
ワシは代々、ヘルムート王国の財務を司ってきたルックナー伯爵家の当主だ。
家業だからか、生まれついての性格だからか、このハッキリとした口調で報告しない、若い男性秘書に非難の声色を混ぜた口調で質問してしまう。
だがすぐに、彼がしどろもどろな口調で話す理由が理解できてしまった。
『あの方』……。
それは言いにくくて当然か。
ワシの秘書であるコンラートはその将来を嘱望された若者で、同じく財務卿を持ち回りで引き受けるハウプトマン伯爵家の跡取りでもあった。
将来に備え、懇意である彼の父親に頼まれて面倒を見ているのだが、それほどの男が来客の名前すら告げられないで動揺する。
『あの方』とは間違いなく不肖の弟であろうが、我が家の恥に関することなので、彼は言いにくかったのであろう。
あとで、フォローしておかないとな。
ルックナー会計監査長はワシの実弟であり、母親が違うなどということもなく、同じ両親から生まれた年子の弟で、子供の頃は仲だって悪くなかった。
ルックナー侯爵家は財務系の要職を世襲する法衣貴族で、当主は必ず一期五年は財務卿職をまっとうする。
数少ない例外は、若くして当主が急死してしまったとか、そういう理由だけであった。
王国にはルックナー侯爵家の他にも、財務卿を世襲可能な伯爵家やら侯爵家が四家ほど存在する。
ルックナー侯爵家を入れて五家で、なるべく五家が同じくらいの期間、財務卿の職をまっとうできるよう、談合に近い水面下での交渉があったりするのだ。
これを役職の独占という悪と見るべきか、王国の治世が安定している証拠と見るべきかは、今ここで論じる話ではない。
ルックナー侯爵家の兄弟は、子供の頃は仲が良かったのだが、大人になるにつれて弟が家を継げない事実を知り、兄と対立するようになる。
子供が食べるお菓子は半分に分けられるが、侯爵家当主の地位と世襲可能な財務卿職は、お菓子のように分け合うわけにはいかないからだ。
正直なところ、子供の頃は仲が良かったのに、大人になると憎み合う貴族の兄弟などさほど珍しくもなかった。
成人した兄弟は、兄の方は財務系のエリートコースに。
弟の方は、成人後に家を出て中級官吏からその経歴をスタートさせる。
中級からスタートなのは、せめてもの実家や兄からの援助というやつなのだが、弟からすればその程度の支援など、当たり前というか上から目線の嫌味にしか思えず、その結果、弟は兄への憎悪をさらに募らせてしまった。
それでも、努力に努力を重ねて法衣男爵の爵位と会計監査長の地位も手に入れている。
あまり感心しない手段を用いてだが、それでも弟がその地位を実力掴んだことに驚くと同時に、弟の方は、ほぼ同時期に兄であるワシが財務卿の地位に就いた事実を知って、余計に憎悪を募らせてしまった。
とはいえ、陛下より任じられた職を弟に譲るわけにもいかず、その気もなかった。
それにワシは気がついたのだ。
下手にこの件で弟に謝ったり、罪悪感を見せれば、余計に彼のプライドを傷つけることになるのだと。
それに加えて、次第に弟が自分と敵対する財務系法衣貴族たちと組んで嫌がらせをするようになったので、自然と敵対するようになってしまった。
こうなると、ワシも自衛のために反撃するしかなかったからだ。
そのような経緯があり、会計監査長になった弟はこの執務室に一度も入って来なかった。
意地なのか?
