第49話 破滅の唄(3) アレス
――天上界 アレスパレス ゴーティングルーム
アレスパレスにある執務室たるゴーティングルームは、天使たちが慌ただしく走り回り、情報の収集に追われていた。いや、ゴーティングルームだけではない。アレスパレス全体が、たった今混乱状況に陥っていたのだ。
アレスの管理世界たるレムリアのある遺跡に封じた最悪の悪神、腐王がよみがえったとの報告に一時、アレスパレスはパニックに陥る。
腐王はまがりなにも神格を有する神。しかもそれなりの力を有している。アレスが期待を寄せている勇者マシロや中央教会パンドラ枢機卿でも討伐は不可能。なにせ、腐王は限りなく不死に近い存在。やつを殺しつくせるだけの力が必要なのだ。現に過去のアレスでさえも、完全に消滅させることができず、封印という手段を取らざるを得なかったのだから。
一度解き離れた以上、腐王との戦争はまず避けられない。腐王の軍の不死軍はそれなりに強力だ。アレス軍にも相当な損害がでる。
「腐王の不死軍はどうなりました?」
姑息な奴のことだ。今頃、周辺のバベルを飲み込み己の支配下に入れていることだろう。特に奴は相手に呪いをかけて不死の化け物にした上で従わせるという厄介な能力がある。このまま手をこまねいていれば人界に対する損害は想像を絶することとなる。
「そ、それが……」
配下の天使はいかにも不可解とでも言いたげな表情を浮かべながら、口ごもる。
「どうしたのです?」
アレスも眉を顰めつつ尋ねるが、
「腐王の不死軍が全滅した模様です。腐王の姿も跡形もありません」
天使は到底信じるに値しない戯言を口にする。
「はぁ? 今、何と言いました?」
思わず聞き返すが、
「ドーム状の黒霧が立ち込めてしばらくして、腐王や不死軍はもちろん、腐王封印の神殿自体が綺麗さっぱり消滅し、更地と化しています」
やはり天使は戸惑いつつも、はっきりと断言する。
「いやいや、あの神殿はヘルメス様のお造りになったものですよッ!」
そう。あの神殿は依然から親交のあった神々の中でも最高位の力を有するヘルメス神に作ってもらった特別性。力押しでは腐王程度ではびくともしない。あくまで封印が解かれたのは、何者かが儀式を行って条件をクリアした結果のはず。
「事実です。神殿跡は更地のみで、草木一本生えておりません」
「そんなのありえないっ!」
「実際にご覧ください」
噛みしめるように答えながら、天使は執務室にレムリアにバベル、【華の死都】エリア5の封印の遺跡の映像を映し出す。
「そんな……馬鹿な……」
そこは文字通り、大きな球体上に更地となっており、遺跡どころか、建物一つない。ただその中心にはぽつーんと木製の大きなテーブルだけがまるで取り残されたかのようにさみしく放置されていた。
「何が起こっているです?」
自問自答してみるが、適当な答えは見つからない。ただわかっているのは、あの封印施設はヘルメス神の創作物。天上界内でも傷をつけることができる者は限られている。下界のものたちでは猶更不可能だろう。つまり、下界のあの場所で何者かが腐王もろともあの遺跡を消滅させた、ということだろうか。だが、そんな無茶苦茶、下界ものにできるはずが――。
思考が迷路に迷い込もうとしたとき――。
「コリント様がお目通りを願っております」
慌ただしくゴーティングルームに門兵の天使が入ってくるとアレスの前で跪いて報告してくる。
「今は緊急事態、後にできませんか?」
どうしても声に憤りが混じってしまう。
この門兵、今のエマージェンシーの状況を理解しているんだろうか? 管理世界たるレムリアが今未曾有の危機に陥っているというのに!
