遅刻
道に迷った。言い訳のようだが、本当のことだ。
クラン・クラインは講義室を探して、宮殿の中を彷徨っていた。広すぎるのが悪いのだ、と勝手に独り腐っている。自分が講義室のある右翼ではなく、左翼棟に入ってしまったことに気づいていない。
つまり、最初から迷走してる。
考え直す訳でもなく、誰かに道を訊く訳でもない。歩けばそのうち見つかるだろう、などと、深く考えもしない。迷子の典型だった。内心、辿り着けねばそれでもよし、と不埒なことも考えている。
擦れ違う衛士や侍従たちは、クランに不審の目を向けた。しかし、首には入館符、襟には公務徽章がある。わざわざ誰何する者はいなかった。懐に入れば遠慮が勝る。品が良いのも考え物だ。
官舎を出てからずいぶん経った。講義の時間も過ぎて行く。
どのみち、このまま行き着いたとしても面倒は避けられない。キャスロードはもとより、気難しいパルディオも来るという話だ。とうとう歩くのも面倒になって、クランは手頃なベンチに座り込んだ。
目の前は広い中庭だ。水辺や庭園が拵えてあり、外周を回廊が巡っている。両翼棟の中央辺り、要は振り出しに戻っていた。ぼんやり景色を眺めながら、クランは逃げ道と言い訳を思案した。
「クラン、クラン」
低く通る声が名を呼んだ。
黒髪に銀のひと房を引いた美丈夫が、回廊を姿勢よく大股に歩いて来る。記憶を辿りつつ目を眇めて見れば、ラルク・マッカーノだ。白い衣装がコックコートなら、すぐわかったのに。襟のある制服を見る限り、とうとう宮廷衛士入りは断り切れなかったらしい。
「変わらない、変わらなさすぎるな」
背中を丸めたクラン・クラインの向いに立って、ラルクは笑った。
「こっちの科白だ」
軽く流してクランは肩を竦めた。
「それより」
ラルクの徽章を指して問う。一兵卒ではなさそうだ。ラルクは困ったように頭を掻いた。宮廷衛士は帯刀を許されているが、実際は棍を携える。宮殿で佩刀するのは、儀式場に並ぶ隊長の位だ。
「指揮隊長だ、近衛第九隊の」
近衛は一応、名誉職だが、恨めしそうなクランを見る限り、仕官を祝う気はなさそうだ。大方、ラルクの勤める厨房に乗り込み、賄いにありつこうと目論んでいたに違いない。
「食えない肉を切る刃物は好かん」
クランの臆面もない皮肉に、ラルクは苦笑するしかない。
「そう言うな、隊長の特権も悪くない、詰所を俺の好きにできる」
高い襟を手前に引いて、ラルクは宮廷衛士の徽章を弾いて見せた。
「厨房もな」
束の間、徽章と中庭に交互に目を遣って、クランは何か思案した。
「そんなに言うなら見せて貰おうじゃないか、ついでに腕が鈍っていないか見てやろう」
偉そうに言って、徐に腰を上げる。
「そんなには言った覚えもないが」
勤務中だと言う間もあらば、クランはラルクの腕を引いた。一〇年振りの気後れも、大人の遠慮もまるでない。行き先も知らないまま歩き出すクランを小突き、ラルクは仕方なく詰所の方角を教えた。
思えば、そうだ。ラルクはそっと溜息を吐いた。性根は酷い人見知りの癖に、慣れた相手は子供のように振る舞う。ものぐさで、不真面目で、権威に対してはへそ曲がり。しかも、いつも腹を空かせている。
近衛第九隊の詰所は右翼棟の先にあった。戻るには早いが、不審者を連行すると思えば任務の内だ。幸い、今日は儀典も警護もない。門下の修練も休みだ。仕込みの味見くらいは、よいだろう。
「それはそうとクラン、おまえモルダスさまの件で呼ばれたのか?」
道々、ラルクが訊ねる。陛下の儀典を逃げ出したあのクラン・クラインが、理由もなくワーデンに、ましてや宮殿に寄り付くはずがない。一時は宮廷の面子を賭けた大捜索が行われたほどだ。