暗殺を恐れてなのかは知らなかったが。
不自然ではあったが、別に会計監査長がこの執務室に来なくても政務に支障があるわけでもない。
仕事上の話は、定期的に開催される会議ですればいいのだから。
ただ、どうにか表向きだけでもビジネスライクに冷静に対応しようとしているのに、なかなか上手く行かず、萎縮してしまう部下たちに申し訳ない気持ちで一杯なってしまう。
コンラートには、あとでお詫びになにか贈るかな。
「向こうが用事があるのなら通せ」
「あの……本当によろしいのでしょうか?」
今まで意地でも訪問して来なかったのに、今になってから自分に用事があるという弟。
コンラートからすれば、彼がなにかよからぬことでも考えているのではないかと疑っているのであろう。
「暗殺などあり得ん。それをした時点で、あいつも終わりなのだからな。ただ、どうせろくな用件ではあるまい。早めに聞いてしまうことにする」
「わかりました」
「ああ、それと。あのバカに出す茶などない。飲む時間などないように話を終わらせる」
「……承知しました」
数分後、コンラートの案内でルックナー会計監査長が入室してきた。
実の弟ではあるが、もうそんなことはどうでもよかった。
なまじ血が繋がっていると面倒だなと思いながら、用件があるのならさっさと言えと、財務卿という役職を利用して弟を急かした。
こんなことはやりたくないのだが、不愉快な面談は一秒でも早く終わらせたかったからだ。
「実は、さる筋から入手した情報なのですが……」
早く言えと言ったのは自分だが、まさか挨拶もなしにとは……。
ワシは驚きつつも、そうしろと言ったのは自分だったと思い出し、早く話をするようにと促した。
「財務卿閣下が現在梃入れをしている、南端未開地なのですが……」
梃入れというか、あれだけの大金を投じた未開地開発だ。
誰かが仕切らないと、欲に塗れた貴族たちの内輪揉めで計画が頓挫する可能性があったからだ。
極論すれば、バウマイスター男爵から金だけ抜ければ、あとは未開地開発の成否なんて知ったことかと思っている貴族は珍しくなかった。
そこでワシやエドガー軍務卿、そしてバウマイスター男爵の寄親であるブライヒレーダー辺境伯などが、彼の手伝いとバカ貴族たちの監視をすることになった。
勿論、その苦労に見合う成功報酬はいただくつもりであったが、ワシにも一族や家臣の生活があるのだから当然であろう。
「卿には関係のない話だ」
この計画が国家予算を投入したものなら、会計監査長の出番は多い。
ところがこの計画は、100%バウマイスター男爵が出資をして行われる。
当然、弟の出番などあるはずもなかった。
王国も少々の補助金を出す予定ではあったが、普通にチェックだけして終了である。
そのため、弟が利権に割り込める可能性は万に一つも存在しなかった。
なにかケチでも付けてきたら、ワシはそれを口実に弟の役職を解こうとまで考えていたからだ。
この開発は失敗できないのだから、最悪ワシが弟を道連れに財務卿を辞職することになっても、それは仕方がないとまで思っていたのだから。
「確か卿には、バウマイスター男爵を亡き者にしようとした疑惑があったな」
バウマイスター男爵による古代遺跡探索の際に、冒険者ギルドに圧力をかけてガイドの質を落とそうとした。
その真相は、冒険者ギルドが役職持ちとはいえ、一男爵の圧力に屈するはずもないという結論であったが、それを理解している平民たちは極少数であり、今もその噂はかなりの人数に信じられている。
しかもその噂を流したのは、この弟が認知をしていない血の繋がった息子とは……。
そんな怪しい輩を、国家の大事業に参加させるわけにいかないな。
目の前の弟が利権からあぶれたと思うと、これまでの恨みも重なり、ワシは笑いを堪えるのに懸命であった。
『策士策に溺れる』とは、こういうことを言うのだ。
