第37話

 日比野から血が流れなくなった頃、僕達は既に店を後にしていた。黒いワゴンの中に、会話は無い。度々、日比野の方から他愛もない言葉を投げられこそしたが、僕はその全てに耳を貸さないと決めていた。代わりに、僕は別荘までの道順を、単語で示した。

 次第に、うつらうつらと頭が前に向かう。意識が、少しずつ落ちていく。


「ねえ、案内が無いと辿り着けないんだけど」


 日比野が、眠りに堕ちようとする僕を笑った。


「山道に入ったら、そのまま道が無くなるまで進め。一時間はかかる。道が無くなったら起こせ」


 彼が、はいはいと応えたのを横に、僕は瞼を閉じた。石の道を辿る車体は、ゆりかごのように揺れている。

 夢へと落ちる焦りは、不思議と僕の中から無くなっていた。


 ――――そうして、深く、息を吸う。僕は運転席で、昨日買った本を片手に、缶コーヒーを啜った。ふと、助手席に視線を移す。僕の隣では、学ランを着た少年が一人、脂汗を垂らして蹲っていた。腹部を抑え、彼は細く震えていた。少年の息が短くなるごとに、隣席のシートには赤い水溜まりが広がっていく。静かな時間だった。クーラーを効かせた車内は、アパートの自室よりも快適だった。広がり続ける血溜まりに、心底、防水シートを買っておいて良かったと思う。

 少年は動きこそしないが、まだ息があった。当たり前のことだ。素人が自分で、下腹部に包丁を突き立てて切り開き、内臓を露出させた程度で、人は死なない。案外頑丈なのだ、人は。

 初めて見る自刃の光景も、時間がかかり過ぎれば飽きがやって来る。僕は席を立って、車外へと出る。私有地である山の、その最奥には、錆びた鋸と、新品の鉈、それを隠す様に萌える木々が並んでいた。蝉の声が煩い。空の一番上には、白く忌々しい太陽があった。

 暫くの深呼吸の後、僕は車体――――黒いワゴンの表面に指の腹を立てて、緩やかに滑らせた。背後のドアまで辿ると、僕はバックドアを開けた。

 その中には、理路整然とダンボールやゴミ袋が並べられていた。特に目を引いたのは、巨大なクーラーボックスだった。

 箱の、蓋を開ける。冷気が、足元を這う。この感覚には、順応を越え、一種の快楽が過ぎた。

 クーラーボックスの中に詰まっていたのは大量の保冷剤――――と、それに埋まって、楽し気に笑っている和泉だった。彼女はクスクスと唇を歪めて、僕に冷えた赤いネイルを差し出した。その下半身は妖艶な魚体であった。魚体に散乱する鱗は夏の日差しを乱反射させ、虹色に輝いている。毛の無い哺乳類の皮膚と、現実にあり得ない骨格の魚類は、赤い糸で雑に縫い付けられていた。

 僕は和泉の誘いを無視して、その肉の隙間をなぞった。指先には、冷たい氷の感覚だけがあった。


「邪魔だ、クソババア。どけ。いつまでも汚いものを見せるな」


 僕は、自分でも頬が痛いくらいに清々しく、和泉を笑った。すると、彼女は堰を切った様に冷たい息をぶちまけた。気の散る甲高い嬌声だった。


「調子乗ってんじゃないわよ、クソガキ」


 ケラケラと、開いている彼女の喉の奥に、僕は胸ポケットのボールペンを突き刺した。


 視界に、黒い体液がかかった後、僕の目の前には、シック調のタイルが並んでいた。重い上半身を起こす。額と前髪から、覚えのあるシトラスの香りがした。息を深く吐いて、ベッドから身を出した。服は清潔で質の良いパジャマに変化している。空気も、人間といては心地良い温度に保たれているのが分かった。数歩前に出て、樫の木で作られた戸に触れる。この向こうにあるのは、廊下と、高尚な調度品である。見ずともそれが分かる程に、僕はこの場所の正体を知っていた。

 扉の向こう、近づく足音と、僅かなティーセットの擦れる音。僕はドアノブに手をかけ、そっと押した。

 足音が、リズムが止まる。スリッパに焦点を合わせ、そのまま視線を上へと延長する。


「おはよう、ハラヤ君」


 少しの間を置いて、その中年女性は、朗らかに口角を上げる。彼女は七竈政子――――僕の義母であった。


「大丈夫? 体、重くない?」


 死にかけの蝉のように、小さく震える義母は、首を折られる直前のネズミのそれとも似ている。


「今、何時ですか」


 僕が問い返すと、彼女は笑顔を作り直した。赤い口紅と、疲れの見える目元の皺が、顔の中央に寄る。


「夕方の五時よ。着いてから、一時間くらい眠っていたかしら」

「そう……ありがとうございます」


 以前までのような、長時間の睡眠ではなかったことに感謝する。僕は義母の持っていたティーセットからカップを一つ取り、茶を三口分注いだ。口元に運べば、これが香り豊かな上質の紅茶であることに気づいた。カップの数は、僕が取った分を含めて三つで揃えられている。


「喉が渇いていたのね。待って、ハニーミルクを作るわ。その方が喉に良いでしょう」


 そう言って、彼女はキッチンへと踵を返した。僕はそれに続いて、冷凍庫の中にアイスクリームでも入っていないかと、期待を膨らませた。

 廊下の壁を撫でてて十数歩、清浄なLEDの白光が漏れる部屋へと辿り着く。一人で使うには広く、物も多いキッチンでは、見知った顔が二つ、立って甘味を漁っていた。


「七竈」


 リスのようにクッキーを口に運んでいたのは、小清水だった。彼は僕を見ると、その手を止めて、安堵を表し、目を細める。その後ろには、僕を横目に悠々とコーヒーを啜る日比野がいた。


「良かった、あまり深く眠るものだから、目が覚めないかと思ったよ」


 輝かない瞳を細く覗かせて、日比野が言った。


「……ここに来る道順を知っていたのか」

「大きいお屋敷が見えたから、ここかなと思って目指したら、たまたま当たっただけだよ」


 軽々と口にする彼に、僕は意識的に視線を送る。その間で小清水は、オロオロと交互に僕達を見ていた。いつの間にか新しいティーセットを準備している義母は、完全に僕のハニーミルクを忘れている。


「まあ、よかったよ、七竈が無事で。日比野もありがとうな」


 小清水が、僕達を引き寄せてはにかんだ。視界に近づいた日比野の胸ポケットには、一点物を思わせる装飾のボールペンが差しこまれていた。

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