「私もそう申し上げたのですが――」
門兵が言いにくそうに返答したとき、
「こ、困ります、コリント様! ただいま緊急事態で――」
扉の奥から
勢いよく扉が開かれて、体格のよい金色の髪を頭頂部以外綺麗に刈っている男性がズカズカとゴーティングルームに入ってくる。
彼は中位天使コリント。主に中央教会の調整役にあったもの。具体的には神託として人族のギフトの発現や、下界全体にとって危険性が強いと判断されたギフトホルダーの監視を命じていた。ただ、特定のギフトホルダーを中央教会に命じて冷遇させるなど、最近少々目に余る行動が目立っており、厳重注意を言い渡したばかりだったのだ。
今コリントが来たのはおそらく、その件についての抗議だろう。
それにしても、今まではコリントは確かに行き過ぎた行動が目立ってはいたが、神に対する敬意を忘れるようなものではなかったのだが。
「コリント、今は取り込み中です。抗議ならあとでゆっくり聞きますから今は――」
「こうぅぅぎぃーー??」
ケタケタと薄気味悪く笑いだすコリントに、
「何が可笑しいのですっ?」
眉を顰めて尋ねるが、やはり、コリントは一言も答えずただ笑うだけ。その異様な姿に周囲の天使たちからもざわめきが上がる。
そして、ピタリと笑うのをやめると、右脇に抱えていた布の包みを開く。
「ッ!?」
それは髪を剃った人間の僧侶の頭部。
『ベルゼバブデブー♪ ベルゼバブデブー♪
ブーブー、ブーブー、バブバブ♬』』
その僧侶の頭部はカット目を見開き、奇妙な鼻歌を歌い、コリントは奇怪なダンスを踊り始めた。
――ゴシュ! ゴギッ! グチュ!
ゴーティングルームに響き渡るコリントの骨が砕け、肉が裂ける音。
あまりに異様な光景にしばし、あっけに取られていたが、
「止めなさい、コリント! お前たち、コリントを早く拘束しなさッ‼」
弾かれたように、踊りをやめさせるよう叫ぶ。天使たちがコリントに組みかかわるが、凄まじい力で吹き飛ばされてしまう。そして、死の演舞は続く。
『ベルゼバブデブー♪ ベルゼバブデブー♪ ブブデバブデブー♩
ウジウジしていて、とっても臭い蠅の中の蠅、キングオブ蠅♬ それがバブぅ♫』
コリントの全身はすでに原型をとどめないほど潰れて、蠅のような姿へかわってしまっている。
「これは他神からの攻撃ですっ! もう手遅れですっ! コリントから離れなさい!」
そう指示を出したとき、コリントだったものはピタリと動きを止めると、
『我らが偉大なる
荘厳に宣い脱力する。そして、
『これは至高の
無機質な言葉を吐き、コリントだったものは大気を震わせるような咆哮を上げると、近くの門兵に近づくと、四本の手でその前身を押さえつける。そして口から触手を伸ばす。
「ひぃぃぃッ――くけッ……」
触手により頭部を貫かれ、門兵はビクンビクンと痙攣していたが、突然直立すると奇妙な踊りを踊り始めた。
「早急に
アレスの上ずった声での指示により、アレスパレスの全勢力は侵入した怪物の排除へと動き出す。
「ダメですっ! これ以上は持ちませんっ!」
次々に生まれる蠅の怪物にすでに、ゴーティングルームは占拠されてしまっていた。
「持ち堪えなさい!」
泣き言をいう配下の天使に有無を言わさぬ声色で言明する。
こんなものがパレス全体に広がったら、アレスの神民にも甚大な被害がでる。下手をしたらパレス全体がおぞましい蠅の楽園と化すかもしれない。
(それだけは絶対に許しません!)
悪から己の神民を守れない神などもはや神ではない。それはアレスの完膚なきまでの敗北を意味する。ここで食い止めるしか術はない。
おそらく、あの中心にいるコリントだった蠅が核。あれを倒せばこの悪夢の惨劇は終わりを告げる――はずだ。
コリントだったものに向けて全力で疾駆すると、神剣アラタを奴に向けて渾身の力で振り下ろすが、右腕のかぎ爪のようなもので、いとも簡単にいなされてしまう。
(こ、これは神剣アラタですよっ! なぜ切れないのですかっ!)