自分でも嫌な奴だとは思うが、今まで散々に嫌がらせをされたのだ。
自爆した弟をバカにするくらい、少しは許されるであろう。
「その疑惑は完全に誤解かと。それよりも、早めにお知らせした方がいい情報がありまして……」
公式の場では、財務卿と会計監査長である二人。
当然、その地位の高さは財務卿の方が上である。
そのため、目の前の弟は自分に敬語で話しかけてくる。
どうせ裏では、ワシはボロカスに言われているのであろうが、会計監査長になるくらいの実力はあるので、その辺は弁えているようだ。
個人的には、公の席で失言でもすればいいのにと思ってしまうのだが。
「知らせたい情報?」
「はい。その情報とは、バウマイスター男爵の暗殺計画なのですが……」
「ほう、卿もついに自白を決断したのか」
弟の口から告げられた、未開地開発計画の要であるバウマイスター男爵の暗殺計画。
自ら、自分が計画したバウマイスイター男爵暗殺計画を告げにきたのかと、つい嫌味な口調で尋ねてしまった。
我ながら歪んだ兄弟関係だと思うが、その暗殺計画とやらは誰に罪を擦りつけるつもりなのか。
それだけには大きな興味があった。
「ご冗談を。私がどうしてバウマイスター男爵を暗殺せねばならないのです。とあるフリーの冒険者が、バウマイスター騎士爵領の次期当主に古代の魔道具を融通したそうです」
「なるほど。フリーの冒険者がか。たかがフリーの冒険者が、バウマイスター男爵を暗殺できそうな古代の魔道具入手できたわけか」
「現在、黒幕については調査中です」
「黒幕がいるのか」
「いなければ、フリーの冒険者にそんな真似はできませんからな」
「それはそうだ」
『どうせ、その冒険者も魔道具もお前が用意したんだろう?』という言葉を、ワシは喉の奥に呑み込んだ。
証拠もないのに罪を問えば、それはかえってワシの失態になってしまうからだ。
「そのような重要な情報を、卿がどうやって手に入れたのかは知らぬが……」
あきらかに自作自演であり、ワシと弟の白々しいやり取りがバカらしい茶番なのは誰よりも理解している。
だが、貴族が他の貴族に情報源などを聞いても笑われてしまうだけだ。
それこそが栄達や飯のタネなのに、無料で他の貴族にペラペラと喋るはずがないのは、常識以前の話であった。
「この時期にそれを通報しに来て、卿はなにを考えているのかね?」
貴族の子弟同士が殺し合う。
定期的に発生する事案であったが、その対応には差があった。
上手く病死や事故死で切り抜けて、問題にならない事案。
疑われても、証拠が挙がらずに処罰されない事案。
そして見事にバレて、厳罰を受ける事案と。
バウマイスター男爵を狙った暗殺事件がどの結果になるのかは、これは様々な条件が加味されて俄かに判別するのは難しい。
だが今回のケースの場合、王国側が暗殺の実行犯になるであろう、バウマイスター男爵の兄の処罰をしたくてしょうがないのだ。
実際に事件が起これば、その犯人には厳しい処分が下るはずだ。
「(向こうが暴発してくれるのなら、処罰も容易いか。しかし……)」
間違いなく目の前の男は、バウマイスター騎士爵家の長男に、暗殺に使う魔道具を融通している。
そして、バウマイスター騎士爵領への移動や連絡の困難さを考えれば、すでに長男がそれを使用している可能性が大きかった。
もし狙われたバウマイスター男爵になにかあれば、この男の身が無事に済むはずがない。
それなのに、この男は平気な顔で恩着せがましく通報に来た。
一体、なにを考えているのやら。
「卿は、バウマイスター男爵の身になにかがあれば……」
『お前は破滅なのだぞ』と言いかけたところで、目の前の男がそれを遮るように話を始める。
「私とて、王国に仕える貴族なのです。此度の、南端未開地開発を阻害するような真似はいたしませんとも」
「白々しいと言っていいかな?」
