第81話

 夕食も食べ終わったところで、来人がやおら切り出した。


「矢崎さんから聞いた。お父さんが、クライアントの顧問弁護士なんだってな」


 まさか来人かこの話題を出されるとは思わなかったこと、そして矢崎さんから聞いたというのが意外すぎて、最初息が止まるかと思った。


「矢崎さんから……」

「誤解するなよ。あの人は千早を通すと遠慮しそうだからって、敢えて話してくれたんだ」

「うん、分かるよ……」


 そうだ、矢崎さんが不必要にあれこれ他人のプライベートを話すはずはない。きっと『弁護士関連の折衝は全て自分が持つ』と言った件を、来人にも協力させようとしてのことだろう。


 分かってはいても、予想外のタイミングで自分の根幹の傷に触れられたことで、私は知らずに震えていたらしい。気づいたら自分で自分を握り締めていた。

 指先が白くなるほど力が籠っていた私の手に、来人はそっと手を置く。


「嫌な話をしてるのは分かってる。でもプロジェクトはもう動いている。矢崎さんも千早に遠慮して最低限のことしか教えてくれなかった。でも俺は、仕事だけじゃなくて千早の全部を守りたいから、出来れば千早から話を聞きたい」


 優しく肩を抱き寄せられれば、私の頭が来人の顎の下にすっぽり収まった。巣に戻った鳥のように安心できる。ここでこの話を切り出してくれたのは来人の誠意なのだと、実感する。

 私の全身の緊張は、少しずつ抜け始めた。その分来人に体重をかけているみたいだが、少しくらいならいいかな。


「何から話せばいいのかな……」

「そうだな……、じゃ、千早が赤ちゃんの時から?」


 来人の提案に思わず吹き出す。そうね、時間はたくさんある。


「えーとね、生まれた時は三千グラムくらいで」

「それはいいから」


 来人も笑って、そして後は黙って聞き続けてくれた。


◇◆◇


 矢崎さんに話したのとほぼ同じ内容を、少しゆっくり聞いてもらった。矢崎さんには言えなかった大学時代の彼氏の話も。家族ではないけれど、私が交流を持った数少ない人物ではあるから。


 私の話がひと段落したと思った来人は、二人分のコーヒーを淹れて戻ってきた。


「そっか……。なるほど、だから姉貴はあんななのか」

「あの時に話せなくてごめんね。お姉ちゃんは……一番怖かったし、苦手。私のことが大嫌いなはずなのに、見つけると寄ってくるし」


 昔からそうだった。自分は友達と遊んでいるのに、たまたま私が近くを通りかかると走ってきて突き飛ばされた。私から姉に何かしたことはないし、逆らったことも歯向かったこともないはずなのに。


「きっとお姉ちゃんの気分を悪くするものが、私にあるんだよね」

 それはお母さんにも。お姉ちゃんほどひどくないとしても、似たようなものだった。これで私は実の子ではないというならまだ納得出来ただろうが、確認のため取り寄せた戸籍謄本には不審な記録はなかったし、お母さんが私を出産した時の母子手帳も見た。どうやら漫画のような分かりやすい理由はないらしい。


「姉貴とお母さんについては避ける理由は分かったけど、お父さんはどうしてだ?」


 少し言いづらそうに、でも今の私たちに一番大事な疑問を来人はぶつけてきた。


「お父さんは……」


 お父さんのことは、大好きだった。狭い家の中で唯一の私の味方だと思ってたし、母姉に理解されない私をお父さんだけは理解してくれていると思っていたから。だけど。


「私は何を考えているか分からない、って、親戚に零してたの。……信頼していた分、その一言で全部吹き飛んだ」


 結局お父さんにも理解されていなかったのだ、と知ったときの、地面が消えて底なしの穴に落ちていくような感覚を、あの情景を思い出すたびに再体験する。あの時の私の心の拠り所はお父さんだけだっただけに、どうしても耐えられず、衝動のまま家を出た。あの時の痛みは今も続いているのだと、昨日八年ぶりに顔を見て思い知った。


「お父さんが悪いんじゃないってわかってる。親子だから理解し合えるなんてことない。私が勝手に期待して、でも現実がその通りじゃなかっただけ。って、頭じゃ分かってるんだけど……」


 母と姉から受けた扱いも勿論辛い思い出だが、信頼していた父に『裏切られた』事実は、もしかしたら一番深く根を張っているのかもしれない。

 しかし、思いっきり自分事情なのに、仕事に影響させるなんてみっともない、恥ずかしい、情けない。

 矢崎さんはああ言ってくれたけれど、やっぱり。


「でも大丈夫。仕事はちゃんと出来るし」

 吹っ切ったように顔を上げてそう言ったが、来人は黙って首を振った。

「ダメ。やっぱり矢崎さんは正しかった。成瀬弁護士関連は俺と矢崎さんで全部巻き取る。佐々木のおじさん、じゃない常務にも俺から話して、二人が親子だってことは内密にしてもらう。だから千早は親父さんと関わるな」


 私はいつになく厳しい表情の来人に驚く。今までも結構上から目線で命令されたことはあるけど、こんな怖い顔は見たことない。


「大丈夫、常務には筋が通るように誤魔化して話す。千早のプライバシーは俺と矢崎さんで守るから安心しろ」

「そう言うことじゃなくて……」

「千早が考えなきゃいけないのは、プロジェクトのことじゃないんじゃないか?」


 私は来人の言葉に、パッと目の前の覆いを取られたような気がした。どうして彼はいつでも言いづらいことを言ってくれるのだろう。

 思わず下を向いてしまった私の顎を持ち上げ、来人は無理やり視線を合わせた。


「プロジェクトとしては、千早の力が無いと進まない。だから障害は取り除きたい。でもプライベートは……千早しか解決できない」


 そう言うと、ほら冷めるよ、と言ってコーヒーが注がれたカップを渡してくれたが、大好物を目の前にしているのに口を付けるのを忘れるほど、私は途方に暮れていた。

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