自問自答してみるが、納得のいく答えなど得られるはずもない。当然だ。神剣アラタは、ヘルメス神が鍛えた剣。天上界でも至宝とも称される奇跡を内包した剣だ。それがこうも易々と弾かれるなどあってはならない。しかし、こうして現に――
ぐるぐると目まぐるしく変わる思考の渦の中、
「ぐっ!」
腹を蹴り上げられ、壁にたたきつけられて巨大なクレーターを造る。
初めてともいえる全身がバラバラになりそうな激痛に顔をしかめつつ立ち上がる。ここでアレスまで負けてしまえば、すべてが終わる。何としても勝たねばならぬ。
震える手でアラタの剣先をコリントだっものに向けて、アレスは床を全力で蹴り上げて、敗戦濃厚な戦いに身をゆだねた。
満身創痍。すでにアレスの全身で傷を負っていない場所などない。ただ、己の使命感と誇りのために、アラタで体を支持しながらも立ち上がる。
奇妙なことに、少し前から蠅の怪物の集団は部屋中の天使を襲うのをやめて遠巻きにアレスとコリントだったものを眺めるのみ。
「私は倒れない! この肩には神民の安永がかかっているのだから!」
声を張り上げて、最後の力を振り絞ってアラタの剣先をコリントだったものに向けたとき、蠅たちはコリントにその傍に集まり数列に並ぶと、一糸乱れぬ踊りを踊り始めた。
『バブバブ~♪ ブーブー♪ ベルゼバブデブー♬』
全員は踊りながら唄を口遊む。そして、奇怪なポーズをとると、
『制裁コンプリーーーートォォォーーー!』
コリントだったものはそう叫ぶと、グネグネと今までにないほど体を屈曲させていき――。
――ボシュンッ
粉々にはじけ飛んだ。
「終わった……のですか?」
今まで張りつめていた糸が切れたかのように、腰に力が入らずペタンと尻もちをついて、そうつぶやく。周囲を見渡し、あのおぞましい生き物が一匹たりとも存在しないことを認識したとたん、深い霧の奥へとすいこまれていく。
目を開けると、そこはアレスパレスの医務室。
見知った老神が厳粛した顔で、こちらを眺めていた。
「デウス様……?」
この老神は大神デウス。誰もが天上界最強と認める神の王。本来ならお目通りすら叶わぬ雲の上の御方。デウス様が上級神に上がったばかりのアレスパレスを訪れるのは、アレスがデウスの孫だから。
「アレス、何があった?」
デウス様の疑問に、
「何……が……ッ!?」
突然、あの悪夢のような出来事が脳裏にはっきりと思い起こされ、ベッドから転げ落ちると、這いつくばり、何度も床に嘔吐する。
忠実な配下の天使を助けられなかった悔しさと、自身のあまりの無力と不甲斐なさ、そして敵に感じてしまった恐怖に、両手で喉を搔きむしりながら、涙を流したのだった。
暴風雨のような激情が収まり、ようやくまっとうな思考がアレスに戻ってきた。そして、デウス様に事の経緯を説明し始めたのだ。
「蠅の怪物か……まさかのぉ。いや……ありえぬ。あ奴はあのイカレたダンジョンに封印中のはずじゃ。何より、プライドの塊のようなあ奴が至高の御方など口にするはずもない」
デウス様は何度も首を左右に振って独り言ちる。
「デウス様?」
「おお、心配いらぬ。その相手はお主にはちと荷が重い。あとは儂らが請け負おう。この件から手を引くんじゃな」
デウス様はアルスの背中をポンポンと叩くと、退出して行ってしまった。
「手を引けですって?」
そう自問してみたが、口から飛び出したのは乾ききった笑い。
「できるはずがない! ええ、できるはずがありませんともッ! 必ず、必ずや――虫けらのように殺された部下たちの仇、取って見せますよっ!」
アレスは両拳を強く握り、声の限りに叫んだのだった。
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