「過去には、バウマイスター男爵殿と多少の諍いはあったものの、私はそれを好ましいとは思っていませんので」
今のままだと、間違いなくこの男とその派閥に属している貴族たちに未開地開発の利権や利益は入ってこない。
できるかどうかは別にして、関係修復を急ぐのは貴族として当然とも言えた。
「(ワシの目が黒い内は、絶対に認めないがな)それで、卿はなにをしたいのだ?」
「そのフリーの冒険者は、長男の依頼を受けて裏町の盗品市でその魔道具を手に入れたようですな」
「まあ、そんなところであろうな」
地下遺跡から出土した魔道具は、基本的には発見した冒険者のものとなる。
冷蔵庫やコンロなど、便利なだけの品はそれでいいのだが、中には厄介な機能を備えていたり、場合によっては呪われており、触るだけで大変なことになってしまう危険な品もあった。
そのため、そういう品は冒険者ギルドによって強制的に買い取られ、王国が精査し、物によっては厳重管理される。
ただ、中には裏市場へ横流しされる品もあったのだ。
冒険者が自己申告をせず、その危険な魔道具を盗品専用の市場に流し、それを貴族が裏から手に入れ、なにか謀略や犯罪に絡んだことに使う。
まさか、冒険者が地下遺跡でなにを手に入れたのか全部確認することなど不可能で、いくら取り締まりを強化しても、裏市場へ横流しされる品をゼロにできないのは仕方がなかった。
「そのフリーの冒険者は、その魔道具が『竜使いの笛』だと聞いて購入したようです」
「貴様……」
『竜使いの笛』とは、遺跡から出土する魔道具の中でももっとも危険度が高い品となっていた。
この笛を吹くと、竜にしか聞こえないその音が広範囲に広がり、それを聞いた竜が激怒して集まって来る、半ば呪いのかかった魔道具であったからだ。
しかも、その『竜使いの笛』を吹いている人間を竜は襲わない。
そして呼ばれた竜は、死ぬまでその周辺を破壊して殺し尽くす。
さすがに、属性竜のような大物には効果はないそうだが、飛竜やワイバーンに対しては絶大な効果があるそうだ。
「あの領地に隣接するリーグ大山脈は、ワイバーンと飛竜の棲み処だったと記憶している。卿は通報をわざと遅らせ、領民たちを根絶やしにするつもりなのかね?」
だとしたら、この目の前の男は死刑にされても当然の罪を犯したことになる。
ただ同時に、そんなヘマはしないのであろうなとも思っていた。
「本当に、『竜使いの笛』であったらという話ですよ。裏市場の胡散臭い連中が勧める魔道具ですので、偽物である可能性も高いでしょう」
相当な目利きでないと、基本犯罪者が売買する品なので、簡単に騙されてガラクタを掴まされてしまうからだ。
騙された貴族が詐欺だと言ってお上に訴えても、『そこで買い物をしたお前がなにを抜かす!』と言われ、自分も処分されてしまうだろう。
裏市場でお得な買い物をするには、相当な度胸と目利きとコネが必要であった。
「それで、その魔道具はなんだと言うのかね? ハエでも呼ぶ笛なのか?」
「いえ、『怨嗟の笛』だそうで」
「お前は……」
ワシは、思わず目の前の男に暴言を吐きそうになってしまう。
『怨嗟の笛』とは、同じく古代に作られた『竜使いの笛』と違うベクトルで厄介な、呪われた魔道具であった。
当然、出土した品はすべて王国が管理していることになっている。
なぜなら『怨嗟の笛』とは、己の身を犠牲にした仇討ち専用の魔道具だからだ。
「(あの長男も、哀れだな……)」
弟からの、これまでの話から事情を推理すると。
弟とその派閥は、ワシとバウマイスター男爵に対抗するため、跡取りの長男に手紙で情報を送ったりして縁を結ぼうとした。
ところが、その肝心の長男は思った以上に使えない男らしい。
こう言っては悪いが田舎者の僻みというやつで、中央の貴族など全員が業突く張りのロクデナシだと思っているらしく、なかなか協調体制に至らないのだそうだ。
あんな僻地で暮らしているので、余所者を受け入れにくいのであろう。
