第64話
痛覚が残っていることが、僕の五感を保証していた。夜の街は人でごった返していた。それに伴って、人の臭いや食物の臭いが混ざっていた。子供が使った筆洗いの桶のように、汚らしく、稚拙な空気が流れていた。暗がりでは誰も僕を見ていなかった。
こうして紛れ込んでしまえば、逃げることも叶うのではないか。
過ぎった不義理が、自然と足元を速める。痛みはそれを境に消えた。纏わりつく夏夜の湿気が、僕を止めようとしているようで、走り出そうという本能を止めることができなかった。
和泉の甘い声が聞こえる。何を語る言葉かはわからない。けれど、心配されているのだろうとはわかった。それすらも、一般に言う母と重なって、頭を振り乱すしか無かった。行く先はわからない。先程ふらついていたこの足で、何処に行けるというのか。焦燥感だけが、僕を突き動かしていた。今までの二十一年間の人生で、初めての感覚だった。感情と呼ぶものが、今になって戸惑いを持ち込むとは思っていなかった。
再び足首の皮膚が削げ落ちた頃、筋肉が動作を拒み始めた。靴底の血に足元を取られて、僕は前方へと倒れ込んだ。重力が自発呼吸も止めようとしていた。それに抵抗する筋力も体力もなく、こうなった時に運んでくれる幽冥も今はいない。いつの間にか、人ごみからは大きく外れ、酔っ払いがその辺に寝てるかどうかという具合だった。星空を見る余裕もない。鼻腔の奥から、温い体液が溢れる。側から見れば、死にかけた浮浪者にでも見えるかもしれないが、五感と脳は正しく機能していた。
故に、わざわざ速度を落として僕に近づく車くらいなら、気づくことが出来た。それはまるで自分ですらわかっていなかった僕の居場所を知っていたかのように、確実にタイヤを転がしていた。
「やあ、生きてる?」
黒いセダンから、その男は顔を出して言った。声音の癖は、覚えがあった。だが、知っている程、若くはない。
「うん、腹でも減っているのかな。君、エスコートして差し上げて。そっちの君は、近くでこれで買えるだけ何か食べれるものを。お釣りは好きにしなさい」
優しげだがくどくはない。淡々としているが、一見して機械的ではない。
一人の黒服の男に支えられて、上半身を起こした。視界に入ったのは、上等なスーツに身を包み、一目で高価とわかる貴金属類で両手を飾る、初老の男。
「こんばんは、お久しぶりなんだけど、覚えているかな。さあ、飲み物くらいなら、すぐに出せる」
返答を出すより前に、僕は車内、男の隣に押し込まれた。所謂カタギではないこの男達に、囲まれているとして、何故だが危機感は抱けなかった。体は上手く動かないにしろ、眼球を動かす程度は可能だった。
「そんなに可愛らしい目で見つめないでくれ。双子というのはこんなにも似るものなんだね」
「……誰に似ていると言うんですか」
「勿論、うちの息子、豊君にだ」
捻り出した声は掠れて、言葉にもなっていなかった。それでも、男は笑っていた。
「私は日比野慎一。七竈家……いや夜咲の血族全体の奉仕者という肩書きはあるか。個人的には、君を神にしたいと思っている、ということになっている、そんな、ただのクソ野郎だよ」
男こと日比野慎一は、そんな曖昧な言葉を重ねながら、缶ジュースを開けた。それを僕の手の中に押し込むと、再び舌を回した。
「具体的には……君が大学に行くお金、葦屋幽冥とその家族を養うお金、君のお母さんの戸籍を作るお金、君と幽冥君の殺人を消すお金……君を人間として生活させて、羽化を待つお金の全ては、私が出してあげたんだ」
金、金、金と、一体何度言うのだろうと、数えているうち、彼は僕の目を覗き込んで、口を閉じた。どうやらリアクションを欲しているらしい。僕は飲んでいたジュースを喉に通して、思いついた言葉を吐きかけた。
「凶悪な足長おじさんだ」
「言葉選びに奏君を透かし見るとは思わなかったな」
「父のことを気安く呼ぶ人がいるとは予想していませんでした」
声を張り上げて、彼は笑った。野蛮さと上品さはここまで両立するものなのかと、関心すら覚えた。
「奏君とは長い付き合いだから。それこそ、君と豊君を取り上げた中に、私もいたんだ」
「知っています。借金の担保に僕の兄弟を父から受け取ったのでしょう」
僕の一言に、一瞬、車内から音が聞こえた。日比野慎一は鼻を鳴らして、あれだけ回っていた舌を止めた。ただ、すぐにその頬は解れて、彼は再び僕に語り出した。
「君、それは少し違うな。誰に聞いたんだい」
日比野と同じ語り口が、奇妙で仕方がなかった。ただ、日比野の継ぎ接ぎのようであったのに対して、目の前のこの男は、予想外でも確実に、その口をぶれさせはしない。本物であると確信が出来た。
だからこそ、その問いや疑問が、事実と記憶の違いを表しているのだと思った。
「日比野……豊からです」
「おや、てっきり望ちゃんか奏君だと思ったよ。何だい、全く、酔っぱらいの発言くらい裏を取ればいいのに。お馬鹿さんだな、豊君は」
「酔っぱらい?」
「二十歳のお祝いにワインを樽で開けたら私の方が飲まされてね。有る事無い事言ってしまった」
しまったなあ、と日比野慎一は頭を掻いた。何を朗らかに親子の思い出を聞かされているのだろうと、首を傾ける他なかった。
「それで、本当のこと、知りたい?」
そう言って、彼は無邪気に不意をついた。初老の白髪が似合わない、丸い目をしていた。
「そう、ですね。聞きたいです。何故、ここに僕を迎えに来れたのか、とか。何故父に手を貸し続けるのか」
とか、と僕は彼の目を覗き返した。
「良いよ。丁度ご飯も来たし、食べながら行こうか」
そう言って、彼はもう一人の黒服から牛丼やらを受け取った。その全てを僕の目の前に置いて、自分はスーツのポケットを弄っていた。
「ではまず前者から行こう。これは豊君の生爪一〇枚入りセット。左手の方が肉と皮がよくついている。いやあ、痛覚も共鳴するのだと思っていたが、そうではないようで安心したよ。痛いのは可哀想だからね」
ウキウキと取り出したのは、ジップ付き袋と、それに入った一〇枚の人間の爪だった
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