第52話
「――――兄弟? 待って、ハラヤって一人っ子でしょ。何よりアンタは、日比野豊で……苗字も、何も違うじゃない」
脳細胞の一つ一つが混線していた。私の知らないことが多過ぎる。
私は、この青年が何者かを知らない。
私は、ハラヤの意思が全くわからない。
何故私がここに連れられたのか、理解出来ない。
今起きていることの、根本を尋ねることすら、ままならないでいる。
「
見透かしたように、日比野はずいと顔を近づけた。その表情は、笑ってこそいるが、感情を表面で滑らせていて、仮面が、皮膚が、剥がれ落ちようとしていた。
「僕達は実の兄弟だ。僕はハラヤと同じ日、同じ胎から生まれた」
簡単な算数の問題でも解くように、彼はペラペラと口を回す。そのうち、スマホの向こうから、呆れを含んだ息が聞こえた。それを合図に、日比野が歩き出す。自然と、私の足もそれに着いていった。
「時に匡香ちゃん。一つ問題を出そう」
顔も向けずに、彼はそう笑った。私は乗せられるまま、その続きを待った。
「君のお義父さんの稼ぎは、一体どこから出ているんだろう」
「お義父さんの仕事……? 小説家よ、あの人は。そこそこ有名だもの、それなりのお金は……」
そう、私と義母は、養われている。あの人の文章に、ずっと、生かされているのだ。私が路頭を迷うことなく、恋に現を抜かすことが出来たのは、あの奇妙で無口な義父のおかげだった。故に、彼が裏で何をしていようと、見ていないフリに徹するしかなかった。
「自分と女の一生と、子供三人の独立までなら、それで足りるだろう。けど、そこに
殺人という言葉は、私の中にすとんと落ちていった。スマホからも、ハラヤの反論は聞こえない。
私は知っていた。ハラヤが、父親と小清水君の手で、殺人の跡を消し去っていたことくらい。どういう理屈かは知らないが、確かにその事実はあった。明確な記憶が、ずるりと海馬から引き摺り出される。私は、その大きな秘密に、守られた経験があった。
「そのお金の代わりに、アンタが差し出されたのね」
「そう、僕の養父は七竈
それだけの、担保になる価値が、この青年にはあるらしい。今日の朝から聞いている「神になる」という戯言が、大真面目な話であることはわかった。ハラヤは神となることを望まれているし、きっと、今もその道を確実に歩んでいるところなのだろう。
「羨ましい限りね」
ポロと口の端から零れた言葉は、そのまま日比野の耳に届いた。彼はふと足を止めて、振り返った。
「どうも君は無駄に自己評価が低いらしいな。羨ましいなんてとんでもない。見方を正せば、僕は必要ない存在だったんだよ。赤子が二人いて、片や大切にお金をかけて育てられ、片や煮るなり食うなり好きにしろと売り飛ばされる。悲劇的と言わざるを得ないじゃないか」
直感で、これが茶番だとわかった。大げさな手ぶり身振りに、思ってもいないことを語る口。この青年の何処を切り取れば、悲劇などと言えるのか。私には彼の全てが、薄い紙芝居のそれにしか見えなかった。
「それで、アンタはどうしたいの。本音は何処にあるの。アンタも、神にでもなりたいわけ?」
冷えた舌先からは、問いが漏れた。恐怖も敵対心も無い。純度の高い疑問符は、私の視界をより明瞭にしていく。
「そうだね、最終段階としては、神様になりたいと思うよ。そうすれば、兄弟で同じ存在に戻れるからね」
その言葉を聞いた途端、また口元の筋肉が緩んだ。笑ってしまっていたのかもしれない。嘲笑の気配は感じていた。
「うそつき」
たった四文字、浮かんだ言葉を吐き出した。
一拍遅れて、右の頬に大きな衝撃が走った。バランスを失った身体は、背から土の上に落ちる。
「お前、何なんだ、一体」
見上げた先、日比野は無表情で立っていた。否、目尻と口元には、僅かな恐怖と怒りがあった。今の彼を見れば確信できる。日比野豊と七竈
「神になれば、ハラヤと同じになる? 違う。そんなこと本当は欠片も思ってない。本心はもっと別。家族とか、血が繋がっているとか、そういうものには微塵も興味が無い」
私が他人に対して"察する"ことを求めてしまうのは、これのせいだ。私は鏡。私は代弁者。他人のことを"察しすぎる"、そういう人間。
「アンタにはまず"人間ではないもの"にならなければならない理由があった。その手段にハラヤが存在した。そうして関わってるうち、
日比野が隠し持つ凶器への恐れは無かった。彼は自分自身の中身を見せつけられている。手も、口も、動く未来はなかった。
「アンタが本当に、人を辞めたかった理由は何?」
思い出すべきだと思った。私の中には、この青年を救いたいという精神があった。いつそれが生まれたのかはわからない。けれど、一瞬でも、私の中には慈愛があった。
「それは」
小さく、口が動いた。金平糖でも含ませたくなるような、幼い口元だった。
「『それは、正しく愛情と呼ばれるものに起因していた』」
二つの声が揃った。日比野の言葉と、電波の向こう、ハラヤの言葉が、重なっていた。
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