せめて表面上だけでも愛想よくするのが貴族なのに、その点でも跡取り長男は、バウマイスター男爵に劣る男なのだと思ってしまう。
王国としても、長男が男爵くらいで我慢して本家の相続をバウマイスター男爵に譲るくらいの度量があれば、別に無理に引き摺り下ろす算段など考えていなかった。
ところが情報を集めれば集めるほど、長男の狭量ぶりが目立ってくる。
こうなると、もう排除するしか選択肢はない。
社会的に生かしておくと、長男本人がこれから長きに渡りバウマイスター男爵の足を引っ張る可能性もある。
今ワシの目の前にいるような、業突く張りなバカの愚挙を誘発してしまうからだ。
長男を神輿にして、未開地開発の利権やバウマイスター本家の相続問題に関わり、利益を掠め取ろうとする。
正直なところ、そんな頻発するであろうバカの相手をする労力が惜しい。
それならば、可哀想ではあるが長男には退場してもらう方針になっていた。
当然、陛下もその線で合意している。
話を戻すが、ここで厄介なのは、目の前の愚かな弟がこちらの真意に気がついているという点にある。
だからこそ今、あの長男を最後に有効活用する策を実行したのであろう。
まず最初に、長男がバウマイスター男爵を暗殺しようとしている事実を通報して彼を裏切った。
あきらかに共犯関係にあり、弟が親切顔で長男に『怨嗟の笛』を提供したのであろう。
騙された長男が不幸だな。
弟がしたことを考えるととんでもない悪党なわけだが、結果的にはこちらの裏の意図を読んで動いていたとも言える。
三ヵ月以上と、予想以上に挑発に耐えて自重していたので、弟が長男の暴発を手助けしたとも考えられるからだ。
「しかし、『怨嗟の笛』では万が一の可能性がないか?」
「あの僻地でですか?」
弟は、こちらを見て嘲笑するかのような笑みを浮かべていた。
「『怨嗟の笛』は、人が大量に住まう場所でないと効果が薄い。そういうことです」
通報を遅らせたのも、万が一の可能性すらないと思っていたから。
あとは、そのフリーの冒険者とやらは使える人間なので、使い捨てにしたくなかったのであろう。
これから裏市場の捜査をしたとしても、『怨嗟の笛』の出所や、ましてやそれを購入したフリーの冒険者が誰かなどわからないはず。
弟からの情報で探すにしても、こいつが嘘をつけば終わりなのだから。
最悪、替え玉を準備されて死体となって発見という結末すらあり得た。
「あの領地に篭る怨念の量では、バウマイスター男爵か婚約者殿の浄化一発で消滅すると思われます」
確かに、弟の言うとおりであった。
『怨嗟の笛』とは、笛を吹いた人物を中心に周囲の怨念を呼び寄せ、その人物をアンデッドのコアとして怨念の人型を作りだし、憎い標的に対し復讐をはたさせるアイテムであった。
集める怨念とは、説明が難しいが、悪霊とかそういう類の物ではない。
たとえば、仕事をしていて上司から説教を浮け、そのことでイラっときたり、この野郎と思ったりする……コンラートにはあとで埋め合わせをしておくか。
この時の負の感情などは、その場に堆積する。
だが、その程度の怨念では、その周辺にある霊的な存在などに変化は起こらない。
さすがに殺人などで発生した怨念は、被害者の霊をその場に留まらせる効果があったが。
そして『怨嗟の笛』であるが、これは笛の音が聞こえる範囲内にある怨念を、笛を吹いている人間に集める機能を持っていた。
笛の音も、魔道具なので想像以上の広範囲に広がる。
一ヵ所では微量でしかない怨念でも、数が集まればと膨大な量になるという仕組みであった。
そして集まった怨念は、笛を吹いた人間の命を奪い、その存在を強力なアンデッドにしてしまう。
少量の怨念では人間に害を及ぼさないが、大量ならばそういう効果もあるというわけだ。
