逃走

 廊下を埋めた制服が、奥の方まで連なっていた。クラン捜索に呼び集められた宮廷衛士だ。声を掛けたのは数人だが、キャスロードが廊下を走る間に、やれ戦かと思うほど集まっていた。

「暇なの、こいつら」

 呆れて呟いたのはコルベットだ。

 最前列のキャスロードには、前の衛士の胸元だけが見えた。列の後ろに届くのは声だけだ。きっと、頭の天辺さえ見えないだろう。傍らに控えたマリエルとコルベットさえ、隠れてしまっている。

 抱え上げましょうか、とマリエルが言うと、キャスロードは真っ赤になって手を跳ね退けた。

「あと、目が隠れるくらい、髪が長くて、」

 爪先立って、ふらふらしながら、キャスロードは大声で説明を続けていた。丸めた背中、大きな手、惚けた口許と無精髭、吃驚するくらい子供っぽい目。脳裏の顔を言葉するのがもどかしい。

「ここにあるのを、こう、ぴぴっと見せる術はないのか」

 額に指を突いてコルベットを振り返る。

「まだ習っていませんねえ」

 投げやりな半眼の表情でコルベットは肩を竦めた。

「あるのか?」

 隣のマリエルが驚いてコルベットに囁いた。

大魔術師メイガスくらいなら、できるんじゃないの」

 きょとんとした顔で相方を見返した。

「モルダスさまはご不在じゃないか」

「何よ、見せたい相手がいるってか」

 小声で言い合う二人を無視して、キャスロードは衛士に向かって檄を飛ばした。

「何がなんでも捕まえて、我の前に連れて来るのだ」

 応、と野太い応の声が唱和する。コルベットが、うへえ、と顔を顰めた。

「それでは皆、」

 采配を振ろうと手を掲げた折、ふと、キャスロードの視線が窓の外に向いた。棟の中庭の芝の上を、煤けた灰色が横切って行く。背中を丸めて小走りに駆けるのは、紛れもなくクラン・クラインだ。

 がしゃん、とキャスロードが硝子に張りついた。

 その音が届いたのか、クランが振り返って窓を見上げる。目が合った。一瞬、呆けた顔になり、クランは口が裂けたように笑った。ひらひらとキャスロードに手を振ると、踵を返して逃げ出した。

「あれだ、捕えよ」

 キャスロードが声を上げた。廊下を埋めた衛士たちが一斉に窓に群がった。潰さたキャスロードが悲鳴を上げる。巻き添えになったマリエルとコルベットは、容赦なく衛兵を蹴り退けた。

「追、捕」

 前列の衛士が号令を飛ばした。当り所が悪かったのか、股間を押さえて飛び跳ねている。

「追、補」

 おかしな間の復唱が廊下の端まで流れて行った。磁石を見つけた砂鉄のように、衛士が窓から離れて駆け出した。反動で廊下に転げ出たキャスロードが、はしゃいだ声で衛士を煽る。

「行け、逃すな、捕まえるのだ」


 王女殿下は随分ご立腹のようだ。クランが笑いながら振り返る。

 二階の窓の一面に、無数の衛士が張り付いていた。驚いて足が取られた。どうにか転けず堪える間に、ひとり残らず消え失せた。妙な静寂に惚けていると、その衛士たちが一階に雪崩れ込んで来る。

 クランは悲鳴を上げて逃げ出した。

 芝の上を走りながら横を見る。窓越しに幾人もの衛士と目が合った。廊下が埋まるほど大勢いる。クランは辺りを見回して、窓を背に方向を変えた。向かの棟に逃げ込もうと走る。

 衛士は猛然と速度を上げ、中庭の出口から飛び出した。後続の衛士が窓を開け、芝の上に溢れ出る。無数の衛士がわらわらと追って来た。中庭を一直線に横切って、クランは棟に逃げ込んだ。

「捕まえろー」

 山のような衛兵に埋もれて、キャスロードのはしゃいだ声がする。棟の扉口に衛士が突っ込み、すぐに閊えて溢れ返った。廊下で追手を振り返り、クランは呆れたように呻いた。

「暇か、こいつら」

 廊下に飾りの大花瓶を見つけたクランは、咄嗟に花瓶の首を抱えた。浮かせた底に足を蹴り入れ、衛士に向かって転がした。割れこそしないが水が散る。大花瓶は弧を描いて転がって行った。

 最前列の衛士に手を振り、クランは横手の階段を駆け上がる。廊下を浸した花瓶の水も、花も、大花瓶そのものも、子供騙しの悪足掻きだ。ただし、後続が全力で走って来さえしなければ。

 クランは踊り場に立ち止まり、怒号と陶器の割れる音に聞き入った。怒涛の階下を見おろすと、縺れた衛士が押し流されて行く。何ごとかと部屋から顔を出した女官が悲鳴を上げた。

 幾人もの衛士が闘志に任せて身を起こし、這い上がろうと階段を見上げた。踊り場に飾られた、王都に名を冠した英雄の彫像と肩を組み、クランは口が裂けたような笑顔を向けた。

 地獄のような沈黙の後、悲鳴と怒声と派手な破壊音を背中に、クランは意気揚々と二階に駆け上がった。いや、待て。いつぞやと似た嫌な匂いがする。目を眇めて廊下を覗き込む。

「確保」

 不意に響いた声と同時に、岩雪崩のような人の塊に押し潰された。突っ伏したクランの上に、勢い衛士が積み重なって行く。呼吸どころか、身体の中味が全部出そうだ。ぴくりとも動けない。

「大儀である」

 元気な声が労った。

 床に垂れた前髪の隙間から、紅いブーツの爪先が見えた。抑え付ける手に逆らって首を反らせると、満面の笑みがある。傍には、呆れた困り顔と、うんざり顔で息を切らせた少女が二人。

「観念するのだ、クラン・クライン」

 キャスロードが平らな胸を張る。してやったりと有頂天だ。

 ふと、背中に不穏な気配を感じて、マリエルとコルベットが背筋を伸ばした。恐る恐る振り返り、声もなく竦み上がる。反っくり返って笑うキャスロードを残して、海老のように脇に退いた。

 隙のない黒衣、引っ詰めた黒髪の女官が、キャスロードの背後に歩み寄る。時計のような靴音に、絶好調のキャスロードは気づかない。血の気の引いたクランを見て、初めて後ろを振り返った。

「講義の時間に何をしておいでですか、殿下」

 宮廷女官次長エレイン・オーダーは、底冷えのする声でキャスロードにそう訊ねた。

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