第83話

 矢崎さんと入ったのは、先日と同じ料亭だった。


「この前は酒しか飲まなかったろ。ここはメシが旨いんだ。好きなもの頼め」

 そう言うと矢崎さんは飲み物のお品書きを開いた。本当にお酒好きだな。

 私は楽しそうな矢崎さんに心和ませながら、お勧め含めていくつか注文をした。


「で、不機嫌の理由はなんだ」


 最初の乾杯後それを飲み干し、矢崎さんが切り出した。


「不機嫌、って……」

「苛ついてたろ。お前が最後に開いてた資料、今の時点で見ても仕方ないものだぞ。そんなもん開いてまで居残るなんてお前らしくもない」

「よく分かりますね……」

「だてに何年も惚れ続けてたわけじゃないよ。俺に隠し事出来ると思うなよ」


 びっくりして思わず矢崎さんを見つめる。私をずっと好きだったと言ったのは、嘘じゃなかったんだ。


「なんだその顔……、信じてなかったのか? 俺が前に言ったこと」

「……すみません、話半分で聞いてました」

 正直な感想で答えると目の前で頭を抱えられた。

「だから言っただろ~、俺のこと理解してくれてから返事してほしいって」

「すみません、分かってるつもりでいたので……」

 これも正直な気持ち。今の部の中で、矢崎さんと一番付き合いが長いのは私だ。だから十分分かっているものと思っていたのだ、本気で。


「まあいいよ、それはお前だけのせいじゃないから。……立花とのケンカの原因は、親父さんの件か?」


 いきなり話が戻る。そして父の顔が思い浮かび、すっと頭が冷めた。


「父の件、来人に話してくださってありがとうございます。自分からは……多分切り出せなかったと思うので」

 私は小さく頭を下げる。いやいや、というように矢崎さんが手を振るのが見えた。

「勝手に話して悪かった。事前にお前に交渉したら、気を使って拒否されると思ったんだ」

「ですね、多分……。あくまで家族の問題ですから」

「立花はなんだって?」

「矢崎さんのご提案に賛成だそうです。自分と矢崎さんで父との折衝を受け持つと。常務にも親子であることは社内的に伏せて欲しいと話すって」


 矢崎さんは手酌で日本酒を注ぎ足しながら頷く。


「常務のことまで考えたか。流石だな。あいつ、頭いいよな」

「そうですね」

 私も頷き返す。頭がいいというか気が回るというか、人の考えまで読んでくるというか。それに助けられてきたはずなのに、今は来人の敏さが私の傷に触れてくる。


「で、お前は賛成してくれるんだな? 親父さんの対応をこっちが巻き取るってことに」

「それは……」


 本当は頼みたい。それだけで大分気持ちが軽くなる。あの父が仕事に絡めて何か持ち出してくるとは思えないが、私にとっては、相手が父だというだけで気が重いのだから。

 でも。

 その時、唐突に思い浮かんだ考えに、自分で自分に驚いたが、気が付けば言葉にして出していた。


「やっぱりいいです。ていうか、私に父の対応、全部任せてもらっていいですか?」


 言い終わってから、あっ、と思ったが、しかし撤回する気にはならなかった。


◇◆◇


 家に帰ってから、もう一度自分が言ったことを反芻していた。

 今後、プロジェクト上で先方弁護士に問い合わせる時は全て私が担当する、と。

 それは、何年も逃げ回っていた実家の父との交流の再開を意味する。

 

 あれだけ逃げ回っていたくせに。でも、今私が何かモチベーションを持って取り組めるとしたら仕事しかない。それ以外の場面で実家と連絡を取ろうとしたら、電話を掛けるだけで決意するまで何年かかるか分からない。


『プライベートを解決できるのは千早だけ』


 また来人のあの言葉が蘇る。結局、自分自身で動いたわけではなく、来人の言葉に背中を押されたのだ。

 そう思い至ったら、突然声が聞きたくなった。

 時計はもう深夜を指している。でも。

 部屋からスマホを取ってきて、私は来人の番号を表示した。

 何故か、来人は待っていてくれている、そう確信して発信ボタンを押した。




『やっとかかってきた』

 電話に出た来人の第一声がそれだった。私は恥ずかしくて、顔は見えないのに下を向いてしまう。

「今日はごめん」

『なんで。俺こそ大人げなかった。千早に口出ししすぎた』

「そんなの」

『今更だよな。ずっと口出しし続けて来たもんな』

 そうね。私は同意も込めて電話口で笑う。それは伝わったらしい。

『そっちからかけてきてくれたってことは、何か思いついた?』

「うん……、矢崎さんと来人が提案してくれた件だけど、あれ、やらなくていいよ」

『……お父さんとの折衝のこと?』

「うん。逆に、私を担当にしてほしい。お父さんとのやり取りは全部私がやる」

『それは……荒療治だね』

 確かに。いきなりすぎかな。でもそこまで追い詰めないと逃げそうな自分も感じるから。

「それくらいじゃないと向き合えないから……。お姉ちゃんが相手なら無理だけどね、お父さんなら何とか、ね」


『分かった……。じゃ、俺から明日矢崎さんに言っとくわ』

 あ、そうだった。

「矢崎さんにはもう言ってあるから大丈夫。納得してない感じだったけど、でもそもそも親子だって隠したりするほうが不自然なんだし」

 だから来人も常務に何も言わなくていいよ、と続けようとしたところで来人の声のトーンが変わった。


『なんで先に矢崎さんに言ってるんだよ』

 やば。

『まさか二人で会ってたんじゃないよね』


 ……上司と食事するぐらいいいじゃんよ……。

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