「あの長男は、バウマイスター男爵の暗殺を目論んだ。ですが、罪を裁く前に死なれると困る。私もそう考えたのですが、如何せん私の情報網に引っかかるのが遅かった」
そのため、『怨嗟の笛』を持ったフリーの冒険者は、もうとっくに長男と接触しているはずであろうと、弟は残念そうに語っていた。
その嘘の白々しさと、本当に心から残念そうな表情をする演技力と。
貴族らしいと言われればそうなのだが、今回に限っては腹が立つだけであった。
「間に合わなくて残念です」
「(よく言う。呆れてなにも言えん)」
というか、長男には死んでもらわないと困るのであろう。
彼が生きたまま捕まり、『怨嗟の笛』の入手先を話せばすべてが終わりなのだから。
「(さて、どうしたものか……)」
弟は、あの長男を陥れてから切り捨てた。
個人的には同罪で処分したいところであったが、長男の処分に手を貸したという見方もできる。
勿論、善悪だけで判断すれば最悪な男だが、それだけでは判断できないのも政治や貴族の世界だ。
「(どうせここに話に来た時点で、自分が関わった証拠はすべて用意周到に消しているのは確実か……)」
証拠がなければ、中央で役職についている貴族の処罰など不可能だ。
ワシは、この件で弟を処分するのは難しいであろうという結論に達する。
念のため痕跡の調査は行うが、弟が証拠を残している可能性は低いだろうと考えていた。
「情報の提供には感謝する。だが、バウマイスター男爵になにかがあれば、わかっておろうな?」
確実に潰す。
証拠などなくても、陛下も、エドガー軍務卿も、他の閣僚たちも。
そしてワシ自身は言うまでもなく、差し違えても弟を潰してやる覚悟だ。
ワシは、人を殺さんばかりの視線で目の前の弟を睨みつける。
「それと、例の分け前の件であるが……」
公に未開地開発の利権とは言えないので、この表現になっていた。
弟は、それを得るためにあの長男を切り捨てた。
未開地利権の分け前が一番気になっているであろうから、あえて教えてやろうと思ったわけだ。
「そういうことはすべて、バウマイスター男爵が決めることだ。ワシからは、なんとも言えんな」
勿論建て前であり、嘘である。
今の彼にはまだそこまで取り仕切る経験がないので、ワシやエドガー軍務卿、ブライヒレーダー辺境伯に権限がないはずがない。
だが、バウマイスター男爵側の責任者である、甥でもあるローデリヒが一セントとて許すはずがない。
バウマイスター男爵本人も嫌がるはずなので、まず不可能という回答しか出てこないのだ。
こうなるともう、弟の自業自得としか言いようがなかった。
「なるほど。確かにその問題はありますな」
「(なにがその問題だ!)せっかく虎口を免れたのだ。余計な欲をかくべきではないと思うが……」
多分、捜査をしてもバウマイスター男爵暗殺計画でこの弟に罰を与えるのは難しいはず。
証拠が見つかる可能性が低いからだ。
悔しいが、今回は仕方がない。
だが、こいつらに利権を分けるのだけはあり得ない。
それに、せっかく罪から逃れたのに、まだ欲をかくのかと思ってしまった。
「感情論的に、私たちへの分け前は認められないと?」
「いい加減にしたらどうだ? 業突く張りだと言っているのだ」
『お前など、つま先一つで崖先に立って生き残っているにすぎないのだぞ』と、ワシは心の中で弟に対し悪態をついた。
「ただ、貴族としてのコネがあれば可能だと私は思うのです」
「はあ? コネ?」
コネどころか、嫌われている相手から利権を得るなど。
そんな夢物語を、一体どこから思いつくのか。
ワシはただ、弟の能天気さに呆れるばかりであった。
「コネならありますがね。なにしろローデリヒは私の息子なのですから」
「……(しまった!)」
ワシは、己の迂闊さを呪い始めていた。
バウマイスター男爵家の家宰ローデリヒは、この弟と血を分けた息子である。
これまでは、父である弟が息子であるローデリヒを認知していなかったので、二人は王国の貴族法においては他人の関係にあった。
