第63話
いつもなら、幽冥の手を引いて、歩くところだったろう。母をマンホールに投げ入れたその日から、僕達の関係は今まで変化していなかった。それが今、変わろうとしているのだ。僕達は、人間であるうちは、変化に適応しなければならない。それが生物学的、哲学的なホモ・サピエンスだからだった。
「それじゃあ、そういうことで」
夏のアスファルトに季節外れの雪が溶けるように、当たり障りのない言葉が出てしまった。飲み会の終わりにも似た静けさと視線が、気不味くて仕方がない。ここにいる何人と、今生で再び顔を合わせるかはわからないが、それを気にしていられる状況でもなかった。
僕は先生に向けて一礼して、踵を返した。先生はついて行こうとする幽冥の首根っこを引いて、口を開きかけていた。
「ハラヤ」
頭上から声が聞こえた。目線を僅かに上へ向けたが、そこには誰もいなかった。声は脳で滲んで、日比野であったか、望であったかもわからなくなっていた。
不意に、人の気配が失われて、振り返ってしまった。
人はいない。住宅街から声は失くなっていた。この感覚には覚えがあった。幽冥の部屋で、望を初めて夢に見た時。日比野と初めて強く共鳴した時。あの夢を見る視界の中を、僕はいつの間にか歩いていた。
今、現実の僕は、路上で寝ているのかもしれない。だが、そんなことに意味があるとは思えなかった。今更、夢と現実に違いを見出せなかった。夢の中で触れていただけの和泉でさえ、今は生者のようにはっきりと僕にまとわりついていた。
触れる彼女の肉は、瑞々しいままで、骨は霧子よりも大人びている。黒い髪を揺らしながら、上半身を僕に寄せて、失われた下半身の代わりにしていた。鬱陶しくはあるものの、彼女がいる時は、他の死人が静かだった。そのせいか、僕は彼女のことを少しずつ受けれいれている節すらあった。恐らくは、先生の言う「強い怪異は弱い怪異を塗り替える」だとかが関係しているのだろう。和泉恭子という怪異は、すでに不完全な人魚といて固定されてしまっている。彼女はきっと、僕が忘れてしまうまで、この美貌の死体で在り続けるのだ。
「ねえ」
と、和泉が僕の耳元に息を吹きかけた。氷菓子のように、甘く、冷たかった。
「貴方、道はわかっているのかしら。それとも、宛てもなく彷徨っているだけ?」
「どっちだと思う」
「両方、かしら」
「二択に三つ目の選択肢を置くな」
「あら、白黒はっきりしてばかりでもないわよ、世の中は」
元教師としての性分か、彼女は大人びた語尾を唇に添えた。それに一瞬、酷く痛くて、暖かくて、冷ややかな、包丁の先のような何かを感じた。五秒、手が震えた。僕は和泉の首を両の手で握っていた。
「つまらないわ。二度目は慣れてしまって、飽きるものよ」
ケラケラと彼女は、折れた首を鳴らす。
「貴方、可愛いわね。私、好きよ、子供みたいな人」
生前からそうだったのだろう。彼女はゆったりと、その豊満な女体で、僕という男を誘おうとしていた。ただ、僕にも和泉にも、それを満たすためのアレそれが欠如していた。その自覚を持った瞬間、再び腕に力が入った。全身がこの女を拒絶していた。
「死んでいるくせにペチャクチャと煩い女だな」
僕の零した言葉を掬って飲み干すが如く、彼女はまた笑ってみせた。
「あら、元々、人間ってそういうものよ? 生きている時より死んだ後の方が、他人に強く訴えるものがある。本人がどう生きてたって、周りがそういうものとして、作り上げるのだから」
愛玩用のマネキンのように、和泉は唇を持ち上げた。何者にも愛されるように望まれた、そんな首だった。
「そうね、例えるなら、ジャンヌダルクなんて、良い例じゃなくて?」
「死後お前のような奴と並べられる聖処女も不遇なものだな」
そうねえ、と、妙に俗世的な語末で、彼女は少女らしい顔を僕に向けた。そのコロコロと変化する表情が、日比野を彷彿とさせる。
「貴方、本当に面白い表情をするわ」
互いに見ていた顔に文句を言い始めたのは、和泉の方だった。彼女の腕が、僕の背後に回る。それは抱擁に似ていた。何もかもを投げ出したくなるような温もりと、吐き気が混ざって、僕の肺を満たそうとしていた。
「……わかったぞ」
脳内では、何か、正解と呼べるものが生まれていた。汚泥と火が交わって出来た、赤子に似た、何者か。
「お前、そうだ、お前は、母さんに似ている。だから僕に憑いているんだな」
姿が似ているわけではない。在り様が、僕に向ける精神が、同じだった。子に対する執着という、言うなれば母性を、彼女は僕に向けている。僕が彼女に向ける嫌悪感も、かつてのそれに似ていた。
「正気?」
キョトンと、当の和泉は、折れた首を傾げようとしていた。予想外を訴えるには、些か言葉選びが奇抜ではあった。
「ねえ、それ、逆よ」
淡々と、彼女は言葉を置いた。
「貴方が私を通じてお母さんを想うから、私は貴方に取り憑かれたのよ」
縋り付かれたとも言うのだろうと、彼女は赤い舌を覗かせた。その時の清らかな桜色の頬が、かつて彼方の、まだ優しく僕を抱きしめていた頃の、母に似ていた。
「母さん」
口を滑らせた時には、僕の手から和泉は消えていた。街はいつの間にか、大通りの路地へと変貌していた。白昼夢の中、ただ歩いていたらしい両足から、心拍と共に血が流れることだけはわかった。
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