「当たらずとも遠からずかな、サルカンが原因であることには間違いない」
他人事のように応えたかと思えば、渋面でラルクを見る。
「あいつが見つかればこっちは窮屈な思いをしなくて済むんだ、何か捜査に進展はないのか?」
「ない」
にべもなく即答して、ラルクは肩を竦めた。
「と言うより、わからん、こちらはただの下働きだ」
魔術大国リースタンにあって魔術師の権勢は相当に高い。宮廷衛士隊など使い走り程度にしか思っていない。しかも彼らは根が秘匿気質だ。こと
「殿下に関わらなければ、こちらにも伏せられたままだった」
「殿下に」
問い返す途中、クランは言葉を途切らせた。何かに思い至ったのか、苦い顔をする。
「何やら殿下に関する書き置きがあったらしい」
王族に絡む事柄は、いずれ侍従と衛士に影響する。ことキャスロードは人気が高く、衛士の士気も尋常ではない。素直で飾り気がなく、よい意味で子供っぽいところが受けているのだろう。
ラルクはふと、クランを眺めた。微妙な既視感に得心が行った。恥ずかしがり屋と跳ねっ返りの二つの顔は、キャスロードと同じだ。むしろ殿下がクランに似たのか。因果なものだ。
「クラン、殿下も大きくなられたぞ」
「知ってるよ、年寄りくさいことを言うんじゃない」
呟いたラルクに、クランは拗ねたような目を向ける。
当時のクランはどういう訳か、キャスロードに大層、懐かれていた。不意に行方を眩ましたものだから、殿下は酷く大泣きして、両陛下を大いに狼狽えさせたものだ。あのエレインさえ困り果てていた。
彼女の愚痴を聞いたのは、多分あれが最初で最後だ。
「そう言えば、二人にはもう会ったか?」
「ラエルには会った」
そう応えて、クランはまた渋い顔をする。
「あいつ、ずいぶん賢しくなったな」
「本の虫は変わらずだ、むしろ酷くなったようだ」
「エレインは面倒を見てくれないのか?」
クランの科白に、ラルクは寂しいような気後れしたような、複雑な顔を見せた。クランが片方の眉を上げて問うと、ラルクは小さく頷いた。クランは小さく肩を竦めて、立ち入らない方がよいと悟った。
「それより、おまえは何処にいたんだ」
「西とか南の方かな、色々」
「マグナフォルツの辺りか? 戦さ場にでも行っていたのか」
西の隣国は
「前にいたのはテランだな」
それは南端、夜族や精霊の住処に近い大陸の反対側にある。伝説の債権王が築いた連合国で、最も離れた国家でもあるが、共に古くから人外の逸話に絡むとあって交流は深い。
「ずいぶん遠い、よく帰って来たな、債務王はご健在か?」
「元気そうだった」
「そりゃよかった」
ラルクは笑って受け流した。相変わらず虚実とり混ぜたクランの言説は、冗談の境が分かり難い。伝承を集めて回る似非歴史家と嘯いていたが、その実、本当であったりするから侮れない。
「隊長殿」
遠目にラルクを見つけたのか、棍を携えた衛士が二人、駆け寄って来た。右翼棟の警邏に就いているはずの第八隊だ。この辺りは巡回路が違う。ならば、何かの案件だろう。
「廊下を走るな、女官次長殿に睨まれるぞ」
ラルクに言われて、衛士はぎこちない早足になった。宮廷でエレインの名はよく効く。
「城内に不審な者がいると、殿下が」
ラルクの前で衛士が告げた。
「殿下が?」
「はい、痩せた男で髪は黒、惚けてにやけて生意気だとか」
「何だ、さっぱりわからんな」
呆気に取られて呟くものの、途中で嫌な予感がした。それに当て嵌まらなくもない。振り返ってクランに目を遣る。
姿がない。
慌てて辺りを見渡すと、手近の扉を飛び出して、中庭を走って逃げて行くところだった。
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