ところが今になって、急に弟はローデリヒを息子として認知すると宣言した。
ローデリヒからすれば、『ふざけるな!』と言いたくなるのであろうが、ここが王国が二千年も前に制定した貴族法の盲点とも言える。
当主の力が著しく強いせいで、親である当主が子供を認知するしないは自由でも、子供の側から当主である親と縁を切るのは不可能。
というか、そもそも想定していないのが現状であったからだ。
「お前……ローデリヒに……」
貴族だからという理由で、利のために捨てていた子供すら利用する。
自分も貴族なので完全に否定はできないが、さすがに人間としては酷すぎるとワシは思ってしまった。
「(対策がないとも言わぬが……)」
親と縁を切りたい貴族の子は当然いるが、彼らは物理的に親との接触を断ち、自分の死後に自然と平民に転落する道しか残されていなかった。
しかし今のローデリヒには、バウマイスター男爵家の、いや間違いなく伯爵家にまで陞爵する家の家宰として働き続けなければいけない。
この弟との連絡を絶つなど、事実上不可能なのだ。
「(ローデリヒが、完全に拒絶してくれれば……)」
だが、それは甘い考えであった。
詳しい事情を知れば、人は弟を非難してローデリヒに同情的な視線を向ける。
ところが、世の中はそれだけですべてが決まるわけもない。
もしローデリヒが、父親を拒絶して意地でも利権を分けないとしよう。
すると途端に周囲から、彼やその主人であるバウマイスター男爵に非難が集中するようになるのだ。
『利権のために、今さら捨てた子供を認知とか。ルックナー男爵は人の道から反れている』という本音を隠し、『長年不仲であった親子が和解をしてめでたい』という建前の元、それを拒絶する主従を狭量だと言って批判する。
非難を世間に広めるのは、間違いなくルックナー男爵の派閥に属する貴族たちと、ただ単に利権が得られない貴族たちのはずであった。
「(この男は、そういう連中を纏めて大規模に圧力をかけてくるはず)」
この厭らしい策に、完璧な対策など存在しない。
悔しいが、ある程度の利権を認めてやるしかないのだ。
早めに和解しておけば、さすがに派閥に属さない連中を纏めて扇動したりはしない。
そこまで騒ぎを大きくしてこちらの怒りを買い、本格的な争いによって被害が増える前に、自分の派閥に属する連中だけ口を潤せる分を掠め取る。
言い方は悪いが、その辺の駆け引きはマフィアに似ている部分がある。
和解で約束する利権も、ショバ代そのものとも言えなくはなかった。
「少し待て……」
「わかりました」
このやり取りを最後に、弟はなにも言わずに執務室を出ていく。
利権の分配なので、ワシだけで勝手に決めるわけにもいかず、他の貴族たちにも諮る必要があるのを、向こうも知っていたから部屋を立ち去ったのであろう。
「(あの腐れ野郎が!)」
もう実の弟だとは、欠片も思わない。
ただの政敵として、自分が死ぬまでに確実に社会的に葬り去ってくれる!
ワシは心の中で、弟を口汚く罵り続けながら決意した。
「ところで、バウマイスター男爵殿の無事の確認ですが……」
「そちらも、ブライヒブルクに緊急連絡だな……」
秘書であるコンラートの指摘に、ワシはそれに了承しつつも、今すぐにでもこの場から逃げ出したくなってしまうほどであった。
実の弟のせいで、ブライヒレーダー辺境伯からも、他の閣僚たちからも嫌味を言われるのは確実であったからだ。
「あの野郎、急死でもすれば良いのに」
「……」
コンラートは、自分の上司であるワシが呟いた貴族らしからぬ言葉を聞かなかったことにし、今日の予定の変更作業にとりかかる。
ワシの憂鬱な一日は、まだ始まったばかりであった。
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